プロローグ 絶望の縮図
エルフの皇帝は居城の高台から一望する帝国の首都を眺めていた。
帝国の首都の名はディアナ。「永遠に称賛される帝都」と称されたその姿は夢幻的でありながら、同時に繊細さと秩序を兼ね備えていた。そして今、皇帝の眼下に広がる光景は、惨劇の舞台となった帝都であった。
石畳の街路には破壊された建物の残骸が散乱し、至る所で炎が舞い上がり、煙と埃が立ち込めている。エルフの住民たちは絶望に満ちた顔で逃げ回り、嗚咽と悲鳴が空に響き渡っている。大陸最強と名高いディアナ守備軍こと皇帝直属の第3大隊100万の軍勢も恐慌に陥り、ここを死地と悟った一部の覚悟ある者だけが前線を支えている。帝都を攻め入った異形の軍勢は300万を下らない。帝都の崩壊は時間の問題である。
これは戦争ではない。戦闘と呼ぶのもおこがましい。侵略ですらない。それは殺戮のみを目的とした一方的な蹂躙だった。
皇帝の名はクロノ=スコアといった。「帝国の叡智」と謳われ、若くして即位した名君だった。現在88歳。人間で言うところの20歳前後の見た目をしている。エルフの寿命が800~900歳であることを考えれば彼の即位がいかに異例の即位であるかが分かるだろう。
――皇帝は知っている。
眼下の蹂躙劇はエルフの城下に限った光景ではなく、もう間もなく大陸全土が焦土と化すことを。目の前の光景は絶望の縮図でしかないことを。そしてもはや成す術はないことを。
それでも皇帝は落ち着いていた。それは彼の抱える秘密がゆえに。
彼は何度も……気が遠くなるほど何度も人生を繰り返している。彼は人生の終焉を迎えると、彼の意思とは関係なく「人生のある時点」まで戻されることとなる。「人生のある時点」とは、人生の選択を間違えたその直前だ……少なくとも彼はそう確信していた。彼は人生を何十回も、何百回も、何千回も繰り返していた。そしてその人生で最も長生きできるパターンがこの蹂躙劇にて死ぬことだった。他にも様々な理由で、また様々な年齢で死ぬことはあるが、この蹂躙劇……国教であるアルテミシア教の言葉を借りるなら「最終戦争」を超えて生き残ることはなかった。
彼は何度も人生を繰り返すうちに、その人生で皇帝になる道筋を見つけた。そして皇帝への即位よりも以前の人生に戻されることはなかったので、「皇帝」という立場でこの大陸を救うことが使命だと考えていた。人知を超えた強さを持つ異形の軍勢が、この帝国だけでも300万体以上に包囲され、蹂躙されている。これが大陸中で起こっているのだから、それは想像を絶する惨状……まさに地獄であろう。つまり敵を超える戦力をもって敵を打ち倒すというのは現実的ではない。不可能であろう。仮に「大陸中の戦力を帝都ディアナに集結しても帝都陥落は防げない」と確信できるほどの戦力差だ。であれば、このような状況になることを避けるための道筋を見つけなければならない。帝国の叡智スコア皇帝はそう思っていたのだが……。
今回の人生では信じがたい報告を受けていた。ドワーフの国の――それも辺境の村が、敵を退けたと。これまでの人生では一度もなかった報告だ。何にも優先させて調査する必要があるが、死が目前に迫るこの人生では詳細な情報を得る時間がなかった。強力な兵器が発明されたのか、敵の弱点を看破できたのか……。次の人生で……。いや、あと何度人生を繰り返すことになろうが、この一筋の光明を何が何でも手繰り寄せてやると、皇帝は思考を加速させる。人生を繰り返しているのが――所謂タイムリープをしているのが、皇帝ただ一人と仮定するならば、これまでの人生にはない新しい結果とは「皇帝がこれまでの人生と違う行動を取った」ということ以外に原因はありえないからだ。しかし「名前すら聞いたことのない辺境の村へ影響を与えた王自身の行動とは何か」を導き出すことは簡単ではない。
そして皇帝の立つ高台への扉を隔てたすぐ背後に、敵は迫っていた。ゲームオーバーだ。皇帝は右手に握りしめていた精密な装飾が施されたクリスタルの小瓶の蓋を開けた。彼は躊躇なく小瓶の中に入っていた液体を飲み干した。それは彼が高台に来る直前に、王妃たる彼の妻、王子たる彼の息子、信頼すべき側近の者たちに飲ませたものと同じ液体だった。もし仮に、彼の愛する者たちが、生きたまま敵に遭遇すればどんな最期を迎えるのか彼にはよくわかっていた。何度も何度も、その絶望を……その地獄を味わってきたからだ。
彼は愛する者の死を……その地獄を、何度経験してきたのかを正確に記憶している。ドワーフの村の報告が本当であるならば、敵を倒せる可能性があるかもしれないと考えた彼は、静かに目を閉じた。その口元は微かに笑っていた。瞼の裏には「復讐」という文字が、煉獄の黒い邪悪な炎のように浮かんでいた。
――皇帝は知っている。
絶望の先にある希望とは強烈な怒り内包していることを。復讐とは甘美な愉悦を纏った拒みがたい誘いであることを。
地獄とは、この終わることのない人生そのものであることを。
そして数千回目の死が、また彼を過去へと運んで行った。