第1章:穏やかな再会と不穏な影
春の陽気が校舎を優しく包む中、私立早蕨女子学園の門をくぐった山野菫と宇佐見理沙は、馴染みの景色にほっと息をついた。
新学期の初日、桜の花びらが舞う校庭は、どこか華やいだ雰囲気に満ちていた。菫は周囲の空気を軽く吸い込み、胸の奥で小さな喜びを感じていた。幼い頃からこの学園が彼女の「家」であり、理沙がいる場所が安心の源だった。
「わー、みんな元気そう! 菫、ほら、クラス行こ!」
理沙は菫の手を引いて、軽快に廊下を進む。彼女の足取りはいつも通り弾んでいる。
菫は少し照れくさそうに後を追いながら、無意識に念動力のレーダーを展開する。頭の中に鮮明に浮かび上がる。生徒たちの足音、風に揺れるカーテン、遠くの笑い声――すべてが穏やかで、菫の心を落ち着かせた。彼女の気弱な性格は、こうした日常の安定を何より求めていた。
教室に入ると、クラスメイトたちの明るい声が飛び交った。
「おはよー、菫ちゃん! 理沙!」
一番に声をかけてきたのは、隣の席の少女。菫は小さく手を振り返す。
「おはよう、みんな。久しぶりだね」
すぐに周囲に輪ができ、菫はいつものようにマスコットのような扱いを受け始めた。
「菫ちゃん、春休み何してたの? あ、相変わらず可愛い~! 触ってもいい?」
一人が菫の茶色の髪を軽く撫で、みんながくすくす笑う。菫の頰が赤らむ。
恥ずかしさが胸に広がり、彼女は小さく体を縮こまらせた。でも、心の奥底ではこの温かさが嬉しかった。純真無垢な彼女にとって、クラスメイトの優しさは、失った両親の代わりのようなもの。幼い頃の事故以来、理沙以外にこんな風に甘えられる存在は貴重だった。
「えへへ、ありがとう。でも、恥ずかしいよ……みんな、元気だった?」
菫は微笑みを返し、照れ隠しに視線を逸らす。理沙が笑いながら割って入る。
「ほらほら、菫をいじめないで! 私も一緒にいるんだから、みんなで話そうよ!」
再会の喜びが教室を満たす。春休みの話が飛び交い、菫は静かに聞きながら、時折小さな笑みを浮かべる。誰かが旅行の土産を配り、菫は小さなチョコレートを受け取って目を輝かせた。
「わあ、ありがとう……甘い匂いがするね」
そんなささやかな幸せが、彼女の心を柔らかく溶かす。
理沙は積極的に話題を振って、輪を広げていく。二人のコンビは、クラス全体のムードメーカーだった。
菫は内心で理沙に感謝していた――理沙がいなければ、彼女の気弱さはもっと目立ってしまうだろう。
授業は進級後初日ということもあり、軽めのオリエンテーション中心。先生の話もそこそこに、いつもより早い下校時間になった。菫と理沙は肩を並べて校舎を出る。
「今日の授業、なんかあっという間だったね。菫、放課後、学園長室の掃除だよ!」
理沙の言葉に、菫はうなずく。
「うん。日比野さんが出張中だから、ちゃんと綺麗にしなくちゃ」
二人は学園長室へ向かう道中、夕飯のメニューを相談し始めた。
「今日の夕飯、何作ろうか? 菫の和食がいいかな~。お刺身とか!」
理沙の目が輝く。菫は小さく笑う。
「ううん、理沙の洋食もいいよ。パスタとかどう? 私、トマトソース作れるよ」
「じゃあ、ミックス! 和風パスタにしよっか。具はきのこで! あと、デザートはフルーツヨーグルトにしようよ。菫の作るやつ、いつも甘酸っぱくて最高なんだよね」
そんな他愛ない会話が、二人の足取りを軽くする。菫は理沙の横顔を見ながら、心の中で思う。
『理沙と一緒にいると、毎日が楽しい。幼稚園の頃から、ずっと……』
事故の記憶がふとよぎるが、すぐに振り払う。学園長室に着くと、鍵を開けて中に入った。広々とした部屋は、書類が少し散らかり、埃が薄く積もっていた。
「よし、掃除開始! 菫は窓拭き、私が床掃除ね」
理沙がモップを手に取り、菫は雑巾で窓辺を拭き始める。部屋に穏やかなBGMのように、二人の笑い声が響く。夕飯の話は続き、まるで姉妹のようなやり取りが続く。
「きのこパスタ、美味しそう! きのこはシイタケとエリンギでどう? 私、炒めるところ手伝うよ」
菫の声は柔らかく、理沙が元気に応じる。
「うんうん! 菫の料理、楽しみ~。あ、ここの棚、埃すごいね。拭いちゃおう!」
二人は時折、窓から外の景色を眺めながら作業を進めた。校庭の桜が風に舞い、穏やかな午後が流れていく。菫の心は穏やかで、純真な喜びが満ちていた。
『日比野さん、喜んでくれるかな……』
そんな小さな期待が、彼女の動きを軽やかにする。
そんなほのぼのとした時間が、突然変わった。
菫の体がぴくりと反応した。無意識のうちに発動している念動力のレーダー――自身を中心とした360度の空間把握能力が、外の少し離れた場所で異常を捉えた。
フラフラと歩く人影。歩調が不自然で、今にも倒れそうだ。菫の眉が寄る。心臓が少し速く鼓動を打ち始め、胸に冷たい予感が広がった。
『何か……おかしい。こんな感じ、初めて……』
彼女の純真無垢な心が、初めての違和感にざわつく。
「ん……? 理沙、何か変な感じがする」
菫は不審に思い、窓から外を見た。遠くの校庭の端、木陰に人影が見える。
フラフラとよろめき、まるで酔っぱらったような歩き方。菫の目が細くなり、能力を少し集中させる。空間情報がより鮮明に――人影の体温、動きの乱れ、息遣いがおかしい。
彼女の気弱な性格が、こうした異常を過敏に捉え、心に不安の影を落とす。
『倒れちゃうかも……誰か助けてあげないと……』
純粋な心配が先に立つが、すぐにそれが違うものだと気づく。
「え、どうしたの、菫?」
理沙が近づき、一緒に窓辺を覗く。二人はしばらくその様子を観察した。すると、通りがかった教師が心配そうに声をかけるのが見えた。
「大丈夫ですか? 具合が悪いようですが……」
教師の声が遠くから聞こえる。菫の心が少し安堵する。
『よかった、先生が気づいてくれた……』
だが、次の瞬間――フラフラの人影が教師に飛びつき、首筋に噛みついた。鮮血が噴き出し、教師の悲鳴が響く。空気が一瞬で凍りつき、菫の視界が揺らぐ。
「え……!? な、何……あれ……」
菫の声が震え、絶句する。彼女の純真無垢な心が、初めての残酷な光景に粉砕される。血の色が目に焼きつき、胃がひっくり返るような吐き気がこみ上げる。
『先生が……噛まれてる……痛いよ、きっと……どうして……』
恐怖が胸を締めつけ、涙がにじむ。気弱な彼女は、ただ立ちすくむことしかできない。理沙の顔も青ざめ、棘バットを握りしめる。
「こ、これ……ゾンビみたい……! 菫、逃げよう!」
理沙の声が緊迫する中、教師の周りに近くにいた生徒たちが駆け寄る。
「先生! どうしたんですか!?」
だが、悲劇はそこで終わらない。他のフラフラした人影が、影から現れ、生徒たちに襲いかかった。噛みつき、引き倒す。
叫び声が校庭に広がり、血の臭いが風に乗って届くかのよう。パニックが一気に爆発した。
一人の生徒が倒れ、血だまりが広がる様子が、菫の念動力で詳細に捉えられる。
死角からの襲撃、肉を裂く音、苦痛のうめき――すべてが頭の中に洪水のように流れ込み、菫の心を圧倒する。
『みんな……死んじゃう……私、何もできない……怖い、怖いよ……』
彼女の体が震え、膝がガクガクする。純粋な恐怖が、涙として溢れ出す。理沙が菫の肩を掴む。
「菫、しっかり! 私たちも危ないよ!」
菫の超能力が即座に周囲をスキャン。学園長室の近くにも、同じ不気味な気配が複数。壁越しに動きを読み取り、ゾンビのような存在が迫っていることを察知した。
空間情報が警告のように閃く――足音の乱れ、息遣いの異常、血の匂いさえ感じる。菫の心臓が激しく鳴り、息が浅くなる。
『近くに……来てる……逃げられない……』
恐怖が頂点に達し、彼女は声を絞り出す。
「待って! 近くにもいる……外は危ない。この部屋に籠城しよう!」
二人は急いで行動した。扉に机とソファを立てかけ、バリケードを築く。心臓の鼓動が耳に響く。理沙が息を荒げ、棘バットを構える。菫は壁に背を預け、能力を全力で展開。
外の悲鳴が続き、窓ガラスが震えるように感じる。
『どうしてこんなことに……みんな、助けて……』
彼女の純真な心が、絶望の淵で揺らぐ。
「情報集めよう! スマホは……圏外!?」
スマホは電波がなく、ラジオとテレビに頼る。スイッチを入れると、ニュースが流れた。
「豊栄町内で大規模暴動が発生。鎮圧のため、町は一時的に隔離されています。住民の皆様は屋内に留まり……」
暴動? だが、画面に映るのは、フラフラしたゾンビのような人々が人を襲う様子。街全体が地獄と化している。
菫の体が震え、理沙が彼女を抱きしめる。外の叫び声が絶え間なく響き、緊迫した空気が部屋を満たす。菫の涙が止まらず、能力の負担が体を重くする。
『これから、どうなるの……理沙、怖いよ……』
穏やかな日常が、突然の悪夢に塗り替えられた瞬間だった。彼女の心は、恐怖と混乱の渦に飲み込まれていく。