【コミカライズ化】お飾り夫人ですが旦那が間違えて毒を飲みました。なんだか様子が変です。
「そうだ。毒を飲もう」
他の人が聞いたら正気を失ったのかと驚かれそうな発言だが、現在の私は正気を失っている。
「そうしたらあの人も……」
あの人というのは私の夫のことだ。
今から二年前。私は侯爵である父からの紹介で初めて会った彼と婚約をし、半年もしないうちに結婚をした。
彼はうちの親戚の伯爵家の三男でその美貌とカリスマ性で瞬く間に社交界の中心人物となったこの国で一番注目を集めている人物だった。
まさかそんな人と結婚するなんて私は思いもしなかったけれど、みんなが噂にする彼のことに興味はあった。
婚約をするために初めて顔合わせをした時はその知性の宿ったサファイアのような瞳に目を奪われた。
彼を前にするだけで胸が苦しくなったことを今でも覚えている。
「奥様。旦那様がお呼びです」
「わかったわ」
彼との出会いを思い出しているとメイドから声をかけられて我に返る。
ぐしゃぐしゃと掻き乱していた金髪を櫛で整えて鏡で目元が腫れていないかを確認する。
気が乗らない重い足取りでメイドの後に続いて私は彼の待つ執務室に入る。
「よく来てくれたベル。君の今日の予定を聞きたい」
「はい、ピートさま」
切れ長な瞳に艶のある藍色の髪、クールで真面目そうな印象を相手に与える整った容姿をした彼はこちらを見ることなく手元にある書類を読んでいる。
そんな彼に向かって私は自分の予定を話す。
「今日は町に編み物用の毛糸を買いに行くつもりです。その後は学生時代の友人とお茶をするつもりです」
夫婦だというのに私の声は緊張で震えていた。
普通ならあり得ない状況かもしれないが、これが我が家での日常だ。
彼は視線を書類に向けたままの状態で私にこう告げる。
「買い物は商人を家に呼びつければ馬車を動かさずに済む。友人と会うことについては一ヵ月以上前に伝えておくようにと前回も言わなかったか?」
「……言われました」
「なら、都合が悪くなったと断っておきなさい。それから来月の日程を伺えばよい」
淡々と感情のこもっていない声で指摘され、私の声のトーンが下がる。
こうなるから直前まで黙っていたけれど、彼は許してくれないようだ。
「ちなみにだが、会う予定の人物は誰なんだ?」
「……ブラッドリー男爵家のニックさまです」
恐る恐る知人の名前を出した直後、彼は書類を机に置いてため息をついた。
「はぁ……。ベル、君は自分が既婚者だというのを理解しているのか? 友人とはいえ未婚の男と会うなんて世間体を考えればあり得ないだろう」
「いえ。彼には恋人もいて私はそんな仲じゃ……」
「ふん。どうだか? そんなものは口でいくらでも言える。信用ならないな」
トン、トン、と机を人差し指で叩きながら彼は私を叱る。
「ニックには私の方から断りを入れておく。今後、奴に会う時は私が同伴する時にしなさい」
「……はい。申し訳ありませんでした」
謝罪の言葉を口にして私は彼に頭を下げた。
私への用事は予定の確認だけだったようで彼は再び執務に戻った。
一刻も早くこの空間から抜け出したくて、私は逃げるように自室へと戻った。
私の実家であり、今は彼が当主を継いだグレイス侯爵家の屋敷の中で自分の部屋だけが心安らぐ空間だった。
結婚して一年が経つが、私と彼の寝室は別々で夫婦の営みを行ったことはない。初夜ですら彼は私に手を伸ばすことはなかった。
かたくなに彼は私への肉体的な触れ合いをせずにむしろ避けている様子さえ見せている。
一度だけ勇気を振り絞って彼を誘ったが無視された。
「こんな夫婦生活……もう嫌だ」
結局、私と結婚したのは出世のためで、欲しかったのは侯爵家当主の肩書きなのだろう。
私なんて世間に結婚をアピールするためのお飾りにすぎないオマケのようなもの。
世の中には偽装夫婦というものもあるが、まだ夫婦に見えるような行動をするだけマシだ。
「やっぱり作戦を実行に移そう。それで彼が困ってくれれば……」
♦︎
数日後、私は彼に偽の予定を告げてお忍びで町へとやって来た。
将来有望で王族からも覚えめでたい彼は城へ行っているので使用人達にお小遣いという名の口止め料を払っていればバレないだろう。
目的地へ向かう途中に先日編み物用の毛糸を買おうとしていた店を見つけて足が止まりそうになる。
本当はここで買った毛糸で彼に手編みの手袋を贈ろうと考えていた。
去年渡したマフラーは結局一度も使われているところを見なかったので私なんかの贈り物は喜ばしくないと思うけど。
「確かこの辺りに……」
握りしめた地図を片手に私は細い路地を進む。
町の表通りから遠ざかった路地裏はお世辞にも清潔とは言えず、昼間だからいいものの夜はかなり治安が悪そうな跡があちこちに転がっている。
普段こういう場所と関わりがない私が探しているのは友人から聞いたとある店だ。
「……あった! 東洋の文字で書いてある看板。ここで間違いないわ」
やっとの思いで見つけたのは古びた外観の怪しい薬屋だった。
恐る恐るたてつけの悪いドアを開けて店内に入ると錆びたベルの音が鳴った。
薬品臭くて薄暗い店の奥から人の気配が近づいて来る。
「ハイハイ。いらっしゃいアル〜」
パタパタと小走りで出てきたのは癖のある喋り方をする小太りな男性だった。
白衣を着てはいるが、黒いサングラスに細長く生えた髭のせいで清潔そうには見えない。髪もこの国の男性がまずしない三つ編みにしていて、怪しい雰囲気がプンプン漂う。
「アラ、こんな若いお嬢さんが一人で来るなんて珍しいアルネ。店間違えてないアルカ?」
「あの、今日私は薬を買いに来たんです。ここは普段出回らないような特殊な薬を扱っていると聞いて」
夫であるピートの目を盗んで会っていた学生時代の友達から噂話を聞いたのだ。
この町には訳あって国を追放された薬師がいて、その人は珍しい種類の薬を調合出来ると。とある貴族が後継者争いでそこで買った薬を兄弟に一服盛って当主になったとかなんとか。
「ホゥ。お嬢さんもその口の人ネ」
「はい。私、結婚しているのですが夫とは全然口も利かずに夫婦らしい触れ合いもありません。彼にいつも行動を制限されていてもう耐えられないんです」
初対面の人に話す内容ではないと思ったが、我慢出来ずに私は色々と漏らしてしまった。
「それは大変アルネ。お嬢さん、見た感じ大人しそうだし、辛そうネ」
「こんな生活を早く終わらせたいんです。だから私が楽になれる薬をください」
私が彼の目の前で毒を飲んで死ぬ。
こんな計画を立てるなんて気が狂っているのかもしれないと思われてもおかしくないけれど、私はもう限界だった。
何をするのも、誰に会うのも、彼からの許可を得ないといけない自由のない縛られた生活。私が彼に与えられるものはなく、彼から求められることもない。
ただ世間体のためだけに大人しく従順な妻であり続けなくてはならない苦しみがあるだけだ。
どうせ今も死んでいるような生活で、これから先何十年も繰り返すというなら早く終わらせたい。
「特殊な薬は値が張るアルヨ?」
「これでお願いします」
私はポケットの中から金貨がパンパンに入った小袋を取り出した。
子供の時から貯めていたお小遣いと結婚時に母から貰った宝石を換金したお金だ。
「え? こんなにはいらないアルヨ」
「いいえ。私の人生全てを賭ける仕事をお願いするんです。遠慮なくお受け取りください」
「あっ、ハイ……」
私が押し付けた小袋を困ったような顔で懐にしまう薬師。
しかし、お金なんて持っていてもこれからの私には必要なくなるわけだし、ここでパーっと使い切れてむしろスッキリした。
どうせならもの凄い薬を用意してもらって派手に死を演出してもいいかもしれない。
「えっと、薬を調合するのにいくつか質問をするので答えてもらっていいアルカ?」
「構いません。……ただ、自宅の場所や名前については伏せてもよろしいですか?」
「勿論アル。見た感じ、お嬢さんは普通のお客さんじゃないのは分かっているアル。家名を知って厄介事に巻き込まれるのはもう懲り懲りネ」
薬師の言葉から察するに、私が平民ではなく貴族だというのはバレていそうだ。
貴族達の中で噂になっているくらいだし、何度も依頼人として相手をしてきたのでしょう。
「まず最初の質問は身長と体重アルネ。お嬢さんの分とそれから──」
薬師からの質問は十分もしないうちに終わった。
いくつか意図がわからないものもあったけれど、素人には理解出来ないだけでプロには必要なものだったのだと割り切る。
私の正体についても全く詮索をせずに薬師は回答をまとめた紙を持って店の奥に消えていった。
一時間くらい経つと汗をかいた薬師が再び前に現れて小袋に包まれた薬を渡してきた。
「これがご依頼の薬アルネ。注文通りに溶けやすい粉薬で飲み物に混ぜて服用するネ。オマケで味も甘くて飲みやすくしているから大丈夫だと思うアル」
「ご配慮ありがとうございます」
なんていい人なんだろう。
これから毒を飲んで死ぬ人間のために味にまでこだわってくれるなんて。
見た目と喋りが胡散臭くて怪しんでいたけれど、この人に頼んで正解だった。
「それでは私はこれで失礼します」
「お大事に……っていうのは余計だったアルネ。お嬢さんの願いが叶うことを祈っているヨ」
薬師は手を合わせ頭を下げる東洋風の挨拶をしたので私も頭を下げて店を後にした。
これで遂に……。
薬の入った小袋を大切に仕舞って私は帰路に就く。万が一のことも考えて偽装のために使わない毛糸を買って帰った。
「さぁて、そろそろ潮時だし引っ越すアルネ」
♦︎
「珍しいな。君が私を呼びつけて茶会をするなんて」
「たまにはこうして紅茶を淹れないと腕が鈍ってしまいますもの」
「そんなものは使用人にでも任せればいい。君がわざわざするまでもない」
相変わらずの冷たい態度を見せるピートだが、私はいつもと違って軽く笑って受け流した。
彼は何も知らないが、私にとっては最後のアフタヌーンティーだ。今なら大抵のことに動じない自信がある。
作戦を決行する場所に選んだのは普段の彼の定位置である執務室。使用人は部屋から追い出していて私と彼の二人きりだ。
「軽食はスコーンとサンドイッチか」
「はい。ピートさまはいつもお忙しくて昼食を抜きがちだと聞いたので私が用意しました」
「君の手作りなのか?」
「ええ。調理の方は慣れないので手間取りましたが、料理長からもお墨付きはいただいてますよ」
「余計なことを……」
お前の手作りなんて……とでも言いたげでイライラとしている様子のピートだけれど視線はサンドイッチに向けられている。
素直にお腹が減っていると言えばいいのにどうしてこうも悪態をつくのだろう。
まぁ、そんなことを今更になって気にするのは意味がない。
「では、お茶会を始めましょうか」
私はティーポットを握ってカップへと紅茶を注ぐ。
ピートがスコーンとサンドイッチに夢中になっている間にこっそりと例の薬を入れて何食わぬ顔でかき混ぜた。
見た目には特に変化もなく、怪しまれることもない。
あとはこの紅茶を飲んで楽になってしまうだけでこれまでの苦しみから解放され、私を傷つけてきたこの男に復讐が出来る──はずだった。
「んんっ! スコーンが喉に……」
「ピートさま!?」
二人分の紅茶を注いだ時点で急にピートが苦しそうに咳をした。
どうやら想像していたよりもお腹が空いていたようで欲張って口いっぱいに食べ物を含んだ様子だった。
彼は喉に詰まったものを胃に流し込もうとカップへ手を伸ばして一気に飲み干した。
──私が飲む予定のカップを。
「むっ!?」
「あ、あああああああっ!!」
薬入りの紅茶を飲んで胸を押さえるピート。
大変なことになった。このままでは彼が死んでしまう。
私はそんなつもりじゃなかった。困らせたい、苦しませたいという気持ちはあったけれど命を奪って殺したいなんて、そんな気は無かった!!
「……甘い。甘過ぎるなこの紅茶は」
「ピートさま! 今すぐに吐き出してください。それから胃の洗浄をしなくては」
冷静に味の感想を口にするピートの側に寄って容体を確認する。
飲んですぐ死ぬとまではいかなくても毒物を早く吐き出さないと手遅れになる。
「吐き出すだって? 何を言っているんだ君は」
「ピートさまが今飲んだのはただの紅茶じゃないのです」
バレてしまっても構わない。
自白にも聞こえる言葉を口にしながらピートを助けようとすると、彼は私に向かって言った。
「せっかくベルが僕のために用意してくれた紅茶なのに勿体ないじゃないか」
はい? なんて?
「えっと、その……お体はなんとも無いんですか?」
「君は何を言っているんだ? 僕はベルからお茶会に誘ってくれたおかげで舞い上がりそうなくらい気分が良くてむしろ普段より調子が良いくらいだよ♪」
私は自分の耳を疑った。
彼が苦しむ様子が無くてホッとするのも束の間、何かがおかしいことに気づく。
「いや、あの、薬が……」
「さぁ、お茶会を続けようか。さっきはベルの作ったスコーンが美味し過ぎて頬張ってしまった結果喉に詰まらせてしまったから今度はゆっくり味わって食べないとね」
ニコニコと嬉しそうにしながら席に着くピート。
あれ? 彼はこんな風に表情を変える人だったか?
いいや違う。ピートという男は私を叱る時に怖い顔をするくらいでそれ以外はクールな人だ。
今みたいに子供のようにコロコロ表情が顔に出るタイプじゃない。
「ふむ。このサンドイッチは具材が多めで僕好みだね。しかし、君がわざわざ調理するなんて……」
これはさっきと同じ展開だ。
貴族の妻が厨房に立つなんてという彼からのお叱りが来るはず。
「是非とも見てみたかったという気持ちと君が包丁で怪我をしないか心配な気持ちがあって僕は複雑だ。けれどこんなにも美味しいのは君の手作りだからなんだろうね!」
身構えていた私にかけられたのは見当違いの言葉でした。
「ピートさま。本当に大丈夫ですか? なんだかいつもより若干……いや、かなり饒舌ですけど」
頭大丈夫ですか? と言わなかった私は偉い。
今の彼はかなり変だ。原因があるとすればあの紅茶に入れた薬のせいだ。
「ふむ。そう言われれば確かに今の僕は普段よりも口が軽くなっている気がするね。いつも恥ずかしくて君と目が合わせられないのに今は目を見て会話しているのも変だな」
「いつも恥ずかしい……ですか?」
自分でも違和感を感じる様子のピートは戸惑いながらも私に話す。
「うん。君のかわいらしい顔を見ているとニヤけてしまいそうになるから普段は頭の上を見ているんだ。それなのに今は顔を見られている」
「か、かわいらしい顔ですか!?」
絶対に彼から出そうもない褒め言葉にゾワってする。
鳥肌が立っているかもしれない。
「そうだ。君はとてもかわいいんだよベル。だから他の男と会うなんて許せない。もしも奴らが君に近づこうものなら僕は嫉妬で狂ってしまいそうだ」
「えー……」
真剣な表情になってとんでもない事を口にするピートに私は引いてしまった。
この人は本当に私の夫なのだろうか? 別人とすり替わっていると言われても信じるくらいに変だ。
「君は誰にでも優しいから勘違いする奴がいて当然だ。僕が目を離さないようにしないと……」
そんな変な状態の彼だけど、話す言葉に嘘をついている感じはしない。
いつもより何十倍も心情が顔に出ているからわかる。
「私のことをそんな風に思っていたのですか?」
「あぁ、いつも君のことを考えているよ。君が男に言い寄られていないかとか、怪我するような危険な目に遭わないか」
しゅんとした顔で語るピートを見て、私の中でパズルのピースがカチリと埋まる音がした。
まさか、もしかして、という思いが込み上げてくる。
「ピートさまは私のことが嫌いじゃないんですか?」
「とんでもない! 僕は世界中の誰よりも君を愛しているよ」
恐る恐る質問すると、彼は今日一番の大声を出した。
「だって、いつも私に冷たいじゃないですか……」
「それは君があまりにもかわいくてどう接すればいいかわからないんだ」
「手も握ってくれないし、夜伽に誘っても反応してくれないし!」
「そんなことをすれば自制が利かずに君を滅茶苦茶にしてしまいそうで嫌われると思って……」
「はぁ!?」
今度は恥ずかしそうにモジモジし始めるこのバカ男に私はキレた。
「じゃあ、渡したプレゼントのマフラーはどう説明するんですか!」
「君の手作りの品を汚したくなくて執務室の鍵付きの棚に仕舞っている」
「マフラーは使うために作ったんです! 汚れたり壊れたりしてもこれからいくらでも作りますよ!!」
捨てられでもしたのかと思ったらこの男は……。
積み重なっていたイライラが私の中で膨れ上がっていく。
「本当かい? ……でも、君に負担をかけるのは……」
「夫婦なんだから支え合うのは当然です! むしろもっと頼って欲しいんです。私は自分がピートさまに必要とされていない用済みでお飾りの妻だと思っていたんですよ?」
ムカついている。怒っているはずなのに私は目に涙を浮かべてしまった。
感情がぐちゃぐちゃになっていく。
「私なんていらない子だと思って、いっそ離婚でもしてくれたらって……ピートさまは何も言ってくれないし……ぐすっ」
「泣かないでくれベル。僕には君が必要なんだ。忙しい仕事や悪意を持って近づいてくる連中がいる中で君を見ている時が癒しなんだ」
「だったら……もっと口にしてください。もっと触れてください。態度に出してください……私、そうじゃないと分からないんです……」
立ち上がって私の側に来たピート。
私はそんな彼の腰に抱き付いて思いっきり泣いた。
子供の癇癪みたいに大人気なく喚きながら不安を吐き出した。
「ベル。君がそんな風に思っているなんて……」
慣れない手つきで彼が私の頭を撫でる。
「僕は昔から女性にしつこく絡まれやすくて、苦手だったんだ。でも舞踏会で君を初めて見た時に一目惚れしてしまって、お義父さんに頼み込んで君と婚約をしたんだ」
今まで話してくれなかった事実を彼が語る。
ピートは侯爵家の当主の座が欲しかったんじゃなくて私の夫になるために父に近づいた。
もっと上の立場の家からの縁談を全て断って、色んな人から嫌味や文句を言われてでも私と結婚したかったと。
「やっとの思いで手に入れた君を失ったり傷つけたくなかったのに、こんな風に心配させるなんて僕は夫失格だ」
「はい。そこはしっかり反省してください」
「……うん」
顔を腫らして嗚咽を堪えながらもそこだけはしっかり指摘しておく。
でもそっか、私ってば嫌われていなかったんだ。
彼は私を好きでいてくれる。それゆえに正直になれなくてこんな勘違いが生まれてしまったんだ。
「これからは君への好意が伝わるように善処する」
「私もピートさまを信じて強引に行きます。断れないくらいグイグイ近づきますからそのつもりで」
「あ、あぁ。お手柔らかに頼む」
クール雰囲気のくせに不器用な人。
こんな特異な状況になって初めて私は彼の素顔に触れられた。
素直な気持ちをぶつけ合うことが出来て良かった。
もっと早く彼の思いを知れたら毒を飲んで死のうだなんて考えもしなかったのに。
……あれ? ピートさまが変になったのは紅茶を飲んでしまったからだとして、あの薬は何だったんだろう?
「ところでベル。君がさっき口にした薬って何の話なんだい?」
「あ、いや、その……」
「詳しく教えてくれるまで僕は君を逃がさないよ。僕の方はそれでも良いんだけれどね」
顔を見上げるとサファイアのような青い瞳がハイライトの消えた状態で私を真っ直ぐ見ていた。
咄嗟に顔を逸らそうとしたけど、頭に置かれた手のせいで動けない。
「ベル?」
目も合わせてくれなかったピートさまが私の名前を甘い声で呼んでくれているのに私は今までのどんな時よりも怖いと思ってしまった。
♦︎
「今頃、あのお嬢さんは上手くいってるアルカネ?」
別の国へ向かう船の上で薬師は呟いた。
「大人しそうでオドオドしている娘だったから特製の自白剤をあげたけど、素直に旦那さんと話せているといいアルネ」
薬を処方する前の質問という名のカウンセリングで夫婦間の問題に気づいた。
「前の客は血圧高いくせに用量以上の精力剤を飲んでポックリ逝ったアルからね。ったく、薬師の言うことを聞かないせいで変な噂がたったアルヨ」
ぶつくさと文句を言いながら無免許で国を追い出された薬師は新たな商売先を求めるのだった。
♦︎
「ふむ。今年の冬は例年より寒くなるそうだな」
文官からの報告書を見ながらピートさまが呟く。
有能な彼の元へは次から次へと仕事が舞い込んで来て大変そうだ。
「ベルは寒くないかい?」
「いえ、むしろ暑いくらいです……」
声をしぼませながら私は質問に答える。
お尻の下と背中から感じる彼の体温のせいで心臓がドキドキして頭が回らないのだ。
どうして彼は私を膝の上に座らせて仕事しているんだろう?
「あの、そろそろお邪魔になりますし私は自室に」
「何を言っているんだい。君の姿を見ていないと私はストレスで仕事の効率が落ちると説明しただろう」
薬を飲んでしまった時とは違い、真面目なクールな声でとんでもないことを口にするピートさま。
「だからって膝の上だなんて。他の人に見られたら恥ずかしいですぅ……」
「むしろ見てくれた方がいい。そしたら君に悪い虫は近付かなくなる。私としても安心だ」
「うぅ……」
「君は私のものだ」
耳元で囁いてギュッと抱き締められてしまうと何も抵抗出来なくなる。
まんざらでもないので嫌な気持ちにはならないけど、普段から私達夫婦を見ている使用人達は呆れた笑みを浮かべているのを私は知っている。
「そうだベル。今年のマフラーはいつもの倍以上の長さにしてくれないか?」
「あまり長いと邪魔になりますよ」
「いいや。一つのマフラーを君と私の二人で巻けばずっと側にいられるだろ?」
「もう! お揃いのマフラーで我慢してください!」
頭のおかしい事を言い出した彼に私は抗議した。
もしもそんな物を用意したら彼は何処へ外出するのにも私を連れて行こうとするだろう。
既に一度、舞踏会に呼ばれた時も彼は掴んだ私の手をずっと握っていて恥ずかしい思いをしたのだ。
「まさかこんな風になるなんて……」
「そんなに怒るなんて私のことが嫌いになったのかいベル?」
「そうじゃありませんけど……」
膝の上に乗ったまま上を見上げるとそこには変わらない綺麗な旦那さまの顔があって彼も私を見ている。
「ふむ」
相変わらずまつ毛が長いなと顔を見ていたら突然ピートさまが口づけをしてきた。
甘くて強い情熱的なキスに火照って快楽に溺れそうになる寸前のところで唇が離れる。
「い、いきなり何をするんですか……」
「私の顔を見ていたのでキスがしたいのかと」
「ピートさまじゃないんですからそんなことしませんよ!!」
すっかり色ボケになってしまった彼をポカポカと叩きながら私は笑った。
あの一件で私達夫婦の関係は変わった。
夫婦の部屋のベッドは小さめのものを用意して自室は子供部屋にするつもりだ。
だって、今は彼の隣が一番素直になれる安らげる場所になったから。
「まったくもう……ピートさま。愛していますよ」
「私もだよベル」
今度は私の方から近づいてキスをした。
「……今日の仕事は止めだ。ちょっと集中出来ないからゆっくりベッドで休もう」
「きゃ! ビックリするから急に抱きかかえないでください。というかこんな昼間から何処に運ぶつもりですか!?」
訂正。彼の隣は体が追いつかないかもしれません。
そういえば最近では国一番のおしどり夫婦と呼ばれていますが、私達の場合は旦那様の愛に押し潰されそうで困ってます。
〈完〉
誤字脱字報告をいつでもお待ちしてます。すぐに修正しますので。
2024年7月31日(水)発売の「お飾り妻は冷酷旦那様と離縁したい!~実は溺愛されていたなんて知りません~ アンソロジーコミック」第2巻に収録されております。
一迅社のZERO-SUMコミックス様より出版されました。
各電子書籍サイトで配信もされています。
詳しくは活動報告や作者Twitter(X)でお知らせております。