夢の流線 銀の軌跡
「旅に出ませんか?」
落ち着いた色味だが、洗練されたスーツを身に纏った男性が話しかけてきた。コロナ以降、旅行らしい旅行なんて行く時間もお金もなかったな、と考えているうちに、1枚の切符が目の前に現れた。
「ワタクシ、妄想旅行代理店のものです。只今お試しキャンペーン中でして」
行き先欄が空白の、磁気乗車券が指に触れた。
「お家に戻って、家事を済ませてからです。お風呂へ入りパジャマになって、後は寝るだけ。そんな時に、この切符を取り出してください。貴女を素敵な妄想旅行にご案内いたします」
いつもならスマホを触っている時間に、乗車券を取り出した。すると、私の目の前に銀と藍を基調とした、流線型の特急列車が現れた。
くっきりしたゴシック文字の「ヴォルケンバーン号」という名前が、名札のように横腹に飾られている。その姿は、まるで現世から切り離された、夢の欠片のようだった。車体は僅かに光を放ち、触れると銀色の光の粒が集まってくる。
まばらな乗客に導かれるよう中へ入ると、名前の通り、ヴォルケン(雲)の意匠があちこちに見られた。
天井は深い藍色のドーム状になっており、乳白色の雲を描いたガラスモザイクがはめ込まれている。車両と車両の間のドアには、精緻な雲の彫刻が施されていた。柔らかな曲線で描いた巻き雲、夏の日に見た積乱雲、秋の鰯雲などが銀色に浮かび上がる。光が当たると陰影が生まれ、本物の雲が車内を漂っているように見えた。座席の布地は、薄灰色の雲が連続パターンで描かれ、柔らかな質感で乗客の体を支えている。
発車ベルが鳴った。列車は音もなく滑り出す。
いつもの町並みが溶けるように、窓の外の景色が変わっていく。ビルの輪郭が揺らぎ、街灯の光が滲む。やがて、風景は雲の海と星空が交錯する不思議な空間へ突入した。列車は地面を離れたかのように、重力を忘れて浮遊して進む。私の体まで軽くなり、日常の重荷がどこかへ消えていく感覚に包まれた。
車内の様子を観察しながら、食堂室へ足を運んだ。
そこはまるで古い洋館の一室だった。シャンデリアが揺れ、木のテーブルには銀の燭台が並ぶ。白い手袋をはめた給仕の青年が、銀のトレイに乗せたカクテルグラスを1つ勧めてきた。
琥珀色のとろりとした液体を舐める。口に含むと甘く、喉を通るとき微かに花の香りが広がった。一口飲むごとに、記憶の断片が浮かんでは消え、子どもの頃の夢や忘れていた願いが心に蘇る。不思議なことに酔いは訪れず、ただ心が澄んでいくばかりだった。
窓の外では、雲の海が寄せては返し、星々が瞬いている。
隣の席に座った老女は、遠い目をして窓の外を見ている。その隣には若い男性がスケッチブックを広げて、何かを描いている。反対側には、女性が革の手帳を手にじっと見つめていた。書くべき言葉を探すように、指先が小さく震えている。灰色のコートを着た中年男性は、イヤホンを耳に押し当てて目を閉じた。
乗客たちは、同じ空間にいながら、互いの存在を認めないかのように孤独をそっと抱きしめていた。誰もが失ったもの、届かなかった夢、言えなかった言葉を胸に秘めているようだった。その孤独は重苦しくなく、どこか軽やかで、列車の揺れとともに漂う浮遊感を感じさせた。
「ヴォルケンバーン号」は、彼ら彼女らの心の隙間を優しく包み、癒やすために走っているのかもしれない。
やがて、終点に近づいたのか減速する圧力が体を通り過ぎた。
さきほどの給仕が現れ、乗客1人1人に小さな焼き物の茶碗を配り始めた。嬉野茶だ。透き通った緑色の茶は、湯気とともに柔らかな香りを放つ。一口飲むと、森の朝に立つような清々しさが全身を巡った。茶を飲んでいると、隣の席の誰かと目が合う。孤独は消えないが、時間と場所を共有した共犯者のような絆が生まれた。
列車が減速すると、窓の外に現実の風景が戻ってきた。
嬉野の山々が朝焼けに染まり、茶畑が静かに広がる。駅に降り立つと、浮遊号は幻のように消えた。ホームにはただ、朝と茶の香りだけが残っている。改札を前にしてポケットから取り出した切符を見ると、行き先欄には「嬉野」とだけ記されていた。
妄想旅行代理店は、きっとまたどこかで私を待っているだろう。
やかんに水を注ぎ、ガスコンロにかける。今日の朝食は、いつもより美味しく作れそうな予感がある。私の日常は、昨日と少し違った形で始まろうとしていた。
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