なぜ彼は裏切ったのか
1600年8月、中旬。
「よーし、良い子だ。あっという間に兎を二匹捕まえるなんて僕とは違って優秀だな、秀鷹は」
小早川秀秋、18歳。"伏見城の戦い"に参戦していた秀秋だったが、一人京都を離れて近江の野原に来ていた。
今は、相棒の鷹である秀鷹を連れて狩りの最中。腕に乗る利口な相棒を撫でながら、秀秋は日頃の愚痴を吐く。
「みんな僕に、『兵を率いて戦をしろ』って五月蝿いんだよ。僕が居なくたって兵士達はいつも通り動けるし、策だって全部松野が考えてるっていうのにさ」
松野重元、秀秋に従う重臣の名だ。
「松野も他の重臣たちも、僕自身に従ってるわけじゃ無い。彼らはみんな、秀吉様に従ってるのさ」
豊臣秀吉。この国で初めて天下統一を成し遂げた、偉大な武将の名である。
秀秋が3歳の頃、叔父であった秀吉の養子となった。そのまた9年後に小早川家へと養子入りしたものの、秀秋を"秀吉の子"として見る者は少なくない。
"秀吉の子"故に、秀秋は18歳と言う若さで一軍の大将を任された。
実情はどうあれ、少なくとも秀秋はそう思っている。
「秀吉様はもう死んだっていうのに、未だに"西"は秀吉様の影を追いかけてる。その一方で、"東"は徳川家康という光に向かって走り始めた」
"西"の誰かに聞かれたら首が飛びかねない事を呟いた、その時。
秀秋の元へ大きな影が近づいた。
「ようやく見つけましたぞ、秀秋様!!」
馬に乗って現れたのは、秀秋の重臣である松野重元。
随分と息を切らしている様子の松野に、秀秋は軽い口調で話しかける。
「やあ、松野。伏見城での戦は、もう終わったのかい?」
「"もう終わったのかい?"ではありませぬ!! 一軍を率いる大将が、その責務を放り出して戦場からいなくなるなど前代未聞ですぞ!!」
全く反省していない様子の秀秋に、松野は声を荒げた。
「僕一人がいなくなっただけで身動きができなくなるほど、我が軍は弱くないさ。どうせ伏見城は落とせたんだろう?」
戦場に居なかったというのに自軍の勝利をまるで疑わない。
その自信が決して味方への"信頼"から来るものでは無いことを、松野は良く知っていた。
「確かに落とせましたが、結果の問題では無いのです。戦場に大将がいなければ、敵にも味方にも示しがつきませぬ」
「戦の中で"東"に大将を見られるようなことがあればその戦は負けだし、"西"の者に本気で僕が大将だと思っている奴はいないさ」
「秀秋様は自分への評価が過小でございます。謙虚な姿勢は立派ですが、時には過剰なまでの自信というのも必要でございますぞ」
秀秋は「僕なんかいなくても」という言葉を頻繁に口にする。まだ経験が浅いからこその自信の無さであり、これからの戦を通して秀秋には成長してほしい。
重臣として、松野は強く願っていた。
「......松野は、僕が大将にふさわしいと思うかい?」
「当たり前でございましょう!!」
秀秋の口から溢れ出たその問いに、松野はすぐに応えた。
「天下一の武将である豊臣秀吉様の一部をその名に貰い受けた、小早川秀秋様。あなたは秀吉様の意志を継ぐものとして、歴史に名を刻み込む運命なのです!!」
松野の熱意のこもった一言に、秀秋は目を閉じる。
そして、再び開かれたその瞳には鋭い決心が宿っているように見えた。
「行こう、松野。決戦の地、関ヶ原へ」
1600年、9月14日。小早川秀秋率いる1万5千の軍勢が、関ヶ原の南西に位置する松尾山城へと入城する。
決戦の開始は翌日。決戦前夜に武士たちを鼓舞するため、秀秋は初めて前に出て皆の注目を集めた。
「我が軍の皆、聞いて欲しい!! 今まで大将らしい事を出来なかったことを詫びると共に、ここまで着いてきてくれたことに感謝を伝えたい!!」
胸を張って演説をする姿は、まさに大将として相応しい姿であった。
自然と目を惹きつけられるカリスマ性に、その場の誰もが秀秋と秀吉の影を重ねた。
「明日は、我らの誇りを守るための最後の戦だ!! この国に秀吉様の名を永遠に刻み込むため、我を信じて最後までついてきて欲しい!!」
闇をも掻き消すほどの秀秋の叫びに応えるように、軍の者たちは皆一様に凄まじい歓声を上げる。その場の誰もが、"西"の勝利を決して疑わなかった。
そして、9月15日。"関ヶ原の戦い"、決戦当日。
戦いの火蓋が切られる少し前、小早川軍に衝撃の知らせが飛び込んだ。
「裏切りだ!! 大谷が裏切ったぞ!!」
大谷吉継、西軍の武将が一人。その目に光を失っても尚、西側のために戦っていた秀吉の忠臣だったはずだ。
そんな男が"西"を裏切ったという知らせが陣内に轟く。その知らせを聞いた松野は、すぐに秀秋の元へ向かった。
大谷の軍は、秀秋たちがいる山の麓に陣取っている。本当に大谷が裏切っているならば、すぐに行動を打つ必要があった。
しかし、松野はこの知らせに懐疑的であった。
「大谷殿が裏切るなどとは考えられません。おそらく我らを混乱させるための"東"の罠かと」
「......十中八九そうだろうね」
秀秋は少し考え込んだ後、松野の考えに同意を示した。
「では、皆が余計な噂に惑わされぬよう秀明様の口から」
「だって、その噂は僕が流したものだからね」
「......はい?」
「伏見城での戦いの少し前にね、徳川から僕に使いがあったんだ。"東"に肩入れしないかってね」
「な、何を言っているのですか?」
「僕も最初は断ろうとしたんだけどさ、松野が言ってくれただろ? "歴史に名を刻むべき"だって」
「ええ。ですから、この決戦に勝って誇りある武将の一人として」
「勝利した軍の中の一人と、敗北した軍の中の裏切り者。どっちが歴史に名を刻めると思う?」
「......まさか、秀秋様!? なりませぬ、なりませぬぞ!!」
「松野、僕はね。ずっと"秀吉の子"であり続けるのは嫌なんだ」
"関ヶ原の戦い"。西側有利と思われていたその戦いは、とある武将の裏切りによって戦況がひっくり返ることとなった。
"裏切り者"として深く歴史に名を刻んだ男の名は、小早川秀秋という。
彼の裏切りを止めようとしたが叶わず、一人戦線を離脱した忠義ある重臣。
秀秋のおまけとして暫し語られる男の名は、松野重元という。