小説を応募する小説
小説を応募しているところに小説を応募する小説を書く。そんなことを書きたくなった。なんなのだろうか?やっている自分でも意味がわからなくなりそうだ、でも普通の小説ではきっとダメだと思った。トガったものを書かなくてはきっと読む人の目にはとまらない。中二病のような、夢遊病のようなきっと好きな小説を、いや本当に自分が文章で表したいものは、訴えたいものはきっとそんな自己主張だらけで協調性のかけらもないようなそんなものなのだと思う。
例えば朝起きた時の表現。
目を覚ますといつもの見知った天井が目に入ってきた。身体が重い、きっと昨日飲みすぎたからだろう。睡眠と飲みすぎで体の水分はほぼ無い、思考回路を回復するために、重い体を起こし洗面台でコップに水を入れ一思いに飲み干す。
みたいなありきたりな情景の浮かぶ文章を書いてみてもそのうちに飽きてしまうし、それはきっと読者に対してよりわかりやすい情景を浮かべさせるためだけの言ってしまえば写真か文章かの違いの文面でしかない。
私の書きたい文章はもっと利己的な、こうなんだと自己主張した文章だ。私はこう思う!こういう世界をみている!
そう言えるような文章が書きたい。とはいえ今訴えられることが何かと問われれば具体的にわかりやすく書くことなど到底できないのかもしれない。
今読んでいるあなたにさえわからない、きっとほとんどの人には通じない、「こいつなにいってんだ?」的な文章になると思う。
でもいくら頭の中でいろいろ物語を作ったところでそれは、自分に対してのフェイクであり、つまらない文章だ、私が訴えたいものでは決してない。
じゃあ何が言いたいの?そういう人がいるだろう、私は思う、きっとほとんどの人間は生きるなかで本当にしたいことをしている人はきっと1割にも満たないのだろう。学校に行きたいか?勉強がしたいか?仕事が楽しいか?仕事がしたいか?子育てがしたいか?婚活がしたいか?きっとしたくてしているわけじゃない。
お金が欲しいから仕事をするし、将来の為とか、親に言われたからとか、それが当たり前だからという理由で学校に行き、結婚はして欲しいとか、「結婚したら?」と友人や親に言われて仕方なくそういうことをしているのではないだろうか。
でも違う何だろう!どうしてもウズウズするというかそれに対して本当の私はこうじゃないとか本当の俺はこうじゃないとか思ったりしないだろうか?
私は思う。これは完全な自己主張の文章だ。でも正直な文章だ、実際世間では成功した人しか注目は浴びない、
まあ正確には悪いものでも注目はされるのだけれど、成功した人しか称賛されない。称賛されたい!きっと気持ちいいそれは承認欲求だろう。
私だって称賛はされたい、でも称賛されるには何かを成さなければならない。じゃあ何をするの?人と違うこと?何が正解?正解なんてない。
やった中で世間一般に認められて、それなりに利益なり、価値なりを生み出せれば・・きっとそれが成功であり称賛を与えられることなのだろう。
小説を応募する。きっと私以外にも多くの小説を投稿する小説家なり、小説家志望なりがごまんといるのだろう。
いつも本屋に行って思うのはあれだけ多くの小説が書店に並ぶなか、そんなにも小説は世間の人に読まれているのか?ということ。だって小説読む人ってそんなにいる?私はいないと思う。でもベストセラーは『何万部売れました』とか大々的に帯がついたりしてたりする。人ってそんなに本読むんですか?
私はそうは思わない。きっと何万部売れましたって帯がついたものであっても、実際に読まれているのは出版された本のうち5割にも満たないのではないかと思う。とりあえずベストセラーだから買っといてそのまま放置とか、数ページ読んで放置とか、布教用に買って放置とか、そんなのが半分くらいを占めているのではないか。
ベストセラーに喧嘩を売りたいわけじゃない。これもなんだか本当の私の文章ではないような感じになりそうだからもとに戻す。
私が言いたいのはなんというか「本当はこんなんじゃない」って思う自分。それは私だけなのかな?私だけならそれはとても悲しい。でもなんか他の人もそう思っている人って結構いるんじゃないかと思っている。
私は、俺はこんなところでくすぶっている人間じゃない。本当はもっとできるんだ。もっとモテていいはずだ!もっと評価されていいはずだ!って思ってないのかな?
自己主張の文章とか最初に賜っておきながら共感されなかったら悲しいとか、こうじゃない?なんて共感を促してる。またなんか間違った気がしてきた。
私は思う、多くの評価された作品の下にうずたかく積み重なった評価されない土台となる埋もれた作品は、きっと世間一般にはつまらないと評価されてしまう作品。それでもそれも誰かが一生懸命作ったものなんだ。私は聖母マリアでもないし、ガンジーとかそういう有名な人ではないけれど、その中にも作った人の魂みたいなものはあるから私は価値があると思う。
小説のみにかかわらず。学校でみんなが当たり前に解ける数学の問題があなたにとって解けない問題でもそれがいくら遅くなっても解けたのなら、それは評価されていなくても評価されるべきだし。逆上がりがあなただけできなくても、成人してからたまたまできるようになったらそれも評価されるべきだと思う。それは自分でしか評価できないし。他人は評価してくれない。評価されないとしても。自分は評価してあげてほしい。
なんだか優しい文章になってしまって主張がおろそかになってきている気がする。訴えたいこと、そもそもこの文章を書けている時点で私は少しは自分がやりたいことをやれているのだと思う。だって1円にもならないこの文章を無我夢中で書き連ねている、人間に生まれなければ、日本に生まれなければ、パソコンがなければ、国語を習っていなければこんな文章は書けない。どうしようもなく稚拙で起承転結もしっかりしていない文章だけれども、それでもそれだけの幸運がなければ、この文章はかけていない。
今ただこの文書をただ書き連ねている時点で1時間かかっている、人生の時間の中のたかが1時間。されど1時間。でもそれでも私にとっては価値のある1時間。誰も評価してくれなくても価値のある1時間。そうやって少しずつ自分の自己肯定感を強めている。
正直、自己肯定感っていう言葉も私はあまり好きじゃない。だって弱い人が使う言葉な気がしてなんだか嫌。だからもう使わない。
尖っている小説かどうかはわからない、これを小説と表現していいのかもわからない。でも・・
私の訴えたいこと、それはきっと自分を大切にしてほしいということ。だということが今わかった。
もっと自由に、小説は自分の好きな世界で自分の好きなことを好きなように書いて良いんだということ。