『傷つけた人がいる。ただ若すぎたから····』
傷つけた人がいる。ただ若すぎたから。そう呟けば許されると思っていたあの頃の僕は、あまりにも幼く、そして残酷だった。
十五年前、僕は大切な人の夢を、保身のための嘘で踏みにじった。壊れたのは一枚のフィルムだけではない。僕たちが共有していた、眩しいほどに純粋な信頼もまた、感光して真っ白に消えてしまったのだ。
三十三歳になった今、手元には一台の壊れた『キャノン AE-1』がある。これは僕の罪の証であり、止まった時間を動かすための鍵だ。
後悔という名の棘を胸に刺したまま、僕は帰る。あの海鳴りのする街へ。もし許されるなら、もう一度、ファインダー越しに君の本当の笑顔を見たいから。
第一章:埃を被った時間
古い実家の納戸は、独特の匂いがした。乾燥した木材と、忘れ去られた紙の束、そして微かなカビの匂いが混じり合った、停滞した時間の匂いだ。
三十三歳になった僕は、東京での慌ただしい生活から逃げるように、祖母の三回忌に合わせてこの海沿いの街に帰ってきた。整理がつかないのは仕事のプロジェクトだけではない。僕自身の人生そのものが、どこかピントの合わない写真のようにぼやけていた。
「怜、そっちの箱はもう捨てていいやつだからね」
母の声が階下から聞こえる。僕は「ああ」と生返事をしながら、段ボール箱の中身を無造作に掴み出した。少年時代のガラクタだ。流行ったカードゲーム、片方だけのスニーカー、そして底の方から、一台の古いフィルムカメラが出てきた。
『キャノン AE-1』。
銀色のボディはくすみ、レンズには薄っすらと曇りが生じている。僕は呼吸を止めた。心臓の奥底に、鋭く冷たい棘が刺さるのを感じたからだ。
それは、僕のものではない。
十五年前、僕が壊し、そして償うことなく逃げ出した、ある少女の宝物だった。
「衣香……」
無意識にその名前を口にすると、苦い胆汁のような後悔が喉の奥に込み上げてきた。
僕たちは高校の写真部だった。部員は僕と衣香の二人だけ。彼女は天才だった。彼女が切り取る世界は、僕が見ている退屈な田舎町とはまるで違っていた。錆びたガードレールは幾何学的なアートになり、野良猫のあくびは生命の賛歌になった。
僕は、そんな彼女に憧れ、そして激しく嫉妬していた。
若さとは、時に残酷なほど純粋で、それゆえに他者を傷つける凶器になる。僕にとっての凶器は「沈黙」と「嘘」だった。
あの日、文化祭の前日。暗室で作業をしていた僕は、誤って彼女がコンクールに出す予定だったフィルムを感光させてしまった。現像液の匂いが充満する赤い光の中で、真っ白になったフィルムを見て、僕は恐怖した。
彼女の才能を潰してしまったことへの恐怖ではない。「お前はダメなやつだ」と、彼女に見下される(と勝手に思い込んでいた)ことへの恐怖だった。
直後に入ってきた衣香に、僕は震える声で言った。
「……なんか、現像機の調子が悪かったみたいだ。俺が入った時には、もう蓋が開いてて……」
最低な嘘だった。機械のせいにした。
衣香は真っ白になったフィルムを呆然と見つめ、一言も責めなかった。ただ、静かに涙を流した。その涙を見て、僕は「ごめん」と言う代わりに、「もっといいカメラ買えばいいじゃん、機材が古いんだよ」と、心にもない悪態をついた。
自分の罪悪感を消すために、被害者である彼女を「道具の管理ができない人間」に仕立て上げようとしたのだ。
卒業後、彼女は美大へ進学し、僕は逃げるように東京の大学へ行った。それ以来、一度も会っていない。
カメラを握りしめる手が汗ばんでいた。ファインダーを覗いてみる。何も見えない。真っ暗だ。まるで僕の心の中みたいだった。
第二章:海鳴りのする時計店
翌日、僕はカメラを鞄に入れ、街へ出た。捨てるためではない。修理するためだ。そしてもし可能なら、これを彼女に返すために。
風の噂で、衣香がこの街に戻ってきていることは知っていた。実家の古い時計店を継いで、細々と修理屋を営んでいるらしい。
海岸沿いの国道を歩く。夏草の匂いと潮風が、十五年前の記憶を鮮明に呼び起こす。
『怜くんの写真は、優しいね』
そう言ってくれた彼女の笑顔。その笑顔を、僕の保身が奪ったのだ。
「中森時計店」の看板は、潮風に晒されて塗装が剥げていた。扉を開けると、チクタク、チクタクと、無数の秒針が重なる音が迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
奥の作業台から、女性が顔を上げた。
ルーペを目に当て、髪を無造作に束ねている。十五年の月日は流れていたが、その瞳の澄んだ色は変わっていなかった。
衣香だ。
彼女は僕を見て、一瞬きょとんとし、それからルーペを外して目を細めた。
「……怜くん?」
「久しぶり、衣香」
声が震えないようにするのが精一杯だった。彼女は作業台から立ち上がり、エプロンで手を拭きながら近づいてきた。怒っているだろうか。軽蔑しているだろうか。
「うわあ、すごい久しぶり! 元気だった? お母さんから帰ってきてるって聞いたけど」
予想に反して、彼女の声は明るく、柔らかかった。その屈託のなさが、逆に僕の胸を締め付ける。彼女は忘れているのだろうか。それとも、許してくれているのだろうか。いや、そんな都合のいい話があるわけがない。
「これ……」
僕は鞄から、あのカメラを取り出した。
「実家の整理をしてたら、出てきて。壊れてるんだけど、もしよかったら修理できないかと思って。……いや、時計屋さんに持ってくるものじゃないのは分かってるんだけど」
衣香はカメラを受け取ると、愛おしそうにボディを撫でた。
「懐かしい……。AE-1だ。私が高校の時に使ってたやつと同じモデルだね」
「……同じ、じゃなくて、これ、衣香のなんだ」
「え?」
「卒業の時、部室に置き忘れてあったのを、俺が持って帰ってたんだ。ずっと、返せなくて」
半分は本当で、半分は嘘だ。僕は彼女のカメラを盗むように持ち帰り、罪の証拠として隠していたのだから。
衣香は不思議そうな顔をしたが、すぐにふわりと笑った。
「そうだったんだ。無くしたと思ってた。見てみるね」
彼女は手慣れた様子で裏蓋を開け、レンズを外し、シャッター幕を確認する。その指先には、職人特有の迷いのなさがあった。
「シャッター鳴きがあるし、モルトもボロボロ。レンズのカビもひどいけど……直せるよ。部品、裏にストックがあるかもしれない」
「本当か?」
「うん。時間はかかるけど。……ねえ、修理代の代わりにさ、少し手伝ってくれない?」
「手伝い?」
「このあと、少し遠くまで『音』を録りに行きたいの。荷物持ちが欲しくて」
僕は戸惑いながらも、頷いた。断れるはずがなかった。
第三章:空白のネガフィルム
衣香の運転する軽トラックは、ガタガタと音を立てながら山道を登っていった。助手席の僕は、膝の上に録音機材を抱えている。
「時計の修理だけじゃ食べていけないからね。今は環境音の録音の仕事もしてるの。波の音とか、森の風の音とか」
「へえ、すごいな。相変わらず、アーティストだね」
「そんなんじゃないよ。ただ、世界がどんな音をしてるか、知りたいだけ」
車は、かつて僕たちがよく撮影に来た、街を一望できる古い展望台に到着した。
眼下には、夏の午後の日差しを反射して煌めく海が広がっている。
衣香はマイクをセッティングし、ヘッドホンをした。
「少し、静かにしててね」
静寂が訪れる。風が草を揺らす音、遠くのトンビの声、そして隣にいる彼女の呼吸音。
僕は横顔を盗み見た。真剣な眼差し。十五年前、ファインダーを覗いていた時と同じ顔だ。
僕は、あの日のことを切り出さなければならない。この穏やかな空気を壊してでも、言わなければならない。若かったから、怖かったからといって、許されることではないのだ。
「衣香」
彼女がヘッドホンを外す。
「あのさ、高校の時の、文化祭の前日……」
僕の声は、情けないほど掠れていた。
「俺、嘘をついたんだ」
衣香は黙って僕を見つめた。
「お前のフィルムがダメになったの、機械の故障じゃない。俺がやったんだ。俺が蓋を開けたんだ。嫉妬してたんだ。お前の才能に。お前がコンクールで賞を取って、遠くに行っちゃうのが怖くて……わざとじゃなかったけど、でも、自分のミスを隠すために、お前を傷つけた」
一度口に出すと、言葉は止めどなく溢れた。
「ひどいことを言った。『機材が悪い』って。お前の腕のせいみたいに。ずっと、それが心に引っかかってて……俺は、最低な人間だ。本当に、ごめんなさい」
頭を下げた。地面のアリが靴の横を這っているのが見えた。
沈黙が長かった。永遠に続くかと思われるほどの静寂。風の音だけが、やけに大きく響く。
「……知ってたよ」
頭上から降ってきた声に、僕は弾かれたように顔を上げた。
衣香は、海を見ていた。怒ってもいなければ、悲しんでもいなかった。ただ、どこか遠い懐かしい景色を見るような目をしていた。
「え……?」
「あの現像機、私が整備したばっかりだったから。蓋が勝手に開くなんてこと、ないのは分かってた」
「じゃあ、なんで……」
「なんで何も言わなかったか、って?」
彼女は苦笑して、足元の小石を蹴った。
「私ね、あの時、怜くんのこと好きだったんだよ」
心臓が止まるかと思った。
「怜くん、焦ってたでしょう? 進路のこととか、私ばっかり評価されることとか。怜くんが私に対抗心燃やしてるの、気づいてた。でも、その必死な背中も好きだった」
彼女は僕の方を向いた。風が彼女の髪を乱す。
「あの時、怜くんが真っ青な顔して嘘をついた時、思ったの。『ああ、この人は今、すごく弱くて、脆い場所にいるんだな』って。私がそこで『嘘つき』って責めたら、怜くんはたぶん、二度と立ち直れない気がした。だから、共犯者になったの」
「共犯者……」
「そう。怜くんの『若さゆえの弱さ』を、私が飲み込んだ。でもね、それが私の奢りだったのかもしおれない。結果的に、怜くんを十五年も苦しめちゃったんだもんね」
彼女は、少し寂しげに笑った。
「傷ついたよ、もちろん。あの写真は自信作だったし、怜くんにひどいこと言われたのもショックだった。でもね、不思議と憎めなかった。だって、私だって若かったし、どう接していいか分からなかったんだから」
彼女は一歩近づき、僕の肩を軽く叩いた。
「私たちは、ただ若すぎたんだよ。人を傷つけずに自分を守る方法も、正しく謝る方法も、自分の才能との付き合い方も、何も知らなかった。……不器用な子供だった」
その言葉が、僕の中で硬く凝り固まっていた氷を、ゆっくりと溶かしていった。
許されたのではない。理解されたのだ。
僕の卑怯さも、弱さも、すべてひっくるめて、彼女は「若かった私たち」として受け入れてくれていた。
「でも、一つだけ訂正していい?」
衣香が悪戯っぽく笑う。
「あの失敗のおかげで、私、写真から『音』に興味が移ったの。目に見えるものが消えたフィルムを見て、残るのは何だろうって考えたら、その場の『空気』や『音』だなって。だから今、こうして音を集める仕事をしてる。……だから、あながち最悪の思い出ってわけでもないんだよ」
それは、彼女なりの最大の慰めだったのかもしれない。でも、その優しさが、今の僕には痛いほど温かかった。
第四章:未来へのファインダー
一週間後、僕は再び時計店を訪れた。
カウンターの上には、磨き上げられた『キャノン AE-1』が置かれていた。曇っていたレンズはクリアになり、革の張替えも済んでいる。新品のように輝いていた。
「直ったよ。完璧」
衣香が誇らしげに言う。
「ありがとう。……これ、やっぱり衣香が持っててくれないか? これは、君のものだ」
僕は言った。これは過去を返す行為ではない。未来へ進むための儀式だ。
しかし、衣香は首を横に振った。
「ううん。これは怜くんが持ってて。修理代の代わり」
「えっ、でも……」
「そのカメラでさ、今の怜くんが見てる世界を撮ってよ。東京に戻っても、どこに行っても。怜くんは、優しい写真を撮る人だったから。私はそれが好きだったから」
彼女はカメラを僕の手に押し付けた。その手のひらの温もりが、金属の冷たさを通して伝わってくる。
「もし、いい写真が撮れたら、送って。私がそれに合う『音』をつけて、作品にするから。……どう? 私たちの、十五年越しの合作」
僕は呆気にとられ、そして笑いが込み上げてきた。
涙で視界が滲むのを誤魔化すように、僕は大きく笑った。
なんて人だろう。
僕が十五年かけて背負ってきた重荷を、彼女は軽やかな羽に変えてしまった。
「ああ、分かった。約束する。最高の写真を撮るよ」
「期待してるね、相棒」
彼女が差し出した右手を、僕は握り返した。
その手は、昔よりも少しだけゴツゴツしていて、油の匂いがして、とても力強かった。
店を出ると、空は突き抜けるような青だった。
カメラを構える。ファインダーを覗く。
そこには、店の前で手を振る衣香の姿があった。
ピントを合わせる。
彼女の目尻の笑い皺も、風になびく後れ毛も、すべてが愛おしい「現在」の証だった。
「カシャッ」
乾いたシャッター音が、夏の空気に溶けていく。
それは、過去の罪を裁く音ではなく、新しい時を刻み始める音だった。
僕はカメラを下ろし、彼女に向かって大きく手を振り返した。
胸の奥にあった棘はもうない。代わりに、透明な風が吹き抜けている。
僕たちは傷つけ合った。若すぎたから。
でも、大人になった僕たちは、それを直すことができる。壊れたカメラを直すように、丁寧に、時間をかけて。
ファインダー越しに見た彼女の笑顔は、十五年前の夏よりも、ずっとずっと眩しかった。
僕もきっと今、同じような顔で笑っているはずだ。
未完成の地図をポケットにしまい、僕は歩き出す。
終わらない夏が、ここからまた始まるのだ。
「傷つけた人がいる、ただ若すぎたから」
この言葉は、過去の自分への戒めであり、同時に許しへの願いでもあります。
未熟さが生んだ棘は、時として一生抜けません。けれど、怜と衣香がそうであったように、大人になった私たちは、その痛みを共有し、別の形で美しい「作品」へと昇華させることができるはずです。
壊れたカメラが直るように、人の心もまた、何度でもピントを合わせ直せる。ラストシーンのシャッター音は、過去への決別ではなく、未来への挨拶です。
この物語が、皆様の心にある「埃を被った時間」に、少しでも優しい光を当てられたなら幸いです。




