はじまりは悪夢
背中に強い衝撃が走った。そのおかげで俺は意識を取り戻したようだ。
――寒い。とにかく寒い。体も動かない……。
かろうじて目を開くと、視界いっぱいに青空が広がっていたので仰向けに倒れているらしかった。なんとか周囲を見渡そうとする。一瞬は深い霧の中にいるのかと思ったが、目が霞んで視界がぼやけているんだとわかった。
右手からは激痛を感じているが、他人事のような気もした。「可南子」とつぶやいてみたが、ひりついた喉のせいでうまくしゃべれなかった。
あぁそうか……。俺は死ぬのか……。血がいっぱい出てたもんな……。
俺は意識が徐々に遠のいていくのを感じた。俺はもう一度「可南子」と声にならない声でつぶやいた。そしてそのまま意識を失った……俺に駆け寄ってくる気配に気づくこともなく。
◇
それはとても穏やかで気持ちのいい時間だった。草原の真ん中でゴロンと横になり、温かい日の光に包まれて、睡魔の誘惑に身をゆだね甘くまどろんでいると……。
――ドサリ。
それなりに重さのある物が地面に落ちた音がした。びっくりして甘い睡魔から引きずり出されたその男は……男?いや、「男」と呼ぶにはやけに身長が低く、「男の子」と呼ぶにはやけにがっしりとした体躯だ。
その男はずんぐりとした体つきで身長は130cm前後。丸太のような存在感があった。髪の毛は赤みを帯びた茶色で、無邪気な笑顔が良く似合いそうな大きな瞳はキラキラと輝いている。そして身長こそ低いが、浅黒く日に焼けたその肌と、深く刻まれた笑いジワを見れば子供ではない事は一目瞭然だった。人間で言えば四十から五十歳前後の見た目で、無骨ではあるが豪快な正義漢、といった印象を受けけた。
男はドワーフだ。
そのドワーフはドサリと音のしたほうを見た。彼が寝転がっていた場所からほんの5mのところに男が仰向けに横たわっている。
血まみれだ。
条件反射的に血まみれの男に駆け寄った。右手が手首の部分で切断されていて、そこから出血が続いている。
ドワーフは頭に乗せていた小さな帽子をお尻のポケットに突っ込むと、自分の着ていたチュニックのような上着を力まかせに引きちぎり、包帯のようなものを作った。筋骨隆々の上半身をあらわにすると、右手を失った男の上腕部をチュニックの包帯で縛り上げた。
それでも止血できていないことを確認すると、腰のベルトに引っかけていた短刀を、鞘に納めたまま器用に使い、チュニックの包帯をねじるようにさらにきつく縛り上げた。
そして残ったチュニックを、右手と意識のない男の背中に滑り込ませた。ドワーフはチュニックの端を握りしめたまま男の横に寝転んだ。チュニックを強く引き寄せることによって、横たわる男の胸がドワーフの背中に密着していく。その動作と同時進行で立ち上がり、見事に右手と意識のない男を背負うことに成功した。
身長差があるため、背負われた小野山淳の両足は地面を引きずっているが、ドワーフの力強い一歩一歩は着実にドワーフの集落に近づいていた。
◇
俺は運悪く意識を取り戻した。
聞いたことのない外国語が飛び交っているように思えたが、朦朧とする意識の中では、それが本当に外国語なのか、俺が日本語すら理解できない状態になっているだけなのか、そのどちらかに断定をすることはできなかった。とにかく理解できない言葉が混沌とした雑音となって俺の頭をかき乱す。まるで嵐の中に取り残されたような感覚だった。
視界ははっきりとせずぼやけていたが、部屋の中(少なくとも屋根のある場所)で寝かされていることはわかった。周囲に人が何人かいるようだが、体が動いてくれない。首を傾ける程度の動作も叶わず、ただぼやけた天井を見つめ、人の気配を感じているだけだった。助かったのかどうかもわからない。そしてまた俺の意識は薄れていく……と、そのとき。
口を広げられ、口の中に布のようなものを詰め込まれた。
薄れゆく意識は恐怖によって現実に引き留められた。
次の瞬間、思考を巡らせる隙もなく俺の右手が持ち上げられた。首も動かせなかった俺の視界に、誰かに掴まれた俺の黒ずんだ右手が飛び込んできた。手首から先がない。そう言えば可南子と一緒に右手は消えてしまったんだなと思いだした。その右手に、オレンジ色に鈍く光る何かが近づいていた。
口の中の布――。黒ずんだ手首のない右手――。オレンジ色に光るもの――。
俺の中で答えはすぐに出た。傷口の止血と消毒を兼ねたとても原始的な治療が行われようとしている。いやこれは治療ではなく取引だ。止血をする代わりに火傷を負わせるという外傷の取引でしかない。
やめてくれやめてくれやめてくれやめてくれ……。
俺の周囲にいた数人が俺の体を抑えつけた。ただでさえ動かせない体なのに……。その瞬間、オレンジ色に鈍く光る地獄の鉄板は、俺の右手の切断面に押し付けられた。動かなかったはずの体が、俺の意思とは関係なく激しく反応したが、抑えつけられた俺は身じろぐこともできなかった。
――俺の肉が焼ける音。
まるで万千の針が突き刺したような痛みと、地獄の業火で焼かれたかのような熱さが一体化し、全身に広がっていく。俺の肉体はおろか魂までも焼き尽くすかのように、絶え間ない苦痛をもたらす。
そして俺は、自分の肉が焼ける匂いを知ってしまったところで、意識を失った。本当に運悪く意識を取り戻して、また失った瞬間だった。