好きな気持ちは変わらない
「……どうしてあんなこと、したんですか?」
俺は教室の黒板に体を預け、隣にいるうつむき加減の彼女を見る。
飾り気のない眼鏡。その奥に、お世辞にも大きいとは言えない瞳。その瞳には涙が浮かんでいた。
両手は一冊のノートをつかんでいた。強くつかんでいるせいか、真ん中あたりにくびれができかけていた。
どうして……か。
窓の外に目を移す。夕焼けに染まる校庭。それがなぜか、とても綺麗に見えた。
「あなたみたいな人が……」
まあ、そう思うのは自然だろう。見た目だけで言えば、俺はこの大学進学率ほぼ百パーセントの真面目と評判の高校では浮いている。髪色が金っていうだけなんだが。
でも、それで他の人間を遠ざけるには十分だった。俺はこの高校では常に一人だった。体育で二人組を作れと言われても、一人だった。
そこに加えて、学年一位の成績だった。こんな容姿で、自由にやっているように見える奴が優秀なんて、ふざけてる! みたいな妬み嫉みもあって、ますます俺を一人にさせた。
別に一人でいたいわけじゃない。だけど、無理をして、自分を曲げてまで他の人間と一緒にいるつもりもなかった。
「なにより、わたしなんかのために……」
彼女の自己評価は低い。それを体現するように、いつも自信なさげに背を丸め、おどおどとして、周囲にびくびくしている。できる限り気配を消し、他人との関りを極限まで削っている。
だけど、それはそれだ。
俺は自分のしたことを思い返す。後悔はみじんもない。
結論から言えば、俺はクラスメートの女子をやり込めた。
「へえ、これ、あんたが描いたの」
きっかけは些細なことだった。
真面目と言われるこの高校であっても、スクールカーストは存在する。そのスクールカーストの最上位に属している女子生徒三人が、彼女に絡んだのだ。
彼女は休み時間を一人で過ごしていた。これ自体はいつもの事だったのだが、休み時間に入ったことに気が付いていなかったのが運のツキだった。
普段、彼女が授業中にノートに漫画を描いていたのは知っていた。彼女の後ろの席のちらちらと見ていたから知っている。
他の人に見られるのが嫌なのか、授業以外で描いているのを見たことはなかった。休み時間は本を読んで過ごすのが常だった。
しかし、今日に限っては熱中し過ぎてしまったのか、休み時間に入っても手が動き続けていた。
そこをよりにもよって三人に見つかってしまったのだ。
三人のうち一人がノートを持ち上げ、他のページもパラパラとめくり始める。
「……気持ちわりぃ」
ノートを見ていた女性生徒の顔が歪んでいく。
「へたくそ過ぎるでしょ。幼稚園児が描いてるわけ? 全員正面向いてるし、全員両手を広げてるし。等身だってめちゃくちゃ。二等身もいれば、四等身もいる。わたしだって、もっとうまく描けるわよ」
ペンを持ち、ノートの中に絵を描いていく。
「ほら、わたしの方が上手いでしょ?」
「あ、本当だ! ノートにこんなにたくさん描いている人よりも上手じゃん! すごーい!」
「違う、違う! わたしが上手なんじゃなくて、こいつが下手くそなだけだよ! 誰でもこの程度の絵は描けるよ!」
それはたしかにそうだった。その女子生徒が描いたものは、特別上手なわけではなかった。少なくとも、俺の目から見たら。
だが、彼女を辱めるには十分だった。彼女のただでさえ小柄な体がますます小さくなっていく。
「ほら、みんなも見てみなよ! へったくそな絵だから!」
言いながら、ノートを大きく持ち上げた。
「や、やめて……」
震える声はあまりにも小さい。
「何言ってるのか、全然聞こえないんですけど!」
その高圧的な態度に、彼女は萎縮してしまった。小さくなるばかりで、もはや何の反撃もできなさそうだった。
「勉強だってロクにできない人間が、こんな絵、描いている余裕があるの? まずは勉強しなよ。毎回、テストでブービー賞を取るお馬鹿さん」
「わたしたちを見習ったらどう?」
「そうだよ、それがいい! わたしたちを見習いなよ!」
「「「あはははははははははははははははははははははははははは」」」
この三人はこんな性格をしているが、勉強はそれなりにできる。二桁前半を常にキープしている。
最も、見習うべき部分はそこだけで、それ以外のところは見習いたくはないし、俺には見習う部分はない。俺の方が順位が上だし。
彼女はきっと思っているだろう。消えることができたのなら、どれだけ楽になれるかを。
小さくなることはできても、存在を消し去ることはできない。
周囲の生徒たちは、彼女を不憫に思いながらも、遠巻きに見ていることしかできない。
ここで助けるような真似をしてしまえば、次のターゲットは自分になってしまうことは、容易に想像がつくから。
嘲笑が教室全体に響き渡る。彼女は逃げ出すこともできずにいた。逃げ出すという選択が思いつかない程に、萎縮してしまっている。
気が付けば、口が動いていた。
「君たちは、何か好きなものある?」
教室全体の視線が俺に集まるのを感じる。三人だけではなく、遠巻きに見ていた生徒も含めて。
特に三人は驚きの表情を隠せずにいた。目を丸くしている。自分で言うのもなんだが、俺が声をかけるなんて滅多にないから。
「聞こえなかった?」
三人は目を白黒させたが、俺から視線を外さなかった。
「えっと、いきなり何?」
「質問しているのは、俺だけど? それで、好きなものは何?」
「……それ、答える必要ある?」
「いいから言えよ」
俺は穏やかな笑みを浮かべたまま、それとは真逆の冷気を含んだ声で言い放った。教室の温度が一気に下がる。
三人は体をビクッと震わせた。先ほどまでの勝気な表情から、怯えに変わった。これ以上の抵抗はできなさそうだった。
「じゃあ、左の君から順番にどうぞ」
「わ、わたしの好きなものは、サッカー」
そして、好きなサッカーチームの名前を挙げた。
「次は真ん中の君」
「わたしはバンド」
そして、好きなバンドの名前を挙げた。
「最後の君は?」
「わたしが好きなのは、彼氏、かな」
最後の一人が答えてから、俺は一呼吸置いた。
俺の発言を教室中が固唾をのんで見守る。
直後。俺は三人の好きなものを、俺が持っている語彙の限りを尽くして、否定しまくった。
「そのサッカーチームって、前にロッカールームで盗難騒ぎあったよな。その犯人が選手だったとか。最近は勝ち点も得点も大して取れないみたいで、来期は下のカテゴリー間違いなしだね。再来年にはもっと下のカテゴリーかも」
「そのバンドのボーカルって不倫が発覚したよな。しかも五人で、全部ファンの子だったとか。結婚して子供も生まれたばっかりだっていうのに、最低だよな。愛の伝道師とか呼ばれてたのにな」
「その彼氏、ちょっと前に後輩のこと強請ってたらしいな。彼女に買うプレゼントの金がないとか言ってたそうだ。たしか、ネックレスだったかな。もしかして、そのネックレス? 人から強奪した金で買ったネックレスを付けてるんだね」
これはほんの一例だ。他にもたくさん言葉を浴びせた。
最初は驚いていた三人だったが、言葉が重ねられるごとに、次第に怒りが溜まっていってるようだった。そして、遂に爆発した。
「ねえ、なんなのよ!」
「さっきからわたしたちの好きなものを馬鹿にして! 何が楽しいのよ!」
「ほんと、悪趣味!」
呆れた。
この期に及んでも俺の行動の意味が理解できないらしい。
学力は悪くないが、理解力が高いかというと、どうやら別問題らしい。いい勉強になった。
俺は嘆息をつきながら、迫ってくる三人を手で制した。
「今俺がやったことは、君たちが彼女にしていたことだけど」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
「悪趣味。まさにその通りだ」
三人の顔面が急速に赤色一色になった。その勢いは凄まじく、首や手にまで及んでいた。
この表情は怒りではない。羞恥だ。
ようやく理解したらしい。
「それで、何か言いたいことがあるならどうぞ」
今度は鯉が餌を求めるように、口をパクパクし始めた。でも、言葉は何も出てこなかった。
最終的には、三人は捨て台詞すら吐かずに、俺を睨みつけただけで教室から出て行ってしまった。
教室の中は森閑としていた。
俺もどこか居心地が悪くなってしまい、頭を掻きながら教室を後にした。
俺は彼女の手の中にあったノートを取り上げ、開く。
お世辞にも絵が上手いとは言えない。彼女に絡んだ三人が言っていた通り、幼稚園児並みのレベルしかない。
馬鹿にしたくなる気持ちも、わからなくはない。
「か、返してください!」
「君、漫画が好きなの?」
突然の問いに、彼女は伸ばした手を引っ込めた。胸の前で両手を合わせてもじもじとする。
「……はい」
「この漫画、面白い」
だが、ストーリーは圧倒的だった。
俺は後ろの席から、彼女の背中越しにしか見れていないので、ストーリーが完全にわかっているわけではない。
それにも関わらず、ストーリーが面白かった。恋愛漫画なのだが、男子生徒に恋する女子生徒、その男子生徒、周辺のキャラクターの心理描写が非常に巧みだった。
絵はまあ、あれだが、コマ割りや表情のアップの挿入の仕方など、随所にセンスを感じられた。
設定自体は目新しいものではないにも関わらず、気を抜けばあっという間にその世界へと引き込まれてしまう。
俺はストーリーが読みたくて仕方なかった。彼女の背中が邪魔で邪魔で仕方なかった。
彼女はそのノートを肌身離さず持ち歩いていたのだが、少しでも隙があれば、俺は彼女のノートを開いていたかもしれない。
三人は絵を馬鹿にして終わってしまったが、きちんと中身を読めば、あのような態度はまず取れないだろう。
「……わたしのこれ、漫画だってわかるんですか」
「……まあ」
さすがに、背中越しに見ていたと言うのは、憚られたので濁しておく。
「さっき、君はどうしてわたしなかのために、こんなことをしたのかって聞いたよな」
「ああ、はい。聞きました」
「君のためっていうよりかは、あの三人が単純に許せなかったんだ。だから、自分のためって言った方が正しいかもな」
俺は彼女のノートを返す。本当はもっと読みたかったが、今はそれよりも大切な話を優先する。
「誰かが好きなものを否定されるということが、許せないんだ」
これは俺自身が親にされていたことだ。
俺は親から自分が好きなものを全否定された。気持ち悪いとすら言われた。
そのせいで、俺は自分が好きなものを好きと言うことができず、それを隠したまま小学校の六年間、中学の二年間を過ごすことになった。
今思えば、自分が好きなものは、はっきりと主張すべきだった。
その八年間でよくわかった。気持ちを隠すことはできる。けれど、好きな気持ちが変わるわけではない。
結局のところ、好きなものを隠していた八年間は、自分が好きなことから自分を遠ざけることになっただけだった。
無意味だった。
けれど、当時、まだ幼かった俺は親の言っていることが正しいと思い、成長してもそれがまるで呪いのようにまとわりつき、好きなものを好きと言えなかった。
だから、俺は誰かが好きなものを否定されるのが許せなかった。
自分のような人間が生み出されるのが嫌だった。好きなものを隠し、好きなものを遠ざけなければならない人生なんて、これほど悲しいことはない。
今回、三人には自分たちがしたことの愚かさを知って欲しくて、同じことをした。後味は良くないな。
「それだけが理由ですか?」
「まあ、理由としてはそれだけだな」
そこで彼女がクスっと小さく笑った。初めて笑ったところを見た。
「変な人ですね」
変な人だって構わない。過去に味わった苦みを、誰かに味合わせたくない。
「でも、ありがとうございます。おかげで助かりました。まあ、もう、学校で漫画を描くことはしませんが」
彼女はノートをまた、強く握りしめた。
まあ、そうだろうな。そう思いながら、俺は彼女のノートに目を向ける。
でも、もったいない。このまま、彼女の漫画を眠らせておくべきじゃない。
気が付けば言葉になっていた」
「君が描いた漫画、俺に描かせてくれないか?」
「……ん? どういうことですか?」
深呼吸を挟む。顔が火照る。今が夕方で良かった。
俺は自分のカバンから一冊のノートを取り出した。それを彼女に渡す。
彼女は訝しい表情をしながら、それを受け取り開く。
そして、眼が飛び出るかと錯覚するほど、眼を見開いた。
「……これって!」
「そうなんだ。俺、イラスト、描くのが好きなんだ。特に女の子を描くのが好きなんだ。元々は少女漫画が好きで、その好きが高じてって感じかな」
少女漫画が好き。イラストを描くのが好き。
俺はこの好きを両親に全否定された。そして、好きなものを遠ざけた。でも、好きだった。大好きだった。その気持ちは今も変わらない。
いや、むしろ、高まっている。
「でも、なんていうか、驚きです。しかもめちゃくちゃうまいじゃないですか。普通に、プロが描くレベルといっても過言ではないですよ。むしろ、隠れてイラストレーターとかやってると言われた方がしっくりきます」
彼女は目を丸くしたまま、次々、ページをめくっていく。
褒められて、少しむず痒い。
「彩色されたものも、白黒のものも、全て素敵です。上手です。これ、本当にあなたが描いたものですか? ちょっと意外過ぎて、何て言っていいのかわかりません」
「全部俺が描いたもので間違いない」
彼女は結局、あっという間に俺の作品に目を通した。
「本当にすごいです。尊敬します。それで、ええっと、なんでしたっけ?」
「君が描く漫画の作画を、俺にやらせてくれないか?」
「ああ、そうでした! ……本当に言ってますか?」
「本気も本気だ。君の描く漫画は面白い。かなり面白い。相当面白い。絵については、まあ、みなまでは言わないけど、作品としてはレベルが高い。だから、俺に絵の部分を任せてもらえないか。これはお願いだ」
俺は頭を下げながら、言葉を続ける。
「実は俺、少女漫画を描きたいんだ。何回か自分でも賞に応募したことがある。だけど、一次すら突破したことがないんだ。毎回、絵はいいけど、ストーリーが単調過ぎて面白くない。ストーリーにひねりがない。ストーリーに問題がある。そう言われ続けてきたんだ。だから、君の力を貸してくれないだろうか」
深々と頭を下げる。彼女の描くストーリーは本当に魅力的だ。絵だけ。絵だけが残念なポイントだ。だったら、俺が描く。俺は絵には自信がある。だけど、ストーリーに自信がない。だったら、彼女に考えてもらえばいい。
彼女は思案しているようだった。
しばらくして、彼女が口を開いた。
「……あなただから言いますけど、わたしも漫画家に憧れているんです。けれど、絵が壊滅的に下手です。自分でもよくわかっています。でも、ストーリーを描くのは大好きなんです。一方で、絵を描くのは好きではありません。作画を頼める方がいるのであればお願いしたいぐらいでした。だけど、わたしはコミュニケーション能力が乏しい。お願いする方を見つけることなんて、到底、できませんでした。それに、自分の作品を他の方にお見せする程の自信もありませんでしたし。だから、諦めていました」
少し顔を上げると、彼女が頭を下げていた。
「こちらこそ、お願いします。わたしのストーリーに絵をつけてください。キャラクターたちに命を吹き込んでください」
俺は思わず、彼女の手をつかんでいた。
「ちょっ! え?」
「ああ、ごめん。うれしくてつい! これから、よろしくお願いします」
こうして俺たちは夢への一歩を踏み出した。
この後、とある漫画雑誌で受賞し、連載へと歩みを進めていくのだが、それはまた別のお話。
~FIN~