公式地図から消された帰還線
地図改訂管理室は、ギルド本館の二階ではなく、裏庭の倉庫棟の奥にあった。
扉の前には、古い木札が掛かっている。
地図改訂申請・様式七。
掲示物撤去申請。
期限切れ経路の抹消。
「新人用安全チェック板を撤去する申請が、もう出ているんですか」
ユナが薬箱を抱え直した。
朝、ニコが自分の名前で半日保留を書いたばかりだ。まだ誰も第三層へ戻っていない。帰還線も確認していない。なのに、板の横には赤い仮札が貼られていた。
公式地図との齟齬あり。
探索者の混乱を招くため撤去予定。
ラッドが舌打ちした。
「混乱じゃねえだろ。読めないまま行くほうが混乱する」
「そう書くと、撤去理由になりません」
カイは赤札を外さず、そのまま写しを取った。
「赤札は証拠です。剥がしてしまうと、誰が何を消そうとしたか分からなくなる」
管理室の中では、白髪の地図官が紙束を紐で縛っていた。壁一面に貼られた公式地図は、どれも綺麗だった。線は太く、文字は読みやすく、危険区域は赤で塗られている。
けれど綺麗すぎた。
北坑道第三層の西壁には、太い帰還矢印がまっすぐ引かれている。十年前の事故ログに残っていた煤の向きも、レオ・マルシュの帰還札裏面の字も、そこにはない。
「安全確認板を置くなら、正式な改訂申請を出してからにしてもらわんと困る」
地図官は顔を上げずに言った。
「現場の思いつきで帰還線など増やされたら、初心者が迷う。公式地図は簡潔でなければならん」
「簡潔にするために、何を消しましたか」
カイが尋ねると、室内の紙束を縛る手が止まった。
「消した、とは人聞きが悪い。期限切れ経路を整理しただけだ」
「期限切れ経路」
カイはその言葉を、事故ログ帳の余白に書いた。
期限切れ経路。
帰還線未確認。
掲示物撤去。
同じ意味ではない。
「経路が期限切れなら、通れないだけです。けれど帰還線が未確認なら、帰れない人が出ます」
「結果は同じだ。行くな、と書けばいい」
「違います」
カイは机の上に三つの紙を並べた。
一枚目、公式地図。
二枚目、レオ・マルシュの帰還札裏面の写し。
三枚目、ニコ・アルトの半日保留欄。
「公式地図は、北坑道第三層の西壁を帰還線にしています。レオさんの札は、七層仮到達地点で『帰還線は西ではない』と書いています。ニコさんの保留欄は、第三層西壁の帰還線を本人未確認としています」
ユナが小さく息を吸った。
「三つとも、帰るための線を指しています」
「そうです」
カイは公式地図の西壁を指した。
「ここに太い矢印が残っている限り、新人は『西へ戻ればいい』と覚えます。けれど、古い帰還札は西ではないと言っている。なら、今日の報酬は攻略情報ではありません」
「報酬?」
ラッドが眉を寄せる。
「一人が迷わず戻れることです」
カイは管理室の隅に積まれた古い改訂前地図を見た。埃をかぶった筒の中で、一本だけ紐の色が違う。黒い紐。事故処理済みの資料に使われる色だ。
「その筒を見せてください」
「だめだ。事故処理済みだ」
地図官は即答した。
「処理済みの地図を、今の新人に見せる必要はない」
その言葉で、カイは理解した。
処理済み。
閉じた事故。
期限切れ経路。
掲示物撤去。
全部、同じ方向を向いている。終わったことにして、生活側の帰還条件を消す言葉だ。
「事故が処理済みでも、帰還線は処理済みになりません」
カイは青い保留印を取り出した。
地図官の顔色が変わる。
「おい、ここは貸出台帳ではない」
「はい。ですから、地図を変えません」
カイは公式地図に印を押さなかった。
代わりに、写しの余白へ押した。
北坑道第三層西壁帰還線、本人確認済み探索者ゼロのため、案内矢印を一時保留。
掲示物撤去不可。
確認者名欄を設置すること。
ユナが、薬箱から細い青紐を出した。
「治療班の確認札にも同じ欄を作ります。声が返る場所まで戻った人だけが、負傷者確認済みと書けるように」
ラッドは壁の板を睨んだあと、乱暴に羽根ペンを取った。
「俺も書く。第三層西壁、本人未確認。確認するまで、西へ戻ればいいって新人に教えない」
地図官は唇を震わせた。
「勝手な現場判断が、公式地図を汚す」
「汚しません」
カイは言った。
「帰れない線を、綺麗なままにしないだけです」
小さな報酬だった。
地図はまだ直っていない。七層への正しい道も分からない。レオ・マルシュは帰っていない。
それでも、新人用安全チェック板は撤去されなかった。ニコの半日保留は辞退に変えられなかった。ラッドは、自分が未確認の線を未確認と書いた。
その日の昼、ギルド入口の公式地図の下に、新しい青札が一枚増えた。
帰還線は、戻った本人の名前で確認すること。
カイが息をついた時、管理室の奥から紙筒が一本、床へ転がった。
黒い紐で縛られた、十年前の北坑道二班の改訂前地図。
筒の端には、消えかけた赤い字があった。
第三層西壁帰還線、王都攻略組の要請により削除済み。




