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体験版(前編)

 画面は開発中のものです。

 製品版とはストーリーが異なります。

 飛行機が発明される前の時代、人々はいつか登場するであろう空を旅する乗り物は、気球のついた馬車のようなものになると予想していた。

 当時の人たちに、未来では翼のついた細長い鉄の(かたまり)に乗ってみんな空を飛んでいますよと説明しても、頭のいかれたやつだと石を投げられるだけかもしれない。

 そこまで(さかのぼ)らなくても例えば二十一世紀がはじまったばかりのころ、携帯電話が本当にただの携帯できる電話でしかなかったころ。

 十年後にはそこから物理ボタンが消え、モノクロに毛の生えたような色数しか表示できない目の粗いディスプレイは色彩豊かな高精細となり、世界中の人たちと音声だけでなく動画でもやりとりできるようになって、あらゆるサービスもそれを介して行うのが常識となり、他にも映画に音楽、本やゲームも基本的に無料で楽しめる世の中になっているよと事実を伝えても、子供の妄想だと失笑を買うだけかもしれない。

 そんな基本無料が当たり前だった二〇二〇年代の人たちにとっての未来とは仮想現実や拡張現実のことであり、それらは眼鏡型のデバイスを用いて実現するものだと信じられていた。

 実際、当時はそういう商品がいくつも出回っていた。

 任天堂が九〇年代に発表したゲーム機みたいなゴーグルを大真面目に頭に取り付け、プレイステーション2くらいの解像度の世界を歩き回って、そこに未来を感じていたのだ。

 高額なくせに壊れやすく、盗まれやすく、毎日充電する必要まである、まるで持ち歩くバツゲームみたいな道具を『賢い電話(スマートフォン)』と呼んでいた時代。

 なんだか微笑(ほほえ)ましい。

 当時の人たちに、三十年後にはスマホもARレンズもVRゴーグルもなくなって、全部ここに収まっているんですよと、あれを見せたらなんて言うだろう?

 きっと、こう言うだろう。

 ──お前はどうして背中にコンニャクなんてつけてるんだ? って。


 ところで、僕には歴史を勉強する意味がわからない。

 むかしむかし、あるところでこんなことがありました──と聞かされても、はあそうですか、以外の言葉が出てこない。

 そもそも、そんなことどうやってわかったんだ?

 文献が残ってるから? それが誰かの創作ではないという証拠は?

 それに、実はあの事件は存在しなかったとか、例のできごとは別の時期に起きたことだと判明しましたとか、後からちょくちょく修正を入れてくるのも引っかかる。

 恐竜の模様なんて、その年の流行でもあるみたいに毎年変わっている気がする。

 彼らは六六〇〇万年も前に絶滅しているというのに。

 歴史の授業はタイムマシンが完成してからでも遅くないのでは、とさえ思う。


 ただ歴史の勉強は好きになれない僕だけど、歴史的な人物にはなぜか興味を持てた。

 アインシュタイン、シェイクスピア、モーツアルト、エジソン、ジョブズ──。

 ある時代や文化を象徴する存在と、その物語には()かれるものがある。

 今この時代のそれは誰だろう?

 考えるまでもない。

 世界中の誰もが迷わず同じ名を()げるだろう。

 この時代の文化、文明の象徴。創造主といっても過言ではない。

 その名は──茨楽舞羅(いばらまいら)

 雲の上の存在? そんなに近いはずはない。天と地でもまだ不十分だろう。自分なんてなんの比較対象にもならないくらい果てしない距離があるはずのその少女は、しっとりとした笑みを浮かべて、僕の前に立っている。


 困ったな。意味がわからない。それに記憶もない。

 教室の後ろに僕は立っていて、目の前に茨楽舞羅がいる。手を伸ばしてもギリギリで届かないくらいの距離。

 うちの学校ではないどこかの教室。

 僕はどうしてここにいる? どうやってここまできた?

「おはよう」小さく片手を上げて、茨楽舞羅は言った。

 深い紺色のスカート、半袖のセーラー服の上に白衣を羽織り、首からさげている金色の細長い(くさり)の先には、さくらんぼみたいに二つの懐中時計が腰のあたりでぶらさがっている。

 彼女のトレードマークともいうべきその格好(かつこう)は世界中の少女たちに憧れとして広がり、模倣されていた。

「異常は──」茨楽舞羅は数歩こっちに近づいて僕を見上げた。「どこもないみたいだね」

 納得して、うなずいている。

 小柄なのは知っていたけど、実際に本人を目の当たりにすると、身長差以上にそのあどけなさに驚かされる。

 僕と同じ高校一年生のはずなのに、中学一年生に見えた。

「……どういうこと?」

 偉大な人物を前に、記念すべき第一声はこれでよかっただろうか? いや、これしかないだろう。今の感情の全てが集約されている。

「おめでとう」ぱちぱちと軽い拍手をしてきた。「きみはプレイヤーに選ばれました」

 まいったな。疑問に答えるどころか謎を拡大してきたぞ。

「どういうこと?」だから同じ言葉を繰り返してしまう。

「疑問を(てい)する前に、自分の現状を確認してみるというのはどうだろう?」

 その言葉でようやく己の置かれている状況の異様さに気づくことができた。

 知らない教室の後方に棒立ちの僕。

 両手は(へそ)の辺りで固定され、白色のゲームパッドを握らされている。ピーナッツを横倒しにしたような形状のレトロなスタイルで、どうやら『アシス』が網膜に映し出した擬似的なものではなく、実体のあるプラスチック製のものだ。

 パッドの左側にある十字キーと右側に一つだけ配置されいる大きな丸いボタンをカチャカチャと操作してみたものの、特に反応はない。だがそこで、新たな気づきがあった。

 腕を、動かせない。それどころか、足も首も凍ってるみたいに微動だにしない。

 自分の意思で動かせるのは手の指と足のつま先、後はまばたきができるくらい。

 一体これは? かなしばり?

 僕が我が身に起きていることを一通り把握したと理解したのか、茨楽舞羅は口を開く。

「お気づきの通り、きみの行動を制限させてもらっているよ」

「どうやって?」

 言いながら、なんとか体を動かそうと試みるも、ぴくりともしてくれない。自分の体じゃないみたいだ。

「わかるだろ? きみの『アシス』を操作したのさ」

「そんなことできるわけ──」

 咄嗟(とつさ)に否定の言葉が口を()いたが、言いきることはできなかった。

 なぜなら、相手は茨楽舞羅なのだから。


 毎年、老人の数は減りつづけ、もう世界には数えるくらいしかいない、(ある)いは恐竜みたいに絶滅したとまでいわれている。

 身体機能補助装置(アシスタントマシン)、通称『アシス』は当初その名の通り、先天的もしくは後天的な肉体の不自由を補うために開発された。

 液体結晶(リキツドクリスタル)という透明でやわらかい素材で覆われた質感と外見のデバイスは、まるでコンニャクそのもので、世に出たばかりのころは蔑称(べつしよう)として、今では愛称としてそう呼ばれている。

 それを背中の肩甲骨(けんこうこつ)と肩甲骨の間に着けることで『アシス』に搭載されている数千億以上の自立型ナノマシンが体内を巡り、問題を解決してくれるのだ。

 事故、病気、加齢などで課題のあった手足を健常な状態に回復してくれるそれは、多くの人たちにとって希望となった。

 さらに『アシス』の進化はそこでとまらなかった。

 脳波とインターネットの接続を成功させ、空想科学小説の定番ではあるけれど現実では不可能とされていた、思い浮かべるだけで思考の解答を脳内に出力させることに成功。

 184157412×2841の答えは523191207492だし、合衆国十代目の大統領はジョン・タイラーで、日本で最初にカレーを食べたのは白虎隊の山川健次郎という人、ただし諸説あり。

 さらにアシスは視覚機能の拡張も搭載して、ネットとの連携により様々な情報を網膜に直接表示が可能となって、メガネなんてかけなくても拡張現実(AR)を実現させた。

 拡張現実(AR)はアシスの基本機能であるPSと相性がよく、相乗効果で一気に世界に浸透した。

 PS──すなわち疑似(Pseudo)感覚(Sensation)は網膜に映されている画像情報の該当箇所に接近すると肉体が反応する機能のことで、これにより空間上に表示された仮想のキーボードを打つ、ボールを蹴る、ゲームパッドを握って操作することを実現させた。

 疑似感覚は感触を与えるだけではなく、奪うことも可能で、これは医療機関や事故現場など、限定された状況で特別な権限を持つ者だけに許可されている。

 新しいものが否定されるのは世の常で、スマートフォン、インターネット、ロックにバイク、ビデオゲームまでは理解できても、手洗い(うがい)といった公衆衛生すら提唱された当時はそんな行為は無意味だと関係者からも反発されていたという。

 ()(てい)にいって、最先端の医療と娯楽を融合させたアシスに対する世界の拒否反応は想像以上で、脳と体を乗っ取られる、政府のロボットにされる、狂気の発明、人類史上最悪の人権侵害──などなど強い言葉が並んだ。

 それを一瞬で黙らせたのが三年前、アシスに搭載された新機能、細胞の遡及(そきゆう)と最適化だった。

 それはつまり、それこそ物語の中にしか存在しなかったもの──若返りである。

 もう目が見えない、体も動かせない、生きているのか死んでいるかもわからないよぼよぼのおじいちゃんが数時間後には、どこまでも見渡せる目と疲れを知らない体を取り戻し、しわくちゃのおばあちゃんは孫と見分けがつかなくなった──そんな光景を目にした人々は我先にとアシスに手を伸ばす。

 高い安全性が実証されているインフルエンザワクチンすら警戒する心配性の方々も、迷わず未知なる透明なコンニャクを背中に着けはじめた。

『老いることは素晴らしいこと』『人は老化が進むほど幸福度が上がると研究で明らかになっている』そんなことをメディアで口にするのが日課となっていた高齢の識者ほど、血眼(ちまなこ)でアシスを求めた。

 スーパーマリオやゼルダの伝説の生みの親であるビデオゲームの神様、宮本茂(みやもとしげる)はアイデアという概念について『複数の問題を一気に解決するもの』と定義した。

 ならばアシスは究極のアイデアといえるだろう。

 狂気の発明だと唾棄(だき)されたデバイスは人々を狂喜させ、人類はついに賢者の石の錬成に成功したのだと勝鬨(かちどき)を上げた。

 そんな驚異の発明をしたのは誰でしょうと三十年前の人に()けば、おそらくグーグルかアップルかOpenAIの名前が出てくるだろう。残念ながらそれらはもう、昔はすごかった会社くらいの認識しかされていない。

 アシスを開発したのは企業ではなく、たった一人の、女の子。

 おそろしいことにアシス第一世代を発表した当時はまだ八歳だった。

 その女の子の名は、茨楽舞羅(いばらまいら)


 二十兆円。それはアシスのハッキングに成功した者、もしくはアシスのバグを発見した者に提示されている懸賞金の額である。

 受けとった人が現れたと聞いたことはない。誰もそんなことはやろうと思わないだろうし、そもそもできないのだろう。できるとするなら、それこそ茨楽舞羅くらいで、そしてその茨楽舞羅本人が僕のアシスを操作していると言った。

「……こんなことして、僕をどうしたいんだ?」

「ゲームをプレイしてもらいたいんだ」

「ゲームって、どんな?」

 わざわざ前時代的な物理パッドを握らされているのだから、おそらく古い作品だろう。テトリスとかパックマンとか魔界村とか。

 茨楽舞羅は言う。

「鬼ごっこ」

「なんで?」

 だったらゲームパッドなんていらないじゃないか。鉄アレイを渡されてプリンを作れと言われた気分だ。

「ボクからは以上だよ。それじゃあ、ゲームスタート」

 ぱんっ、と茨楽舞羅は手を鳴らす。

「待ってよ、せめて体を動かせるように戻してよ」

「それはできない。きみはプレイヤーであってキャラクターじゃないんだから」

 何だよそれ、と言いかけたそのとき、少し開けた視界が三つの影を認識した。

 僕と茨楽舞羅より離れた場所──教室の前方、黒板の前に三人の少女がいた。

 三人とも違う学校の制服を着ているけど、おそらく高校生だろう。

 すぐに気づけなかったのは、床にぺたりと脚をハの字にした、いわゆる女の子座りをしているせいかもしれない。

 いうまでもなく、彼女たちはこっちを凝視している。それから気づいたことがもう一つ。

 この教室は極端に机の数が少ない。

 僕と少女たちの中間に位置する場所に、机と椅子がそれぞれ一つだけ。

 不自然だが、何か意図を感じる。

「どうしたんだい? 指は動かせるだろう?」

 ちらっと茨楽舞羅は僕の手の中のゲームパッドに視線を移した。

 ヒントをくれたような気がした。

 なんとなく、十字キーの右を押してみる。すると、正面にいる三人の少女の左側の子の頭上に逆三角形のカーソルが出現した。よくある拡張現実(AR)のアイコンだ。

 もう一度キーの右を押すとカーソルは真ん中の子に、もう一度押すと一番右の子に、もう一度押すとカーソルは左の子に戻った。

 パッドに一つだけついている丸いボタンを押すと、少女はおもむろに立ち上がる。そして頭上にレトロゲームのように角ばったフォントで『朝霧喜涙(あさぎりきる)』と表示された。

 名前の隣にウィンドウが開き、そこに『いどう』『どうぐ』『そうび』『キャンセル』とコマンドと(おぼ)しき単語が縦に並んでいる。

「……あ、声が出せる……」立ち上がった少女、朝霧喜涙は、どこか安心したように言葉をこぼした。肩まで伸ばした落ち着いた髪型の、おとなしそうな雰囲気をまとっている。

 察するに、彼女も僕と同じように、体に何らかの制限を設けられているのだろう。

 僕はパッドを操作して他の二人も立ち上がらせた。

「あー! やっと喋れる!」両手を上げて大きく伸びをしながら右側の少女、昼葱初月(ひるねひとつき)は声を解放させた。綺麗な長い金髪、見たままの活発な印象と大胆に胸元を開いたシャツは現在リバイバル中である二〇二〇年代のいわゆるギャル風のスタイルだ。

「……あなた、茨楽舞羅さんですよね? あなたがこんなことを? どうしてあなたみたいな人が? 目的はなんですか?」

 中央の少女、夜戯拶依(やぎさつい)は戸惑っている。生真面目な態度と声色は彼女の学校での立ち位置を連想させた。なんとなく、生徒会に所属している気がする。

「え? 本当に本物の茨楽舞羅なの? 実在しないって聞いたよ?」昼葱初月はとぼけた様子で小首をかしげる。彼女が手首に付けているあのふわふわしたアクセサリーは何という名前だったか気になって頭の中でサーチアシストにコールしてみたものの、応答がない。どうやらネットはできないようだ。

「茨楽さん、お願いします。私たちを帰らせてください! 私、今日……たいせつな塾があるんです」朝霧喜涙は手をあわせて哀願する。

「せめて体を自由にしてもらえませんか?」夜戯拶依が言う。彼女たちも行動を制限されているのは間違いないけれど、僕と違って上半身はある程度自由に動かせるらしい。

「それはもう、彼次第だね」茨楽舞羅は僕を見ながら答える。

「あなた、茨楽さんの何なの?」

 夜戯拶依が疑惑のまなざしで僕に訊ねてきた。まぎれもなく赤の他人ですよ。

「お願いします。助けてください」朝霧喜涙の祈りの矛先がこっちに向いてきた。

「……あの、どうすれば?」

 隣にいる茨楽舞羅に助言を求める。

「だから、鬼ごっこをすればいいんだよ」

「意味、わからないんだけど」

「鬼ごっこを知らないのかい?」

「いや、知ってるけど」

 知らない人を探すほうが難しいであろう、おいかけっこの代名詞。

 鬼役が人役にタッチすると、その人が鬼になってそれから──あれ? タッチした鬼は人に戻るんだっけ? そもそも鬼ごっこって終わりはあるんだっけ?

 思考に意識を集中させて『鬼ごっこ ルール』でサーチアシストにコールしたけれど応答はない。そういえばネットができないんだった。なんだかもやもやする。スマホをなくした昔の人もこんな気持ちだったのだろうか。

 とにかく現状をどうにかするべく、拡張現実(AR)に表示されているコマンドに目を向けながら、パッドを操る。

 朝霧喜涙にカーソルをあわせて『いどう』を選択。そして十字キーを押す。

「え? え? なに? なに? なに? 体が勝手に──!」

 僕の操作に呼応して、朝霧喜涙は狼狽(ろうばい)しながら脚を一歩前に。

 良くも悪くも予想通り。このパッドは彼女たちのアシスと連動している。

 さて、それでどうする? 鬼ごっこといっても鬼は誰? どうすれゲームクリア? そもそもこのゲームの目的は?

 いくつもの疑問を練り込んだ視線を茨楽舞羅にぶつけてみたものの、彼女は(あお)るような笑顔でそれを(はじ)く。

 自分で考えろ、ということだろう。

 ひとまず僕はもう一度、朝霧喜涙のコマンドを開く。

『いどう』『どうぐ』『そうび』『キャンセル』

 何か状況を打開するものを持っていてほしいと願いながら『どうぐ』を選択。

 しかし、(から)っぽのウインドウが展開されただけ。つまり、何も持ってない。

 次に『そうび』を選択してみると『白のブラウス』『黒のプリーツスカート』の二つが並んでいた。見たままの彼女の身につけているものだ。

『白のブラウス』を選んでみる。

「え? ちょっとまって? 手が──」

 誓っていうけど、僕はやましい気持ちや期待からその選択をしたわけじゃない。ただ、流れでボタンを押しただけ。本当に。

 朝霧喜涙は困惑しながら、白い半袖ブラウスのボタンをはずし、そして脱ぐ。

 露出する肌の面積が一気に広がり、白い下着も露見する。

「な……なにするんですか!」

 腕を交差して胸元を隠し、変質者を見る目で僕を糾弾(きゆうだん)する。

『白の下着』『黒のプリーツスカート』

 彼女の『そうび』にも変化が生じていた。

「きみきみ、スケベはいかんよ」からかうように、昼葱初月から注意される。

「最低」夜戯拶依から短い軽蔑の声。

「ご、ごめん!」

 (あわ)てて『どうぐ』を呼び出し『白のブラウス』を選択。

『なげる』『みにつける』とコマンドがつづく。カーソルの初期位置が『なげる』に設定されていたため、勢いあまってそれを選んでしまう。

 結果、手にしていた服を朝霧喜涙は豪快に投げた。

 それを見た茨楽舞羅と昼葱初月は思わず吹き出し、夜戯拶依は軽蔑の色を濃くし、朝霧喜涙は怒りを(あらわ)にする。

「ごめん! わざとじゃないから!」

 嘘じゃないけど、信じてはくれないだろう。

 誠意は行動でしか伝えられない。僕は脇目もふらず、操作に集中する。

『いどう』で服を落とした場所まで進んでもらうと『ひろう』というコマンドがあらわれたのでそれを選択して、次に『どうぐ』を選び『みにつける』にたどりつき、彼女は元の制服姿に。

 この程度の単純作業に分不相応な手数を強いられ、むだに疲弊する。

 散々振り回された結果、ふりだしに戻っただけ。

 いや違う。

 彼女たちからの評価は石油が掘れるくらい深い場所まで落ちたはず。

 ただ一人、茨楽舞羅だけは楽しそうだ。

「さあさあ、早く鬼ごっこをはじめておくれ」

 ラッコみたいにぽんぽんと手を鳴らす。その仕草だけはかわいい。

「せめてヒントが欲しいんだけど。そもそもこのゲームの目的は?」

 それくらいの知る権利はあってしかるべきだろう。

「鬼ごっこをしてくれればいいんだよ」

 鬼ごっこは鬼ごっこなんだから鬼ごっこをしろ。こういう無意味なやりとりをトートロジーっていうんだっけ。

 (らち)が明かないので、腹を(くく)って手探りで進むことにする。

 さて、どうする?

 普通に考えれば、三人いる女の子の誰かが鬼なんだろう。

 それで?

 その子を他の子にぶつければいいのか、それともその子から遠ざければいいのか。

 三人とも僕の操作で動かすことができるのだから、鬼を勝たすことも負かすことも可能だ。

 ひとまず、鬼を見つけよう。

「あの、ちょっといい?」離れた場所にいる三人の少女に声をかける。「みんなの中で誰が鬼なのか、わかる人っている?」

 三人は互いの顔を見合わせたあと、首をかしげ、僕に目を向けた。

 お前は何を言っているんだ? 三人とも、そういう顔をしている。

 鬼役が知らんぷりをして素性を隠している、という雰囲気もない。

「せめてこれだけは教えてくれると助かるんだけど」僕の隣で教室の壁に背を預けている茨楽舞羅に話しかける。「あの子たちって、鬼ごっこのことは知ってるの?」

「知らないよ」あっさりと答えてくれた。

 じゃあ、どうすればいいんだ?

 これから僕が彼女たちにルールを説明すればいいのか?

 今からみんなで鬼ごっこします。まずは朝霧さんが鬼で、僕が朝霧さんを操作して他の二人を追いかけて、同時に僕が他の二人も操作して、朝霧さんに捕まらないように逃がします──そう言えばいいのだろうか。そもそも、それの何が面白いんだ?

 バグと遭遇したみたいに固まった僕を横目に、茨楽舞羅がひょいっと一歩前に出た。

「さて、そろそろゼビウスの時間はおしまいにしようか」

「ゼビウスの時間?」聞きなれない言葉だ。

「きみはゼビウスを知っているかい?」

「昔のゲームだよね?」たぶん、間違ってないはず。

 茨楽舞羅はうなずく。

「一九八三年、ナムコから発表された歴史的な縦スクロールのシューティングゲームだ。高いゲーム性はもちろんのこと、画期的なビジュアルと世界観、音楽、キャラクターに至るまで、後の作品に多大な影響を与えている」誰かに話したくてうずうずしていたのか、茨楽舞羅は雄弁に語る。「その中でもボクのお気に入りは、ゲーム開始から数秒間の敵の挙動なんだ。一体、敵は何をしてくると思う?」

 サーチアシストは使えないので、自分の頭で考えるほかない。

「……わからない」結果、何も思いつかなかった。

「何もしてこないんだ」

「え?」

「それどころか、敵たちはプレイヤーの機体を避けるように逃げていく」

「どうして?」

「ゲームに不慣れなプレイヤーをすぐにゲームオーバーにしないための救済処置だよ。小さなことかもしれないけど、これも優れたゲームデザインといえるだろうね」

 機会があれば試してみるといい。ゲーム開始から最初に砲撃してくる敵が出現するまでの間は、操作しなくても敵のほうから勝手に避けてくれるから、と茨楽舞羅は教えてくれた。

 そんなことをいわれると、確かにやってみたくなる。

「ちなみにゼビウスの時間というのはボクの造語だから検索しても出てこないよ。スタートしてからしばらくはあえて攻撃しない、優しいひとときのことさ」

「ええっとつまり……今やってるこの鬼ごっこにも敵はいて、僕はその攻撃から守られていた、っていう解釈であってる?」

「飲み込みが早くて助かるよ。きみは優秀なプレイヤーだね」

 腕を組んでうなずいている。ほめられいるような、からかわれているような。

「敵ってどこにいるの?」

「ここにいるだろ?」と茨楽舞羅は腕を広げてみせる。

「きみ?」思わず目を丸くする。

「ボク」目を細くして、口角を上げている。

 茨楽舞羅は前かがみになり、足元にあった白いクーラーボックスを開けて、小さく透明な(びん)を取り出した。そこには何かの果汁みたいな(あわ)く赤い液体が入っている。

「スコヴィル()という言葉を聞いたことは?」

「ポケモンの名前?」記憶のどこにもない言葉だったので、思いつきで答える。

「正解。よくわかったね」

「え?」当てずっぽうが、当たってしまった。

「冗談。適当に答えるから、適当に返しただけだよ」(あざけ)るような笑み。同い年のはずなのに、見た目の幼さのせいで、子供に挑発されているみたいだ。「では正解を教えてあげよう」

 羽織っている白衣のポケットからスポイトを取り出すと、茨楽舞羅は右手にある小さな瓶にそれを()して、中身を吸い上げる。

「あーん」

 言いながら手を伸ばして、僕の唇のそばにスポイトの先端がやってきた。そこには得体のしれない赤い液体が入っている。

 間違ってもあれを口に入れてはならないと、全身が警報を鳴らす。

 僕は一文字(いちもんじ)に口を閉じて拒否権を発動する。

「あーん」

 飼い主がペットに(しつけ)をするみたいに、ほらほら、こうするんだよと誘導するように、茨楽舞羅はもう一度、同じ言葉を発して口を開いた。

 根競(こんくら)べのつもりなのか、茨楽舞羅は小さな口を大きく開いた状態を維持している。

 天は二物を与えずという言葉はあるけれど、それは言葉として存在するだけであって、必ずしも現実がそうなっているとは限らない。

 その桁外れに高い頭脳に匹敵する(ひい)でた容姿の持ち主でもある茨楽舞羅には、見た目だけに魅せられたファンも数多く存在している。

 要するに僕の前方では、かわいい女の子が口を開けている、という状況がある。

 なんだろう、じっと見ているのは、よくない気がする。

 著名な彫刻を再現するみたいに、茨楽舞羅は口を開け、スポイトを掲げたまま動かない。

 とても気まずい。

 どうしても、彼女の口の中に視線を吸い寄せられてしまう。

 そのとき小さな舌が、小動物みたいに、チロチロと動いた。

 言語化できない気恥ずかしさに負け、僕は強くまぶたを閉じる。迂闊(うかつ)なことに、そのとき口が少し開いてしまう。

 相手がそれを見逃すはずはなく、口内にポリエチレンの感触。

 細長い物体の先から(しずく)が一つこぼれる。それが舌に広がる。すぐに吐き出せばいいのに、誤って飲み込んでしまう。

「…………」

 とりあえず、なんともない。今のところは。

「気分は?」

 スポイトを顔の高さで掲げ、首をかしげて()いてくる。

「……ちょっと、ピリっとしたかな?」素直な感想を()べる。「これは、調味料?」

(から)さだよ」

「辛さ?」

「スコヴィル値というのは辛さを(はか)る単位でね、例えば一般的な辛口カレーのスコヴィル値は50前後といわれている。今きみに試してもらった『辛さ』のスコヴィル値は1だから、甘口カレー未満の、小さなお子様でも安心の辛さだよ」

「そうなんだ」言われてみれば、それくらいの害のない辛味だった。

 茨楽舞羅はスポイトを手に、三人の少女たちの元に向かう。

 何をされるのかと身構える朝霧喜涙は、茨楽舞羅と一言二言、言葉を交わすと、そこからは特に抵抗することなく、口を開けて辛さを受け入れた。

 それは昼葱初月も同じだった。ぺろりと舐めて、もっと辛くても大丈夫だよ、と言っている。

 二人に異変がないことで警戒する必要がないと判断したのか、夜戯拶依も餌を咥えた親鳥を迎える小鳥みたいにスポイトに口を近づけている。

 それは不思議というより、どこか不気味な光景だった。

 行動を制限され、おもちゃみたいなパッドで体を操られているという出来損(できそこ)ないの悪夢みたいな事態にもかかわらず、みんな落ち着いている。

 僕だって、特に取り乱したりはしていない。ただ困惑はしている。

 鬼ごっこをしろと指示されたものの、どうすればいいのかまるでわからないし、実際何もできていないけれど、それに対するペナルティーは、子供だましの液体を舐めさせられただけ。

 茨楽舞羅ほどの人間が無意味にこんなことをするわけがないとわかってはいても、その狙いは未だ不明。

 頭脳に極端に差があると相手の言動が理解できず、虫や植物と意思の疎通を図っているかのような感覚に陥ると、どこかで読んだ記憶がある。

 例えばここが極寒の地だとする。今にも凍えそうな僕の隣で茨楽舞羅は突然、枯れ葉のそばで石と石をぶつけはじめた。これでもうすぐあたたかくなると彼女は言うけれど、僕に火起こしの知識がなければ、彼女は寒さでおかしくなってしまったと決めつただろう。

 今ここで起こっているのも、そういうことなんだろうか。

 ゲームの目的を一切明かしてくれないのは、それを受け入れられる最低限の素養を持ちあわせていないので無意味だと最初から切り捨てられているからなのか。

 生まれてこの方、ほとんど使ってこなかった新品同様の頭をひねっていると、誰かの悲鳴がそれを中断させた。

 悲鳴の発信源、夜戯拶依は苦悶の表情を晒している。

「どうしたの?」

 僕、朝霧喜涙(あさぎりきる)昼葱初月(ひるねひとつき)、三人の声が重なる。

 (あご)がはずれたみたいに口を開けて放心状態の夜戯拶依(やぎさつい)から、こんな一音がこぼれた。

「────か」

 か?

「からい」

 たった三文字の言葉だし、聞き間違いではないだろう。

 どうやら(から)かったらしい。

 スコヴィル値1の、本当に(から)いかどうかすら怪しいあやふやな口当たりだったのに、彼女にとっては悲鳴を上げるほど(つら)い仕打ちのようだ。

「マジで言ってる?」昼葱初月が真顔で()いている。

 こくんこくんと、夜戯拶依は何度も頭を縦に振る。本気で効いている様子だ。

「大丈夫?」朝霧喜涙は心配そうに声をかけている。

 いくらなんでも大袈裟(おおげさ)ではと思ったものの、甘口カレーでも食べられない大人はいるし、僕だってすっぱいものは苦手だ。

「それじゃあ、次いってみようか」

 一人だけゲームを楽しむように、茨楽舞羅は声を(はず)ませている。その左手には空のスポイト、右手には赤い液体の入った新しい(びん)。液の色は先ほどのものより濃くなっていた。

「カレーライスのチェーン店に行ったことは?」

 僕に訊いてきたので、まばたきで肯定する。

「そういう店では通常、辛さに選択肢が用意されているものだ。一辛(いちから)から十辛(じゆつから)までの十段階が一般的だね」

 教えを(しめ)しながら、茨楽舞羅は瓶の赤をスポイトに移す。

「十辛のスコヴィル値はおよそ1200──それをお試しあれ」

 銃口のようにスポイトを顔の前に突きつけてくる。

 お試しあれと、気軽なふるまいで現れたのはスコヴィル値1200の辛さ。

 さっきは1だったのに今度は1200と一気に1200倍の刺激が(せま)ってくる。

 当然、躊躇(ちゆうちよ)していると、視線を感じた。

 それは茨楽舞羅の後方から向けられてきたもので、そこに目をやると三人の女の子たちが、じっと僕を見守っていた。

 ここで辛さを拒否するのは逃げているようで情けない気がした。

 いいところを見せたいという欲も働いたのか、僕は素直に舌を伸ばす。

 スポイトから赤い一滴がおちる。それを飲み込む。

 意外なことに、なんともなかった。それどころか果実のような甘みすら感じられた。

 数秒後。

 げぁ、と。踏みつけられたカエルみたいな声で(うめ)く。

 思い出したようにこみ上げてくる辛さ。それ以上に、熱い。なにより、痛い。

 胃の周辺を燃やされていくような感覚。

 僕がげほげほ()いているのを横目に、茨楽舞羅は背後の少女たちに笑顔で近づいていく。

「はい、あーん」

 茨楽舞羅は朝霧喜涙にスポイトを向ける。

「い、いやです。私も……辛いの、そんなに好きじゃないです……」

 塩を一粒舐めたあとで、次は山葵(わさび)丸齧まるかじりしろと命令されているようなもの。何よりいまだに咳きこんでいる僕を目の当たりにしているので、恐怖を覚えたのだろう。

 無論、それで納得する茨楽舞羅ではなく『はい』と答えるまで態度を変えない昔のゲームのキャラクターみたいに、スポイトを構えた姿勢を崩さない。

 今にも泣き出しそうな朝霧喜涙。

「いいよ、私がやる」

 そのとき、そばにいた昼葱初月が名乗りを上げた。

「え、でも……」

「いいって。私、辛いの得意だから」

 身代わりが現れるとは思ってもいなかったようで、戸惑う朝霧喜涙に対して昼葱初月は笑ってみせた。

 その申し出を承諾して、茨楽舞羅はスポイトを昼葱初月に向けた。その先端に唇をつけると、彼女は中身を一気に吸い込んだ。

 唇を離して、液を飲み込む。

 ふうっと一息ついたあとで「あれ? 意外と辛くない?」と拍子抜けした次の瞬間、悪い風邪を伝染(うつ)されたみたいに、何度も咳きこむ。

 味わった者だけがわかること。あの辛さは遅効性なのだ。

「ごめん……大丈夫? 本当に、ごめんなさい……」

 本来なら自分がそうなっていたはずの苦しみを受けている相手に、朝霧喜涙は下瞼(したまぶた)に涙をためながら謝罪している。結局、彼女は泣いてしまった。

「平気、平気。もっと辛いカレーとか食べたことあるし、ちょっと体が熱くなっただけだよ。ほら見て、汗すごくない?」

 場を和ませようと、汗ばむ腕を見せつける昼葱初月。それを見た朝霧喜涙は気負っていたものが少し和らいだように笑って、夜戯拶依は眉を(ひそ)めている。一方の僕は、こんなときだというのに彼女の開いた胸元にもしっかりと水滴が浮かんでいるのを確認してしまうことに、自己嫌悪する。

「おやおや、空になってしまったよ」

 吸いつくされたスポイトをしげしげと眺めたあとで、茨楽舞羅はクーラーボックスの中から新しい瓶を取り出した。

 これまでのものより一層赤く、濃い。まるで獣の血液のようだ。

「昨年、世界中で七件の爆破テロが発生している。その総死者数は何人だと思う?」

 脈絡なく、茨楽舞羅がそんなことを訊ねてきた。

「……二百人くらい?」

「十九人だよ。負傷者はその何十倍もいるけどね」

 思ったより少ないな、と思ってしまった。

「それがどうしたの?」

「無慈悲な爆破テロが奪った命は十九人。他方、食事がきっかけの死者は全世界で一千万人を超えている。細分化していくと『辛さ』が原因と判明した死はおよそ千六百人、その中で日本人の死は七名。ちなみに去年、日本で発生した銃撃事件での死亡者は六人。この国では銃より辛さが人の命を奪っているんだよ」

「そう、なんだ」

 率直な感想として、平和だな、と思ってしまった。

「その七人は全て同じ調味料を口にしていた。国民の命を奪った、にっくき犯人がこちらだ」茨楽舞羅は濃い赤の液体が入った瓶を掲げる。「スケバンソース。スコヴィル値は2900000」

 名前と辛さ、どちらも悪い冗談みたいだ。

「よく勘違いされているようだけど、イタリアにあるメーカーの商品だよ。創業者が子供のころ日本のスケバン文化に感銘を受けて、いつか自分もスケバンのような刺激的な調味料を作りたいと試行錯誤の上に完成させた逸品だ」

 カルパッチョに感動したので、それをモチーフにした特撮ヒーローを結成しようとするくらい奇抜な動機だ。

 そういえば去年、中学生の集団がスナックに激辛ソースをかけて二十人以上が搬送されて、その内の数名が死亡したという事件があったような。

 それの原因が、それか。

「どうしてそんな物騒なもの持ってるの?」

 僕の疑問に茨楽舞羅は疑問符を浮かべた。

「買ったからだよ」

「発売禁止とかになってないの?」

「品揃えのいいスーパーにいけば普通に売っているよ?」

「ダメでしょ、そんなの売っちゃ」

「つい最近まで、日本では毎年二百人以上の死者を出していた加工食品が規制されることもなくどこでも買うことができた。その食べ物は何だと思う?」

「──パン?」思いつきだけど、正解な気がした。

「お餅、だよ」

 はずれた。

 ほんの数年前まで、餅が少なくない数の高齢者の命を奪っていた。

 だけど、そういう話はもう聞くことはなくなってしまった。

 餅がなくなったからではなく、お年寄りがいなくなったから。

 みんな、若返ったから。

「というわけで、はい、あーん」

 スケバンソースなる真っ赤な液体を吸わせたスポイトを向けてくる。

 スコヴィル値は1200から2900000まで上昇している。

 さっき舐めたやつでも限界をこえていたのに、あれの2400倍ほど辛いらしい。

 どれほどの刺激か想像さえできない。考えることを脳があきらめている。

「ちなみにこのソースを口にして永眠することになった少年たちだけどね、そこに至るまでの経緯は実に多様性に富んでいたようだよ。目や鼻から血液を吹き出して倒れたり、服を脱いで体中をかきむしりながら走りつづけたり、浴槽を冷水で満たしてそこに何度も頭を沈めたり、搬送先の病院で十時間以上休むことなく意味をもたない言葉を叫んだ後に絶命したり──聞いているだけで()惹起(じやつき)するよ」

 旅先で見かけた変わった動物の話でも聞かせるみたいに、茨楽舞羅は滔々(とうとう)と語る。

 それはもう(から)いのではなく、呪いなのでは?

 そんな呪いを招く紅蓮(ぐれん)(しずく)(はら)んだスポイトが足音もなく僕に近づいてきたが、口に差し込まれる直前で、その歩みをとめた。

「きみばかりが一番目というのも、なんだか不公平だね」

 といって茨楽舞羅はくるりと背を向け、一人の少女に向かっていく。

「はい、あーん」

 今、茨楽舞羅の前にいるのは、夜戯拶依。

「いや、その子は──」慌てて制止する。

 たった1のスコヴィル値ですら悲鳴を上げていたのに2900000なんていう天文学的な辛さを与えたら、本当に命にかかわるのでは。

 常温水でも熱くて耐えられないと(なげ)く人をマグマに落とすようなもの。

 そもそもマグマに落ちれば、誰だって無事ではいられない。

 透明なスポイトを構え白衣を羽織っている茨楽舞羅の姿は、夜戯拶依の目に、大きな鎌を握りしめ黒いローブを纏う死神に映っているのだろう。

 強風に(あお)られているみたいに、恐怖で脚が震えている。

 命に代えてもあれを口にしてはならないと、封印を(ほどこ)すように唇をぎゅっと閉める。

 茨楽舞羅は実に原始的な手段で、その封印を解く。

 右手の指を強引に夜戯拶依の口に挿し込んで舌を引っ張り出し、左手に持っていたスポイトの中身を一滴、その舌に垂らしたのだ。

 次の瞬間、夜戯拶依はなんとかそれを取り除こうと闇雲に舌を振り回しはじめるけれど、必死になって空気を舐めているようにしか見えなかった。

 その様子を楽しそうに眺めながら、茨楽舞羅は指先についた相手の唾液を白衣で(ぬぐ)っている。

 ほどなくして、夜戯拶依に異変が訪れる。

 急におとなしくなったかと思えば「あ、あ、あ、あ、あ、」とうなだれて、一つの音だけを断続的にもらしはじめた。

「あ あー あ ああ あ あ あー! あー! あ あ あ あー! あー! あー!」

 まるで悲痛なモールス信号。

 (から)さに(もだ)え背中まで伸びた(つや)やかな黒髪を乱しながら少女の口からもれるそれは、どこか嬌声(きようせい)のようでもあって、官能的にすら聞こえてしまう。

「あ! ああ! あ! あ あ あ あああ!」

 体を大きく()()らせ、痙攣(けいれん)している。スカートが揺れる、白いブラウスの首からさげている紺のネクタイが舞う。息が荒く、口から舌がだらしなく伸びている。

 見てはいけない姿を、見ている気がする。

「あ」「あ」「あ」「あ」「あ」

 声を上げるたび、狙撃されているみたいに激しく反応する身体。激辛ソースを一滴舐めただけなのに、悪霊に憑りつかれているかのようだ。

「あ あ あ あああああ! あああああ! あああああ!」

 そして絶叫の(すえ)に、少女は果てた。

 うつむいて、朦朧(もうろう)と棒立ちの夜戯拶依は微量の電流を受けているみたいに、小さく震えている。

 次にあらわれたのは、(かす)かな、だけど確かな変化だった。

 夜戯拶依の身に着けている白い半袖のブラウスがじわじわと透けて、彼女の肌の色を(にじ)ませはじめたのだ。

 つづいて、スカートから伸びている彼女の細い脚から不自然なほど水滴がたれてくる。

 ()らしたのかと思ったけれど、そうじゃない。

 あれは、(あせ)だ。

 尋常ではない辛さを流し込まれたせいで、尋常ではない発汗を促しているんだ。

 まるで身体を溶かしていくかのような大量の汗によって、すでに上半身は汗まみれ。白色のブラウスは半透明となり、夜戯拶依の下着と肌がくっきりと浮かびあがっている。紺色のネクタイもたらふく汗を吸い込み、胸と胸の間に沈んでいた。

 そこでようやく意識を取り戻した夜戯拶依は、はっとして自分の左右の肩と足元を何度も確認している。

 そして彼女は僕を見て、こう言った。

「ねえあなた、あなたって私を動かせるんでしょ?」

「え? う、うん」急な問いかけに声が上擦る。

「お願い。私を動かして、みんなから離して」

 必死の表情。そこにある汗と涙。

「え?」

「お願いだから、早く!」

「わ、わかった」

 理由はわからないけど断る理由もない。

 僕はパッドを操作して、カーソルを夜戯拶依に合わせる。

「ちょっと待って」

 そこに割り込んできたのは金髪の少女、昼葱初月だった。

「私をあの子に近づけて」

 昼葱初月は腕を伸ばし、夜戯拶依を指さす。

「え?」なんで?

「そんなことしないで、早く私をみんなから離して! お願いだから」

 泣きながら訴えてくる夜戯拶依。

「ダメだって。まずは私をあの子のそばにいかせて」

 どこか軽い調子で僕にウインクしながら手を合わせる昼葱初月。

「そんなことしたら、絶対許さないから!」

 激しい剣幕の夜戯拶依。

 一体、どういうことだ。

 逃がせという少女と、近づけろという少女。

 何もさだかではないものの。

 今ここで、鬼ごっこがはじまろうとしている。

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