たろうがくれた声
一
花は、もう一年以上、学校で誰とも言葉を交わしていなかった。
正確に言えば、話せないわけではない。医者からは「場面緘黙」という言葉を聞かされた。家では母親の由美子と二人、小さな声で会話をすることができる。だが学校の門をくぐった瞬間、花の喉はまるで固い石で塞がれたように、声を出すことができなくなるのだった。
きっかけは、はっきりしていた。花が小学二年生の冬、父の健二が家を出て行った日からだった。
二
健二と由美子の間に、決定的な亀裂が入ったわけではなかった。浮気があったわけでも、お金の問題があったわけでもない。それだけに、花にとっては、なおさら理解しがたい別れだった。
始まりは、花が一年生の秋、健二の父親、つまり花の祖父が病で亡くなったことだった。健二は幼い頃から父親と折り合いが悪く、最後まで素直に「ありがとう」の一言も言えないまま、看取ることになった。
その後悔は、健二の中で静かに、しかし確実に彼を蝕んでいった。彼は誰にもその苦しみを打ち明けることができなかった。もともと口下手で、感情を言葉にすることが苦手な人だった。悲しみをどう扱えばいいのかわからないまま、彼はただ仕事に逃げ込んだ。朝早くに家を出て、深夜に帰る日々が続いた。
由美子は、最初は健二の様子を気遣っていた。だが、話しかけても「大丈夫だ」としか返ってこない日々が続くうちに、由美子自身も、孤独と苛立ちを募らせていった。
「あなたは、私たちより仕事の方が大事なの」
由美子がそう問い詰めても、健二はうまく答えることができなかった。本当は、父を失った悲しみと、家庭でうまく振る舞えない不甲斐なさに、押しつぶされそうだったのだ。だがそれを言葉にする術を、健二は持っていなかった。
言い争いは徐々に増え、家の中には冷たい沈黙が広がっていった。花は、両親が言葉を交わさなくなっていく様子を、子どもながらに敏感に感じ取っていた。
ある夜、両親の激しい言い争いを、花は部屋の隅で聞いてしまった。
「もう、このままじゃ、お互いのためにならない」
「離れた方が、お互い、ちゃんと自分と向き合えるかもしれない」
由美子の口から出たその言葉に、健二は長い沈黙の後、小さく頷いた。それは憎しみからの別れではなく、行き詰まった二人が、それぞれに苦しみながら出した、不器用な結論だった。だが、その事情を知らない花には、ただ「お父さんが、自分たちを置いていった」としか、受け止めようがなかった。
父が荷物をまとめて家を出て行くのを、花は玄関の陰から見ていた。健二は花に何か言おうとしたが、結局、何も言えないまま、頭を一度撫でただけで去っていった。その日から、花の声は、少しずつ、学校で出なくなっていった。
三
由美子は、あちこちの病院やカウンセラーに花を連れて行ったが、目立った改善は見られないまま、花は三年生になっていた。ある日、担任の先生から、市の福祉課が主催する「動物介在プログラム」のチラシを渡された。引退したセラピー犬が、心に困難を抱える子どもたちと定期的に触れ合う活動をしているという。
「花さん、犬は好きですか」
花は小さく頷いた。声には出せなかったが、頷くことは、花にできる数少ない意思表示の一つだった。
体育館の隅で花を待っていたのは、白髪の交じった年老いたラブラドールだった。名前は「太郎」。かつて盲導犬として十年近く働き、引退した後、セラピー犬としての訓練を受けたのだという。
「太郎はね、たくさんの人の『声にならない気持ち』を、聞いてきたんだよ」
トレーナーの女性が、優しく花に話しかけた。花はおずおずと太郎に近づき、その大きな頭にそっと手を伸ばした。太郎は花の手のひらに鼻先を押し付け、目を細めた。
その瞬間、花の中で、凍りついていた何かが、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
四
それから毎週水曜日の放課後、花は体育館の隅で太郎と過ごす時間を持つようになった。最初の数回、花はただ太郎の隣に座っているだけだった。太郎は急かすことなく、花のペースに寄り添うように、静かにそこにいた。
三回目の訪問のとき、花は初めて、太郎にだけ聞こえるような小さな声でつぶやいた。
「今日ね、給食、残しちゃった」
たったそれだけの言葉だった。だが花にとっては、久しく忘れていた、自分の声だった。太郎は花の膝に頭を乗せ、まるで「聞いているよ」と言うように、尻尾をゆっくり振った。
それから花は、水曜日が来るたびに、太郎に小さな声で話しかけるようになった。学校での出来事、好きな絵本のこと、そして時折、父のこと。
「お父さん、どうして、いなくなっちゃったのかな。わたしが、何か悪いことしたのかな」
太郎はただじっと、花の言葉を受け止めていた。何も言わず、何も急かさず、ただそこにいる。それが花にとって、どれほど大きな安心だったか、花自身、うまく言葉にできなかった。
五
半年が過ぎた頃、トレーナーの提案で、太郎との時間に、同じクラスの真希という女の子が同席することになった。以前から花のことを心配し、何度も声をかけてくれていた子だった。
太郎が花と真希の間に体を横たえると、二人はその温かい体を挟んで、自然と近くに座るようになった。
「花ちゃん、太郎、好き?」
真希が笑顔で尋ねた。花は勇気を振り絞るように、蚊の鳴くような声で答えた。
「すき」
真希は驚いた顔をしたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「花ちゃんの声、初めて聞いた!嬉しい!」
その日から真希は、水曜日の太郎との時間に、いつも同席するようになった。花は太郎を介して、少しずつ真希とも言葉を交わせるようになっていった。
六
一方その頃、健二もまた、静かに苦しみと向き合っていた。会社の同僚に勧められ、渋々ながらカウンセリングに通い始めていたのだ。
「あなたは、悲しみを感じることを、自分に許してこなかったんですね」
カウンセラーの言葉に、健二は初めて、父を看取れなかった後悔と、家族に何も言えなかった不甲斐なさを、少しずつ言葉にしていった。涙を流したのは、何年ぶりかわからなかった。
健二は花に会いたい気持ちを、ずっと抱えていた。だが、どんな顔で会えばいいのか、どんな言葉をかければいいのか、わからなかった。何度も花への手紙を書いては、送ることができずに机の引き出しにしまい込んでいた。その数は、一年間で二十通を超えていた。
「言葉にするのが怖いなら、まずは、聞くことから始めてみたらどうですか」
カウンセラーの助言を受け、健二は由美子に頼み込み、月に一度だけ、花の学校での様子を教えてもらうようになった。由美子もまた、健二の変化を少しずつ感じ取っていた。
七
四年生になった春、学校で「学習発表会」が開かれることになった。各クラスが、大切な人への手紙を書き、それを壇上で読み上げるという内容だった。担任の先生は、花にこの課題を無理強いすることはしなかった。だが花は、家に帰ってから、由美子にこう伝えた。
「わたし、やってみたい」
由美子は驚いた顔で花を見つめた。
「大丈夫なの?無理しなくていいのよ」
花は少し考えてから、小さく、しかしはっきりと言った。
「太郎に、聞いてもらう練習、したい」
その日から、花は毎日、太郎との時間に、手紙の下書きを読む練習を重ねた。手紙の宛先は、父だった。何を書けばいいのか最初はわからなかったが、太郎に語りかけるように書き進めるうちに、花の中にあった言葉が、少しずつあふれ出してきた。
由美子はその様子を見て、思い切って健二に連絡を取った。
「花が、発表会であなたへの手紙を読むんだって。来てくれる?」
電話の向こうで、健二はしばらく黙っていた。それから、震える声で答えた。
「行く。何があっても、行く」
八
発表会の日、体育館には全校児童とその保護者が集まっていた。花はステージの袖で、震える手で原稿を握りしめていた。心臓が早鐘のように鳴り、足がすくんだ。
「花、大丈夫」
真希が隣でそっと声をかけてくれた。トレーナーが太郎を連れて花のそばに来ると、太郎は花の足元にぴたりと寄り添い、いつものように穏やかな目で花を見上げた。
花は太郎の頭に手を置いた。その温もりが、いつもの水曜日の体育館の隅を思い出させた。
自分の番が来て、花はゆっくりとステージに上がった。太郎もトレーナーに連れられ、ステージの端に静かに座った。花は客席を見渡すことができず、代わりに太郎の方を見つめた。まるで、いつものように、太郎にだけ話しかけるように。
「お父さんへ」
震える声だったが、確かにマイクを通して体育館に響いた。会場がしんと静まり返った。花の声を初めて聞く同級生や保護者たちが、息をのんで見守っていた。
「お父さんがいなくなってから、わたしは、うまく話せなくなりました。わたしが悪い子だったから、お父さんはいなくなったんだと、ずっと思っていました」
客席で、健二の目から涙があふれた。
「でも、太郎という犬に会って、わたしの話を、静かに聞いてもらえるようになりました。太郎は何も言わないけど、わたしの気持ちを、ちゃんとわかってくれている気がしました。太郎のおかげで、わたし、また少しずつ、お話しできるようになりました」
花は一度言葉を切り、深く息を吸った。
「お父さん。会えなかった間、わたし、ずっとお父さんのこと考えてた。お父さんも、寂しかった?わたしも、苦しかったこと、たくさんあったけど、太郎が教えてくれたの。苦しいことは、我慢しなくていいって。言葉にしてもいいんだって。だから、お父さんにも、伝えたいです。おかえりなさいって、言いたいです。また、一緒に、ごはん食べたいです」
読み終えた瞬間、体育館は大きな拍手に包まれた。花は驚いて顔を上げた。同級生たちが、涙を拭いながら拍手を送っていた。真希は大声で泣きながら手を叩いていた。
客席の中ほどで、健二が立ち上がっていた。人目もはばからず、両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いていた。その隣で、由美子もまた、ハンカチを顔に押し当てていた。
九
発表会の後、花のもとに駆け寄ってきたのは、一年以上まともに顔を合わせていなかった健二だった。
「花……」
健二は言葉に詰まり、花の前にしゃがみ込んだ。花はしばらく黙っていたが、やがて小さく、しかしはっきりとした声で言った。
「お父さん、来てくれたの」
健二は花を強く抱きしめた。その肩が震えているのが、花にも伝わってきた。
「ごめんな。お父さん、ずっと、うまく気持ちを言えなくて。花に、寂しい思いばかりさせて、本当にごめん」
「太郎のおかげだよ」
花がつぶやくと、健二は涙を拭いながら、少し離れた場所でトレーナーに撫でられている太郎の方に歩み寄り、深く頭を下げた。
「ありがとう。娘の声を、そして……たぶん、私の家族も、取り戻してくれた」
太郎は健二の手のにおいを嗅ぎ、それから小さく尻尾を振った。
十
発表会をきっかけに、健二は月に一度、花と会う時間を持つようになった。最初はぎこちなかったが、健二はカウンセリングで学んだように、少しずつ自分の気持ちを言葉にする努力を続けた。
「お父さん、おじいちゃんが死んじゃったとき、本当は、すごく悲しかった。でも、どう悲しめばいいのか、わからなかったんだ。だから、お母さんにも、花にも、うまく話せなかった。それが、離れることになった、本当の理由なんだ」
花は父の話を、太郎と過ごした日々のように、じっと聞いた。それから、小さく頷いた。
「お父さんも、太郎みたいに、ゆっくりでいいと思う」
その言葉に、健二は目を潤ませながら笑った。
由美子もまた、健二の変化を少しずつ見守っていた。月日が経つにつれ、健二と由美子は、花を挟んでではなく、二人だけで話す時間を持つようになった。かつてすれ違っていた二人は、互いの不器用さを、少しずつ認め合えるようになっていった。
「あなたが、あんなに人前で泣くの、初めて見た」
由美子がそう言うと、健二は照れくさそうに頭をかいた。
「花と太郎に、教えられたんだ。悲しいときは、悲しいって、ちゃんと言っていいんだって」
十一
発表会から一年後の春、健二と由美子は、家族と親しい友人だけを招いた小さな式で、再び夫婦としての誓いを立てた。会場に選ばれたのは、花が太郎と過ごした、あの小学校の体育館ではなく、その隣にある小さな公園だった。桜が満開のその場所には、トレーナーに連れられた太郎の姿もあった。
花は白いワンピース姿で、太郎のリードを握りしめ、両親の隣に並んだ。誓いの言葉を交わす健二と由美子を見上げながら、花は太郎の頭をそっと撫でた。
「太郎、聞いて。今日、お父さんとお母さん、また家族になるんだって」
太郎は花を見上げ、ゆっくりと尻尾を振った。まるで、ずっと昔から、この日が来ることを知っていたかのように。
式のあと、花は用意していた小さな手紙を、両親の前で読み上げた。今度は、震える声ではなく、しっかりとした声だった。
「お父さんとお母さんが、また一緒になってくれて、うれしいです。声が出なかったとき、太郎がずっと、そばにいてくれました。これからは、わたしも、誰かの『声にならない気持ち』に、ちゃんと気づける人になりたいです」
会場にいた誰もが、涙を拭いながら、花の言葉に耳を傾けていた。真希も、担任の先生も、トレーナーの女性も、皆、それぞれの想いを込めて、拍手を送った。
十二
それから数年が経ち、花は中学生になった。今でも時々、太郎に会いに行く。太郎はすっかり歳を取り、以前のように長く歩くことはできなくなっていたが、花が近づくと、必ず尻尾を振って迎えてくれた。
花は今でも、太郎に会うたびに、こう思う。太郎は特別な言葉を教えてくれたわけではない。ただ、そこにいてくれただけだ。急かさず、責めず、ただ静かに、隣にいてくれた。
けれどその「ただ隣にいる」ということが、閉ざされていた花の心の扉を、そして、すれ違っていた家族の心を、少しずつ、確かに開いていったのだった。
太郎の穏やかな寝息を聞きながら、花は今日もまた、両親と、そして太郎と一緒に、夕焼けに染まる帰り道を歩いている。
(了)




