10・パンの味
「べつに、なんでもないし」
一瞬、弱気になったもののマーカスの顔を見ると、やっぱり観念したくなくなる。
まだ時間はある。ギリギリまで粘ってみよう。
「・・・ふーん」
一瞬、動きを止めたマーカスは笑顔のまま私の隣に座った。
「ちょ、なんで隣に座るのよ! ほかのベンチも空いてるでしょ」
「俺がどこで休憩してもべつにいいだろ」
「はぁー!?」
「それに婚約者同士が離れているなんておかしいだろ」
「っ〜!」
それが嫌だって言ってるのに。
街の人気者のマーカスがいると目立つ。視線がチクチクと刺さる。
「ごちそうさまでした」
一気に食欲を失った私は残っていたパンを紙袋に戻す。
「それじゃ、お先に失礼します」
「待てよ」
ベンチから立とうとした私の腕をマーカスが掴んだ。
立ちかけの中途半端な姿勢で地味に腰にくる。
「なによ」
「まだ食べている途中だろ」
「食べ終わった」
「パン1つしか食べてないくせに? まだパンは残っているだろ」
「どれくらい食べるかは私の自由でしょ。残ったパンはちゃんとあとで食べるわよ」
食べた量や残っているパンのことを気にしているかと思って返事をすれば、なにが気に入らないのかマーカスは不機嫌そうに眉をひそめた。
「そんな小鳥みたいな食事しかしないからお前は貧相なんだ」
はぁー!? なに言ってんの!?!?
我が家が貧乏で食事も取れないと思ってるんですか!?
えぇ、えぇ。私のは胸は控えめですよ! 食事の量は関係ありませんけどね!
それとも女性は小鳥みたいなさえずりだの、子猫ちゃんだの言っていれば喜ぶとでも思ってます!?
好青年の仮面を被った顔だけの嫌味な男め!!
「とにかく座って食べろ」
私の胸中なんてわからないマーカス。
ぐいっと腕を引かれて、元の位置である、マーカスの隣に座ることになった。
「・・・」
心の中ではマーカスにいろいろ言い返せるけど、実際に口にできるかは別問題。
現代社会に荒波に揉まれに揉まれた私は強い言葉を口に出すのは苦手だ。弱音だって言えはしない。
『アリシア? 親同士が決めた婚約者でべつになんとも思っていない』
とある日、街で聞いてしまったマーカスの話し声が頭の中で響く。
・・・一度、手を離された人間を信じられるほど、私は強くない。
「食べればいいんでしょ、食べればっ」
紙袋に手を入れて、無理やり口にいれる。
「ゔっ…」
さっきまで美味しく感じていたパンは砂みたいな味になっていた。
絶対、マーカスが隣にいるから心的ストレスが原因だ。
「どうした。さっきまで美味しそうに食べていただろう」
「えぇ、さっきまでは美味しかったですよ」
嫌味の一つでも言ってやりたいだけど、私の語彙力では不可能だ。
「冷めるとそんなに味が変わるのか?」
「それは多少変わるけど…って!?」
パンは出来立てが最高に美味しいとは思うけど。
なんて頭の中でつらつらと考えごとをしていたせいか、マーカスが顔を近づけてきたことに気づかなかった。
「っん。美味しいじゃないか」
「え、ま、だって、サリー家のパンは冷めても、美味しいし…?」
私が手に持っていたパンをマーカスがぱくりと食べた。
混乱する。
なに。いきなりになに。え、どう言うこと。なにが起きているのか。
「アリシア、体調でも悪いんじゃないか」
そのまま真剣な表情をしたマーカスが手を伸ばしてーーって近い近い近い近い!!
3次元のカッコいい顔は、まだ慣れてないんだってば!
「なにしてんだ」
マーカスがどんな表情をしているかわからないけど、声だけで呆れているだろうことはわかる。
「ちょっと眩しいかったもので」
私は持っていた紙袋を自分の顔の前に持ち上げた。
急場しのぎの即興で対応したわりには、視界からマーカスが消えて大成功だ。私の心の平穏を保つことに比べたら、マーカスの呆れなんてどうってことはない。
「…アリシア、お前、本当に大丈夫か」
だから別におかしくなってなんかないからね!
顔が熱くて、謎の動悸息切れが治るまで、ちょっとだけ時間をもらうだけだから!!