280 ママの気持ち
頭の髪がほんのりと温かくなる陽気の中を歩いて帰れば、はたして予想通りの結果が待ち受けていた。
「んんぅぅぅ~~~~~~~っ!!」
テーブルに着いて赤く色づく果実を口に含み、それこそ不等号とアスタリスクで描いたデフォルメキャラのような表情をしてぷるぷる震えているお姉さん。
飴色の柔らかそうなショートヘアを揺らしているのは、俺の出版の担当であるステイリアさんだった。
「……あっ、お帰りなさいです!」
「ただいまステイさん、いらっしゃいです」
「ただいまです~」
玄関でマールちゃんにカバンを渡してリビングへ行くと、ちょうどおやつタイムの真っ最中であった。
とはいっても、食べているのはステイさんとリソ君だけだが。 チャロちゃんは立って給仕中、お袋は弟くんの隣で様子を見ながらお茶を飲んでいた。
「おかえりなさい、おやつの用意できてますよー」
「おかえりなさい~♪」
「ただいまー、手を洗ってくるね」
チャロちゃんとお袋にもただいまを言って、俺と妹様はシンクへ直行した。
「んん~~~~~っ!!」
アセロラに似た、真っ赤で瑞々しい果物。 摘んでそのまま口に放り込むと、爽やかな甘みが来たと思った次の瞬間にモーレツな酸味が押し寄せてくる。
俺も思わず、イスの上で身体を丸め震えてしまう。 どんな眠気でも吹き飛びそうな酸味……だが、これがイイのだ!
「……ぷはぁーっ! キクぅぅぅーーーーーーっ♪」
《んきゃあーーーーーーーっ♪》
パンチの利いた酸味が過ぎ去ると、ほのかな甘みと香りが口の中に残り、生き返るような爽快感が全身を包む。 コレがたまらない。
俺の中のニアちゃんも楽しそうな悲鳴のような声を上げる。 感覚を共有しているのだろうか――と思ったが、どうやらただ俺に合わせて叫んでいるだけのようだ。
この刺激は非常に人を選ぶため、干したりシロップ漬けにするのが一般的だ。 干すとまさに干し柿のような歯ごたえと濃厚な甘みが出てきて、蜜に漬けると酸味が和らいで食べやすくなる。
「んふ~~~~~~っ♪」
俺の隣でセーレたんが食べているのは漬けた方で、それでも残っている酸味に目を閉じて、手に持ったフォークごと身体を震わせている。 果汁のいっぱい溶け込んだシロップを飲むと、これがまた美味しいんだよね。
リソ君が食べているのも当然こっちで、小さく切ってもらった実をシロップごとスプーンですくっていた。 どちらかというと、シロップの方がメインみたいになっているけど。
「それにしても、ジャスパーさんはそのまま食べられるんですねぇ」
「ええまあ……んくーーーーーっ!!」
感心したように俺を見る人妻編集さんに、俺は首を縦に振りつつまた一個を口の中へ。
普通の子供は、まずそのまま生では食べられないからねぇ。 だけど俺は前世の影響なのか、かいわれみたいな苦みのあるものや、これみたいに酸っぱいものもわりといける。 確かに子供の舌には刺激が強いのだが、むしろそれがいい! という感覚も俺には理解できる。
残念ながら、辛さだけは身体の方が受けつけてくれないけどな。
――甲高い声が響き渡るおやつタイムを終えてマールちゃんの待つ二階へ戻ると、着替えと打ち合わせの準備をしてからステイさんを呼ぶ。
セーレたんはリソ君の相手をしに、一人でまた一階へ下りていった。
「おおっ、もうできたんですね! 助かります~」
原稿を手渡すと、ステイさんは大層喜んでくれた。
「中には全然締め切りを守ってくれない先生もいたりして、いつも本当に困ってるんですよ」
「あー」
人妻さんががっくりと肩を落とす。 編集のさんの苦労は、こっちの世界でも変わらないらしい。
「では、次は私の番ですね。 ……なんと、表紙イラストのラフができましたっ!」
「おおっ!?」
「わぁ……!」
カバンから出して渡してくれた数枚の紙を受け取り、マールちゃんと二人で見る。
二頭身のねこ耳セーレたんとツインテマールちゃんをイメージした、二人のマスコットキャラを前面に押し出した表紙。 せっかく萌えキャラを入れるのだからと、表紙もとことん萌え系にしてはどうかと提案していたのだ。
とても参考書には見えないポップなイメージになっているけど、小さい子が初めての勉強に使うのなら楽しげな表紙の方がいいだろう。
ちなみにキャラクターの名前は、モデルからもじって「セイちゃん」「マリちゃん」と名付けた。 もじり方を工夫して、わざと日本人っぽいネーミングにしてみたのだ。
どのラフもキャラの可愛さを前面に押し出しつつ、大きな数字を散りばめてこれが勉強の本であることをさり気なくアピールしている。
「ジャスパーさん、どうでしょう!?」
「うーん。 いい意味で迷うなあ」
「どれも可愛いですよね」
紙の中を所狭しと、楽しそうに動き回っているキャラクターがとても可愛い。 もしかすると、ニアちゃんも産まれたらこんな感じになるかもしれないなーなんて考えてみると、なおさら可愛く見えてくる。
これは、どれも捨てがたいな……。
「――いっそのこと、表紙だけ変えて何種類か作っちゃいます?
それか、特製ブックカバーをつけて表紙と違う絵にするとか」
前世ではよくある方法だけど、こっちではどうなんだろうね?
試しに口にしてみると、お姉さん二人は目を丸くした。
「なあっ!?」「ええっ!?」
二人の反応を見ると、過去にないアイデアだったみたいだ。
渡した原稿と視線を往復させながら、ステイさんが俺に質問してきた。
「えっと……ジャスパーさん? それって、中身も変えるんですか?」
「ううん。 多少変えてもいいですけど、基本的には表紙だけ」
「それはまた、ぜいたくな……」
まあ、中身が一緒だったら表紙を変える必要性はないもんね。 ブックカバーも無地が基本だし。
しかし、担当さんはあごに指を当てて真剣に考え始めた。
「面白いアイデアだと思いますけど、コスト的にどうなんでしょうねぇ……」
「だったら、中表紙とか各章の扉絵に使います?」
「……それは、アリかもしれませんね。
会社に帰って、掛け合ってみますね」
そう言うと、間もなくステイさんは原稿をまとめて会社に戻っていった。
なんか、俺の思いつきで仕事を増やしちゃってごめんなさい。
――湯気のこもった石室の中で、俺は幼い裸体を晒す。
黒曜石のような浅い湯船に木の桶を突っ込むと、ちょうどいい温度のお湯を頭から被って全身の泡を落とした。 お湯に混じった泡が石の床を滑り排水溝に向かって流れていくのを、俺はなんとはなしに眺めながら長く息を吐いた。
「ふぃ~~~~~っ」
一人で入るには少々広い風呂場だけど、かといって家族と入るという選択肢は取り難い。 俺が目のやり場に困る上、逆に俺に対してはとある部分にやたら視線を感じるからな……。
男どうしでも、親父とは時間が合わないからほとんど一緒にはならないし、リソ君の世話をしながらだと触手が必須だ。
だけど、一人になれる時間というのは俺にとっては貴重なのである。
《きゃはははっ! わーい♪》
おおっと、そうだったね。 今は親子で水入らずだった。
俺がリラックスをするとオドにもいい影響があるので、ニアちゃんもご機嫌だ。 頬ずりをするように俺のオドに自分の身体を擦りつけ、その度に俺の全身にゾクゾクと快感が走って鳥肌が立つ。
これは、何度経験しても慣れないわ……。
「うううぅ……」
神経を直接なで上げられたような刺激の波が収まると、俺は浴槽をまたいでお腹の高さの湯船に浸かった。
まるでニアちゃんも湯船に浸かったようにくつろぎはじめ、俺はお腹をなでながらもう片手でお湯をすくい、自分の上半身にかける。
肩まで浸かる満足感が懐かしいけど……浴槽がそこそこ広いので、身体をリクライニングさせればそれも満喫できる。
あんまり長時間やっていると、頭を支えている背中や腕が辛くなってくるけどなー。
《ふぃ~~~~~っ!》
俺のマネなのか、気持ちよさそうな声が俺の中から聞こえてくる。
もしも今、娘の顔を見ることができるなら、その目は横線のように細くなっていることだろう。
《ニアちゃんも気持ちよさそうだね》
《うん、ふぃぃ~ってなるね!》
《ははは。 確かに、ふぃぃーてなるよな》
《ふぃーっ、ふぃーっ♪》
「ふわっ!? ……あ、あんまり暴れないで」
またニアちゃんがふるふると動き、俺はその刺激に危うく溺れそうになる。
いや……そっちの意味ではなく、浴槽の床についていた腕が崩れて物理的に溺れる、という意味で。
《ごめんなさーい》
てへりと明るく謝る娘をお腹の上からなで、俺は体勢を整え直して身も心もお湯に浸る。
世間一般でも長湯と言われている女性陣の中で、逆にセーレたんは早くて俺は長い。 俺は転生してから長湯になったな。
こうしてのんびりとお湯に浸りながら、いろいろ考え事をするのがお気に入りなのだ。
そして今日、俺が考えているのは――お袋のことだったりする。
「……」
お袋がくれた、出産に関するいわゆるハウツー本のことを思い出す。
まるで受験生の赤本のように何度も開いた跡があり、大事なところにアンダーラインや書き込みが入っていた。 俺にとって衝撃的だったのは出産時や産後のリスクについても触れているところで、一般的に百数十人にひとりと言われる出産時の死亡率が、双子や逆子などの場合には数倍以上になるという記述のあるページは――。
波線のように揺れた下線が何回も何回も引かれ、水か何かで濡れてにじんだような跡があった。
俺と妹様を身ごもっていた当時、まだ成人したばっかりだったお袋は――どんな気持ちだったのか。
安全を保証された妊娠である俺には、砂の一粒ほどにしか感じることができていないだろう。 それでも、たまに震えて身を丸めたくなるのに。
その一方で、楽しそうに俺とセーレちゃんの名前の案を鉛筆で書いては消してを繰り返しているページもあった。
筆跡を見てもそこはとても楽しそうで、特に今の俺達の名前はぐるぐると何重にも丸で囲んで『決まり!』と横に書いてあった。
残念ながら俺には名前をつける機会はなかったけど、その気持ちは数年前の筆跡から痛いほどに伝わってきた。
「……」
氷のような冷たさと日だまりのような温かさが、俺の中で荒れ狂う。 俺は目を瞑り身を丸め、息も止める。 するとほぼ全身が心地よい温もりに包まれ、重力からも半ば解き放たれて、穏やかな波間をたゆたう存在となった。
まるで、母の胎内に抱かれる赤子のように。
《ニアちゃん。 ――俺も頑張るから、元気に産まれてきてくれな》
《うんっ、ママ!》
子供を抱く母の気持ちと、母に包まれる赤子の気持ちを同時に感じながら、俺は思った。
本当、お袋は偉大だよ……。




