08
身支度を整えスタッフからお金を受け取るとおぼつかない足取りで外に出る。
スタッフから渡された封筒の中に入っていたのは数千円。
朝から夕方まで新規客を付けられ一万円にも満たないのだ。
借金返済分として除かれている分から抜かれているのではないか?等とスタッフを疑ってしまう気持ちもある。
封筒を鞄に仕舞い帰りたくない家へと向かってゆっくり、ゆっくりと歩き始める。
すれ違う人達は皆忙しそうで楽しそうで辛そうで。
杏子だけでは無いのだと思う反面、でも皆は助けてくれる人がいるんでしょう?と羨む気持ちがそこにある。
助けばかりを求めていても何にもならない事は分かっている。
結局自分でどうにかしなきゃいけないという事も分かっている。
でも、心の中で思うくらいは自由でしょう?
どれくらい歩いただろう。
まだ家には辿り着かない。
気付けば周りの人の数も減り、空は暗く染まっていた。
ほんの僅かに月明かりが照らし出す道。
ぐぅっとお腹が鳴る。
杏子はお腹を押さえ周りに人がいないかキョロキョロと見渡した。
「よかった、誰もいない。」
杏子がホッとした表情をすると、「俺が見えないんだ?」と背後から声を掛けられる。
「!?」
杏子が素早く振り返ると、帽子を被っただけの黄汰がにこりと微笑み手を振っていた。
「最初からそこの電柱の所に居たんだけど、相当お腹がすいていたのか、それとも全く周りを見ていなかったのか、全然気付かなかったね?」
黄汰は杏子の前に立つと手を差し伸べる。
杏子は差し伸べられた手から黄汰の瞳へと目線を動かした。
「帰ろう。帰ってご飯を食べよう。」
「……私の家はこっちなので。」
「今日から向こう側だよ。」
黄汰は杏子の家とは逆側に位置する自宅の方角を指差す。
「そんな急に……やっぱり無理です。」
「どうして?」
黄汰の声は穏やかで、それが杏子の不安を煽った。
「そういうのは好きな人と……。」
「これから好きになってくれればいいって言わなかったっけ?
それとも、俺の事は死ぬまで好きになれない?」
「それは……分からないですけど……。」
杏子が言葉を詰まらせていると、「おかえりぃ。」とまた背後から声が聞こえる。
杏子は目を見開くと素早く後ろを振り返り声の主を睨み付けた。
「おぉおぉ、そんな怖い顔をするなよ。
……ってあらら、仕事中だったか?はっはは、店外は良くねぇな。」
煙草を咥えスーツを着た男。
「そんなんじゃない。」
「ふぅん?
ところでお前、どうして今日早退したの?ちゃんと返す気ある?」
「……ある。明日からまた頑張るから。」
「明日からとかぬるい事言ってんじゃねぇよ。
まぁでも俺もそこまで鬼じゃねえから今日は見逃してやるけど、勝手な事はするな。分かったな?」
男は杏子の髪に触れ掬い上げると毛先に煙草の火を押し付けた。
焦げ臭い煙が立ち杏子は顔を顰める。
「次は身体ね。」
男は杏子にそう言うと煙草を地面へ落とし靴で踏み付ける。
「この子の借金は残りいくらなの?」
杏子と男の間に割って入った黄汰は恐れている様子は一切なかった。
そんな黄汰を見た男はニタリと笑う。
「お前に関係ないだろ?それとも、お前が払うか?」
「うん、払うよ。いくら?」
男は想定外の返事を返され何度か目をパチパチとさせると人差し指を突き出し「一千万円。」と言う。
その言葉を聞いた杏子は「嘘!!」と叫ぶが、黄汰は「じゃあ一千万円払うから二度とその子に関わらないで。」と笑顔を見せる。
「へぇ、払えるんだ?
……あー、そういえばちゃんと計算してなくてざっくりで一千万って言ったけど、もう少し残ってたかもしれねぇな。」
ニヤニヤとする男を睨み付ける杏子。
だが黄汰は表情一つ変えることなく一歩男に近付くと男の襟を掴みグイッと引き寄せた。
「貴方が提示する額は支払う。
でも、自分の立場を弁えてもう一度よく考えてから発言した方が貴方の為だと思うよ。」
「なんだと?」
男が黄汰の手を掴もうとした時、黄汰の口が動くと男は目を見開いた。
「どうしてお前があの人の名を……?」
「その人に聞けば分かるんじゃない?黄汰って名前を言えばいいよ。」
黄汰が手を離すと男は携帯電話を取り出す。
「もし遊び感覚で名前を出したって言うならただじゃおかねぇ。」
男が携帯電話を耳に当てると、黄汰は呆れたような顔をしながら呆然と立ち尽くす杏子の頭に触れる。
「大丈夫だよ、もう心配はいらない。帰ろう?」
優しく微笑む黄汰と、電話相手に黄汰の名を告げ少し経つと青ざめる男を見て杏子は無意識的に頷いていた。
「……残りは六百万だ。」
電話を切り終えた男は弱々しい声で黄汰に告げる。
「へぇ。計算間違いをしたんだね。
それとも、他の人の債務額と間違えちゃった?」
「……悪かったよ。その支払いはあの人に渡してくれ。」
「もう俺と会うなって言われたんでしょ?過保護だからね。」
「…………これでもうお前の借金は無くなった。
店にも俺から言っておくからもう行かなくていい。」
男はばつが悪そうな顔をしながら杏子にそう告げると背を向け暗闇の中へと姿を消した。
「……終わった……の?」
杏子が力無くそう言うと黄汰はにこりと微笑む。
「うん。終わりだよ。
もう無理して他の男と会わなくていいからね。」
杏子はあまりにも簡単に苦しみから逃れられたのだと自覚するとへたりとその場に座り込み涙を流した。
「どうしたの?泣くほどお腹がすいてるの?」
しゃがみこみ心配そうに顔を覗き込む黄汰。
「だって……こんな突然簡単に……。」
黄汰は力なく話す杏子を優しく包み込むと優しく優しく頭を撫でる。
「もしこの先杏子が他人の手によって苦しむことがあれば、こうして俺が助けるよ。
だから安心して。これからは自由だよ。」
気付けば杏子は黄汰の背に手を回し声を上げ泣いていた。
それを黄汰は黙って受け入れ、杏子が落ち着くまで愛を込めて包み込んだ。
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「最近調子が良さそうだな?」
あれから数日。
高平が運転する車の中で上機嫌に鼻歌を歌う黄汰。
「ふふふ、絶好調だよ。」
「ゲームをクリアしたって言ってたけど、それがそんなに嬉しいのか?」
「うん。それに帰れば愛しい人がいるし。」
「ああ、そういえば新曲もその噂の彼女との事を書いたんだっけ?
俺はモテないとか言っておきながら早々に彼女が出来たと報告された時は驚いたが、上手くいってそうで良かったよ。
それにしてもその彼女とはどこで出会ったんだ?業界の人じゃないんだろ?地元の人とか?」
「なに?高平さん興味津々だね?」
黄汰がクスクス笑いながら言うと高平はやれやれと言わんばかりに首を振る。
「誰が見てもすぐに分かるほどの浮かれっぷり。
現場ではなるべく平然を装っているんだろうが、人によっちゃ見抜いてくる。
悪い人なら週刊誌に隠し撮りした写真や録音テープを売り渡す人もいるんだよ。
単純に週刊誌側に目を付けられて撮られる可能性だってあるわけだ。
もしそうなった時、素早く対応出来るようにある程度の事は知っておきたい。」
「うーん、そうだなぁ。
俺は別に撮られて騒がれる分にはどうでもいいけど、やっぱり彼女が怖がっちゃうと思うし避けたいなぁ。」
黄汰は高平に杏子と出会った日の出来事を大まかに話した。
「多少脚色しているかと思ったが、本当に歌詞通りなんだな。
偶然が積み重なり出会ったなんてドラマみたいで良いね。
それで、傘を渡して帰した数日後にまた、たまたま出会ったっていうのも事実なのか?」
高平は歌詞を思い出しながら黄汰に問いかけた。
「そう。たまたま入ったお店の店員さんで。
俺は一目惚れをしていたからすぐにあの人だって分かったんだけど、向こうはすぐには気付いてくれなくてさぁ。」
「へぇ。黄汰に気付かないってあんまり音楽には興味が無いのか?」
「ははは、だから高平さんは俺の事を過大評価しすぎなんだって。
俺の事を知らない人はたくさんいるよ。
彼女もその内の一人だっただけ。
ただそれがよかったんだよね。
シンガーソングライターの白風黄汰じゃなくて、ただの白風黄汰として見てくれるのが。」
黄汰は嬉しそうに話す。
「まあそうだな。
肩書きありきで見られるとしんどくなってくるよな。」
「それに、本当に今まで出会った人の中で一番俺好みの見た目をしてるんだよ。
声も可愛いし、話す内容も業界に興味津々って感じでも自分の承認欲求解消の為でも無く、本当に在り来りで平凡というか。
癒されるんだよね。」
「はは、そうかそうか。
黄汰にそんな顔をさせるんだ。本当に素晴らしい人なんだろうな。
ま、俺も他の社員も社長も皆黄汰の味方だからさ、もし何かあっても俺たちが黄汰と彼女を守るよ。」
「うん、有難う。
じゃあ今日はこれで!」
黄汰は車が自宅下に着くとすぐに鞄を手に持つ。
「ああ、お疲れ……って待った!
一つ言っておかなきゃいけないことがあるんだった。」
「ん?何?」
ドアに手をかけた黄汰は座り直すとソワソワとしながら高平の言葉を待った。
「最近この辺りで殺人事件がおきただろ?
黄汰の家から丁度東側の結構人通りの少ない場所だったんだが、あの付近の店によく食事をしに行ってるって言ってたよな?」
「ああ、うん。そうだね。
向こうの方はそこまで人も多くなくて美味しい料理店もあるし、楽器類とかも結構豊富に揃えられているからね。
最近はそこまで行くことは無いけど。」
「まだ犯人が捕まるどころか特定さえされていないって話だ。
念の為、暫く向こう側に行かないでほしい。
まだ近くに潜んでいるかもしれないからな。
潰せる不安要素はなるべく早めに潰しておきたい。
それでも行かなければならないって時は絶対に俺に連絡をしてくれ。
一緒に行くから。いいな?」
高平の真剣な顔を見た黄汰はクスクスと笑う。
そんな黄汰を見た高平は眉間に皺を寄せると黄汰の頬を軽く抓り「人が心配しているのに何を笑っているんだ?」と言うと、黄汰は痛い痛いと目に涙を浮かべ笑ったまま高平の手をそっと離す。
「ふふ、ごめんごめん。
でもこうして心配してくれるのが嬉しいんだよ。
暫く向こうに行く用事もないし、もし行きたいってなったら必ず連絡するよ。
高平さんも気を付けてよね。」
「まぁ、分かっているならそれでいいが。
最近はやたらと物騒な事件がおこっているからな、いつ標的にされるかも分からないし、いつどうやって向こう側に巻き込まれるかも分からない。
……黄汰に関してはほら、地元にいたんだろ?有名な人が。
そういう人もいつどうやって関わろうとしてくるか分からないから、本当人間関係も気を付けてくれよ。」
「大丈夫大丈夫。
あの人は同じ地元だったってだけで、学年も違うから小学生の時に数年同じ学校に通っていただけ。
その後は全然知らないよ。
成長したあの人の顔も分からないし、向こうも俺の事なんて覚えるどころか知りもしないと思う。
俺が向こう側の人間と関わる事は無いよ。」
黄汰の屈託の無い笑みを見て高平は安心する。
「ごめんごめん、そうだよな。
黄汰に限ってそんな人と関わる事なんてないよな。
念を押す必要なんて無いのに俺は……ごめんな。」
「大丈夫。
高平さんが心配性で俺のことが大好きだって事よく知っているからね。」
ヘラヘラと笑う黄汰。
高平は耳を赤くすると「話は終わり!また明日!!」と前を向く。
「ふふ、お疲れ様。また明日ね、高平さん。」
黄汰はドアを開き車から降りると手を振った。
高平は黄汰がマンションの中へと入っていくのを確認すると車を発進させる。
エレベーターを待つ黄汰はソワソワとしており、既に手にはキーケースが握られていた。




