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『傷つけた人がいる。ただ若すぎたから····』

作者: すぎもも
掲載日:2026/02/12

傷つけた人がいる。ただ若すぎたから。そう呟けば許されると思っていたあの頃の僕は、あまりにも幼く、そして残酷だった。

十五年前、僕は大切な人の夢を、保身のための嘘で踏みにじった。壊れたのは一枚のフィルムだけではない。僕たちが共有していた、眩しいほどに純粋な信頼もまた、感光して真っ白に消えてしまったのだ。


三十三歳になった今、手元には一台の壊れた『キャノン AE-1』がある。これは僕の罪の証であり、止まった時間を動かすための鍵だ。

後悔という名の棘を胸に刺したまま、僕は帰る。あの海鳴りのする街へ。もし許されるなら、もう一度、ファインダー越しに君の本当の笑顔を見たいから。

第一章:埃を被った時間


古い実家の納戸は、独特の匂いがした。乾燥した木材と、忘れ去られた紙の束、そして微かなカビの匂いが混じり合った、停滞した時間の匂いだ。


三十三歳になった僕は、東京での慌ただしい生活から逃げるように、祖母の三回忌に合わせてこの海沿いの街に帰ってきた。整理がつかないのは仕事のプロジェクトだけではない。僕自身の人生そのものが、どこかピントの合わない写真のようにぼやけていた。


レイ、そっちの箱はもう捨てていいやつだからね」


母の声が階下から聞こえる。僕は「ああ」と生返事をしながら、段ボール箱の中身を無造作に掴み出した。少年時代のガラクタだ。流行ったカードゲーム、片方だけのスニーカー、そして底の方から、一台の古いフィルムカメラが出てきた。


『キャノン AE-1』。


銀色のボディはくすみ、レンズには薄っすらと曇りが生じている。僕は呼吸を止めた。心臓の奥底に、鋭く冷たい棘が刺さるのを感じたからだ。


それは、僕のものではない。

十五年前、僕が壊し、そして償うことなく逃げ出した、ある少女の宝物だった。


衣香きぬか……」


無意識にその名前を口にすると、苦い胆汁のような後悔が喉の奥に込み上げてきた。


僕たちは高校の写真部だった。部員は僕と衣香の二人だけ。彼女は天才だった。彼女が切り取る世界は、僕が見ている退屈な田舎町とはまるで違っていた。錆びたガードレールは幾何学的なアートになり、野良猫のあくびは生命の賛歌になった。


僕は、そんな彼女に憧れ、そして激しく嫉妬していた。


若さとは、時に残酷なほど純粋で、それゆえに他者を傷つける凶器になる。僕にとっての凶器は「沈黙」と「嘘」だった。


あの日、文化祭の前日。暗室で作業をしていた僕は、誤って彼女がコンクールに出す予定だったフィルムを感光させてしまった。現像液の匂いが充満する赤い光の中で、真っ白になったフィルムを見て、僕は恐怖した。


彼女の才能を潰してしまったことへの恐怖ではない。「お前はダメなやつだ」と、彼女に見下される(と勝手に思い込んでいた)ことへの恐怖だった。


直後に入ってきた衣香に、僕は震える声で言った。


「……なんか、現像機の調子が悪かったみたいだ。俺が入った時には、もう蓋が開いてて……」


最低な嘘だった。機械のせいにした。


衣香は真っ白になったフィルムを呆然と見つめ、一言も責めなかった。ただ、静かに涙を流した。その涙を見て、僕は「ごめん」と言う代わりに、「もっといいカメラ買えばいいじゃん、機材が古いんだよ」と、心にもない悪態をついた。


自分の罪悪感を消すために、被害者である彼女を「道具の管理ができない人間」に仕立て上げようとしたのだ。


卒業後、彼女は美大へ進学し、僕は逃げるように東京の大学へ行った。それ以来、一度も会っていない。


カメラを握りしめる手が汗ばんでいた。ファインダーを覗いてみる。何も見えない。真っ暗だ。まるで僕の心の中みたいだった。


第二章:海鳴りのする時計店


翌日、僕はカメラを鞄に入れ、街へ出た。捨てるためではない。修理するためだ。そしてもし可能なら、これを彼女に返すために。


風の噂で、衣香がこの街に戻ってきていることは知っていた。実家の古い時計店を継いで、細々と修理屋を営んでいるらしい。


海岸沿いの国道を歩く。夏草の匂いと潮風が、十五年前の記憶を鮮明に呼び起こす。


『怜くんの写真は、優しいね』


そう言ってくれた彼女の笑顔。その笑顔を、僕の保身が奪ったのだ。


「中森時計店」の看板は、潮風に晒されて塗装が剥げていた。扉を開けると、チクタク、チクタクと、無数の秒針が重なる音が迎えてくれた。


「いらっしゃいませ」


奥の作業台から、女性が顔を上げた。

ルーペを目に当て、髪を無造作に束ねている。十五年の月日は流れていたが、その瞳の澄んだ色は変わっていなかった。


衣香だ。


彼女は僕を見て、一瞬きょとんとし、それからルーペを外して目を細めた。


「……怜くん?」

「久しぶり、衣香」


声が震えないようにするのが精一杯だった。彼女は作業台から立ち上がり、エプロンで手を拭きながら近づいてきた。怒っているだろうか。軽蔑しているだろうか。


「うわあ、すごい久しぶり! 元気だった? お母さんから帰ってきてるって聞いたけど」


予想に反して、彼女の声は明るく、柔らかかった。その屈託のなさが、逆に僕の胸を締め付ける。彼女は忘れているのだろうか。それとも、許してくれているのだろうか。いや、そんな都合のいい話があるわけがない。


「これ……」


僕は鞄から、あのカメラを取り出した。


「実家の整理をしてたら、出てきて。壊れてるんだけど、もしよかったら修理できないかと思って。……いや、時計屋さんに持ってくるものじゃないのは分かってるんだけど」


衣香はカメラを受け取ると、愛おしそうにボディを撫でた。


「懐かしい……。AE-1だ。私が高校の時に使ってたやつと同じモデルだね」

「……同じ、じゃなくて、これ、衣香のなんだ」

「え?」

「卒業の時、部室に置き忘れてあったのを、俺が持って帰ってたんだ。ずっと、返せなくて」


半分は本当で、半分は嘘だ。僕は彼女のカメラを盗むように持ち帰り、罪の証拠として隠していたのだから。


衣香は不思議そうな顔をしたが、すぐにふわりと笑った。


「そうだったんだ。無くしたと思ってた。見てみるね」


彼女は手慣れた様子で裏蓋を開け、レンズを外し、シャッター幕を確認する。その指先には、職人特有の迷いのなさがあった。


「シャッター鳴きがあるし、モルトもボロボロ。レンズのカビもひどいけど……直せるよ。部品、裏にストックがあるかもしれない」

「本当か?」

「うん。時間はかかるけど。……ねえ、修理代の代わりにさ、少し手伝ってくれない?」

「手伝い?」

「このあと、少し遠くまで『音』を録りに行きたいの。荷物持ちが欲しくて」


僕は戸惑いながらも、頷いた。断れるはずがなかった。


第三章:空白のネガフィルム


衣香の運転する軽トラックは、ガタガタと音を立てながら山道を登っていった。助手席の僕は、膝の上に録音機材を抱えている。


「時計の修理だけじゃ食べていけないからね。今は環境音の録音の仕事もしてるの。波の音とか、森の風の音とか」

「へえ、すごいな。相変わらず、アーティストだね」

「そんなんじゃないよ。ただ、世界がどんな音をしてるか、知りたいだけ」


車は、かつて僕たちがよく撮影に来た、街を一望できる古い展望台に到着した。


眼下には、夏の午後の日差しを反射して煌めく海が広がっている。


衣香はマイクをセッティングし、ヘッドホンをした。


「少し、静かにしててね」


静寂が訪れる。風が草を揺らす音、遠くのトンビの声、そして隣にいる彼女の呼吸音。

僕は横顔を盗み見た。真剣な眼差し。十五年前、ファインダーを覗いていた時と同じ顔だ。


僕は、あの日のことを切り出さなければならない。この穏やかな空気を壊してでも、言わなければならない。若かったから、怖かったからといって、許されることではないのだ。


「衣香」


彼女がヘッドホンを外す。


「あのさ、高校の時の、文化祭の前日……」


僕の声は、情けないほど掠れていた。


「俺、嘘をついたんだ」


衣香は黙って僕を見つめた。


「お前のフィルムがダメになったの、機械の故障じゃない。俺がやったんだ。俺が蓋を開けたんだ。嫉妬してたんだ。お前の才能に。お前がコンクールで賞を取って、遠くに行っちゃうのが怖くて……わざとじゃなかったけど、でも、自分のミスを隠すために、お前を傷つけた」


一度口に出すと、言葉は止めどなく溢れた。


「ひどいことを言った。『機材が悪い』って。お前の腕のせいみたいに。ずっと、それが心に引っかかってて……俺は、最低な人間だ。本当に、ごめんなさい」


頭を下げた。地面のアリが靴の横を這っているのが見えた。


沈黙が長かった。永遠に続くかと思われるほどの静寂。風の音だけが、やけに大きく響く。


「……知ってたよ」


頭上から降ってきた声に、僕は弾かれたように顔を上げた。


衣香は、海を見ていた。怒ってもいなければ、悲しんでもいなかった。ただ、どこか遠い懐かしい景色を見るような目をしていた。


「え……?」

「あの現像機、私が整備したばっかりだったから。蓋が勝手に開くなんてこと、ないのは分かってた」

「じゃあ、なんで……」

「なんで何も言わなかったか、って?」


彼女は苦笑して、足元の小石を蹴った。


「私ね、あの時、怜くんのこと好きだったんだよ」


心臓が止まるかと思った。


「怜くん、焦ってたでしょう? 進路のこととか、私ばっかり評価されることとか。怜くんが私に対抗心燃やしてるの、気づいてた。でも、その必死な背中も好きだった」


彼女は僕の方を向いた。風が彼女の髪を乱す。


「あの時、怜くんが真っ青な顔して嘘をついた時、思ったの。『ああ、この人は今、すごく弱くて、脆い場所にいるんだな』って。私がそこで『嘘つき』って責めたら、怜くんはたぶん、二度と立ち直れない気がした。だから、共犯者になったの」

「共犯者……」

「そう。怜くんの『若さゆえの弱さ』を、私が飲み込んだ。でもね、それが私の奢りだったのかもしおれない。結果的に、怜くんを十五年も苦しめちゃったんだもんね」


彼女は、少し寂しげに笑った。


「傷ついたよ、もちろん。あの写真は自信作だったし、怜くんにひどいこと言われたのもショックだった。でもね、不思議と憎めなかった。だって、私だって若かったし、どう接していいか分からなかったんだから」


彼女は一歩近づき、僕の肩を軽く叩いた。


「私たちは、ただ若すぎたんだよ。人を傷つけずに自分を守る方法も、正しく謝る方法も、自分の才能との付き合い方も、何も知らなかった。……不器用な子供だった」


その言葉が、僕の中で硬く凝り固まっていた氷を、ゆっくりと溶かしていった。


許されたのではない。理解されたのだ。


僕の卑怯さも、弱さも、すべてひっくるめて、彼女は「若かった私たち」として受け入れてくれていた。


「でも、一つだけ訂正していい?」


衣香が悪戯っぽく笑う。


「あの失敗のおかげで、私、写真から『音』に興味が移ったの。目に見えるものが消えたフィルムを見て、残るのは何だろうって考えたら、その場の『空気』や『音』だなって。だから今、こうして音を集める仕事をしてる。……だから、あながち最悪の思い出ってわけでもないんだよ」


それは、彼女なりの最大の慰めだったのかもしれない。でも、その優しさが、今の僕には痛いほど温かかった。


第四章:未来へのファインダー


一週間後、僕は再び時計店を訪れた。

カウンターの上には、磨き上げられた『キャノン AE-1』が置かれていた。曇っていたレンズはクリアになり、革の張替えも済んでいる。新品のように輝いていた。


「直ったよ。完璧」


衣香が誇らしげに言う。


「ありがとう。……これ、やっぱり衣香が持っててくれないか? これは、君のものだ」


僕は言った。これは過去を返す行為ではない。未来へ進むための儀式だ。

しかし、衣香は首を横に振った。


「ううん。これは怜くんが持ってて。修理代の代わり」

「えっ、でも……」

「そのカメラでさ、今の怜くんが見てる世界を撮ってよ。東京に戻っても、どこに行っても。怜くんは、優しい写真を撮る人だったから。私はそれが好きだったから」


彼女はカメラを僕の手に押し付けた。その手のひらの温もりが、金属の冷たさを通して伝わってくる。


「もし、いい写真が撮れたら、送って。私がそれに合う『音』をつけて、作品にするから。……どう? 私たちの、十五年越しの合作」


僕は呆気にとられ、そして笑いが込み上げてきた。


涙で視界が滲むのを誤魔化すように、僕は大きく笑った。


なんて人だろう。


僕が十五年かけて背負ってきた重荷を、彼女は軽やかな羽に変えてしまった。


「ああ、分かった。約束する。最高の写真を撮るよ」

「期待してるね、相棒」


彼女が差し出した右手を、僕は握り返した。

その手は、昔よりも少しだけゴツゴツしていて、油の匂いがして、とても力強かった。

店を出ると、空は突き抜けるような青だった。


カメラを構える。ファインダーを覗く。

そこには、店の前で手を振る衣香の姿があった。


ピントを合わせる。


彼女の目尻の笑い皺も、風になびく後れ毛も、すべてが愛おしい「現在」の証だった。


「カシャッ」


乾いたシャッター音が、夏の空気に溶けていく。


それは、過去の罪を裁く音ではなく、新しい時を刻み始める音だった。


僕はカメラを下ろし、彼女に向かって大きく手を振り返した。


胸の奥にあった棘はもうない。代わりに、透明な風が吹き抜けている。


僕たちは傷つけ合った。若すぎたから。

でも、大人になった僕たちは、それを直すことができる。壊れたカメラを直すように、丁寧に、時間をかけて。


ファインダー越しに見た彼女の笑顔は、十五年前の夏よりも、ずっとずっと眩しかった。

僕もきっと今、同じような顔で笑っているはずだ。


未完成の地図をポケットにしまい、僕は歩き出す。


終わらない夏が、ここからまた始まるのだ。


「傷つけた人がいる、ただ若すぎたから」

この言葉は、過去の自分への戒めであり、同時に許しへの願いでもあります。


未熟さが生んだ棘は、時として一生抜けません。けれど、怜と衣香がそうであったように、大人になった私たちは、その痛みを共有し、別の形で美しい「作品」へと昇華させることができるはずです。


壊れたカメラが直るように、人の心もまた、何度でもピントを合わせ直せる。ラストシーンのシャッター音は、過去への決別ではなく、未来への挨拶です。


この物語が、皆様の心にある「埃を被った時間」に、少しでも優しい光を当てられたなら幸いです。

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― 新着の感想 ―
面白かったです。 綺麗で痛いお話でした。 告白前よりも良い方向には向かっているのは確かなんだけど、なかなかハッピーとも言えないところもあり、遅すぎやんとも思いますし。 そもそもマイナスをすべて衣香さん…
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