あなたの書いてる戦闘シーンは何故「魔境」に陥っていると言えるのか、というエッセイ
此話はすべて遠野とはあんまり関係ない人佐々木鏡石が書きたり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分は亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。願わくばこれを語りて平地人を戦慄せしめよ――。
はじめましての方ははじめまして。
そうでない方も始めまして。
佐々木鏡石です。
突然ですが皆様、私はひとつ最近レベルアップしたと思うことがあります。
それは「自作で戦闘シーンを書かなくなった」ということです。
はて異な事を申す奴、と思われるかも知れませんが、これは実に重大な進歩だと個人的には考えています。
というのも、昔の私――小説というものを細々書き出した辺りの私は、とにかく戦闘シーンをこれでもかと書いていたからです。
若気の至りや趣味というというよりも、これは「ライトノベルとはこういうものだ」という先入観による所が大きいでしょう。ライトノベルとは戦闘シーンを盛りだくさんに詰め込み、とにかく読者をワクワクさせるもの――そう愚かにも思い定めていたのです。それ故、その当時の私は、自分で書いた戦闘シーンを読み返してはニヤニヤし、「この戦闘シーンの出来だけで読者がついてくるだろう」と愚かな見当違いをしていたのでした。
時に、仏教、特に座禅を重視する曹洞禅には「魔境」という言葉があるそうです。
これは要するに「悟ったような気になる状況」のことで、突如素晴らしく心地よい感覚を覚えたり、目の前に仏様や観音様が現れたり、大宇宙の声が聞こえたりするのだそうです。
だがこれは全くの幻覚、恐ろしい魔境である――それは曹洞宗のような禅宗に限らず、おそらくどの宗派でも断言することでしょう。
断食修行、回峰行、寒中参りなど、激しいストレスがかかる修行をしていると、必ずと言っていいほどリアルな幻覚を見、幻聴を聞く。だがそれは単なる疲労と空腹によるものであり、修行の成果ではないのです。事実、修行ではなく、戦争中や遭難中に、神の声を聞いただとか、幻覚を見ただとか、そういう例はいくらもあります。
とにかく、それは悟りの境地とは違うものであるどころか、恐ろしい堕落の悪魔が見せた幻覚なのだから、受け流せ、絶対にそちらの方に走るな――そういう厳しい戒めがあるそうです。とある歴史上の高僧は「座禅の際に仏を見たらすかさず突き殺せ」とまで言ったそうです。
ここで本題に立ち返ります。
執筆をひとつの修行、作品の完成が悟りの境地だとするなら、その当時の私はまさに「魔境」に陥っておりました。
戦闘シーンが上手に書けていれば読まれる、否、他が多少不出来でも、戦闘シーンさえ抜群に書けていれば読者は満足する、何故なのかそういう風に思っていました。
結論から言うと、これは全く間違った考えでしかありませんでした。
それは、少なくともその魔境から脱していると思われる今の自分が、当時の自分の作品を読むとすぐわかることです。
戦闘シーン、戦闘シーン、一呼吸置いてまた戦闘シーン――。
誰が死ぬわけでもない、誰が傷つくわけでもない、ただ技を掛け合っているだけ。
ドラマにもストーリーにも全く影響してこない茶番劇の連続。
駆け引きのない展開。
移動しない視点。
描かれない葛藤。
工夫のない見せ方。
実が入っていない大技。
ルールのない戦闘。
そしてその末にやってくる「主人公の勝利」という出来レース――。
魔境とはかくなるものか、と怖気のひとつも震いたくなるほどの出来でございました。
その魔境脱出のきっかけになったことが具体的に何であるのかは、正直自分にもわかりません。
ただ、修証一等、修行が成ることと魔境から脱出できることが同じことであるなら、時が経つに連れて凡夫である私も多少は修行が成ったのかなと思います。
とにかく、今私が書いている作品は、よっぽどの理由がない場合戦闘シーンは書きませんし、極力短く書くようにしております。いやそれどころか、戦闘シーン自体を意図的に減らすようにすらしております。
「何言ってるんだ、戦闘シーンを減らすなんて考えられない」と仰る方も当然おられることと思います。本論はあくまで私の個人的な経験からのことですし、すべての「修行僧」たちが私と同じ魔境に陥っているとは限りません。
ですが、一度、一度でいいから考えてみてほしい。
己が書いている小説が、戦闘シーンが、「魔境」に陥っているかもしれないという可能性を。
「◯◯章から面白くなります」と言っておいて、その◯◯章から戦闘シーンが始まっていないか。
冒頭数話からろくに世界観の説明もしないまま、戦闘シーンが数話もぶっ続けでないか。
誰も死なない、誰も傷つかない、ストーリーの展開になんら寄与しない戦闘シーンを書いてないか。
魔法の戦闘と銘打っておきながら、ルールも駆け引きもない、単なる泥仕合を我が子にさせていないか。
チートモノと言いながら、「絶対殺すマンを絶対殺すマン」を登場させるだけの展開になっていないか。
いやそれどころか、必要のないところで、書きたいがためだけに必要ない戦闘シーンを入れていないか――。
以上何個か当てはまっているなら、あなたの書いている小説が「魔境」に陥っている可能性はあるかもしれない。
メチャクチャな理屈ではありますが、今回は以後そういう前提でお話に付き合っていただきたい。
本エッセイは、そんな「魔境」に陥ってしまっている、どなた様かのためのエッセイとなっております。
◆何故戦闘シーンが魔境となるのか
まずはこれです。
ある戦闘シーンが魔境でないと言うなら、このエッセイは根本から成り立たなくなる。
それ故、最初は退屈なこの議論から始めねばなりません。
繰り返しますが、このエッセイは「戦闘シーンそのものが魔境であり、書くこと自体が間違いである」と言いたいわけではありません。あくまで「魔境に陥っている戦闘シーン」のことです。
まずは何故人は魔境に堕ちるのか、という理由をいくつか予想し、列挙してみることにしましょう。
1.根本的に戦闘シーンは読者にとって面白いものだと思って書いている
身も蓋もない言い方ですが、戦闘シーンが魔境に陥る原因としてはこれが一番デカいでしょう。
当てこするようですが「○章から面白くなります!」と言っておいて、その◯章から戦闘シーンが始まる小説の殆どはこのテの魔境であると思います。
ハッキリとは断言できないのですが、おそらく、戦闘シーンそのものは全く面白くありません。もっと言えば、面白いはずがない。
何故なら、戦闘シーン自体が、結局は壮大な出来レースに過ぎないからです。
どういうことか。
あなたは自作のキャラに負けイベントを用意したことがありますか?
おそらくほとんどの人はないと答えるでしょう。
そう、結局戦闘シーンはよっぽどのことがない限り、主人公が勝つのです。
つまり、戦闘はどう頑張っても結果が見え透いている出来レースでしかない。
発想を転換すると、戦闘シーンとは決まった結論に辿り着くまでの暇つぶし、大いなる退屈の時間でもあるのです。
だって展開が読めるんだから。
どうせ主人公が勝つんだから。
だからむしろ戦闘シーンは面白いわけではなく、本質的には非常に退屈なものなのです。
そこをどう面白く見せるかが作者の腕の見せ所であり、そのままで面白いものではないのです。
確かに、漫画やアニメ、ライトノベルに於いて戦闘シーンは重要です。絵面が派手になるしワクワクもする。スピード感も生まれる。新たな因縁が生まれる。キャラが生きたり死んだりする。
ですがこれがひとつも起こらないなら?
要するに、絵面が地味で、ワクワクせず、スピード感もなく、新たな因縁も生まれず、キャラも誰一人死なない戦闘シーンなら?
当然、その戦闘シーンには重大な意味はありません。あってもいいが、なくてもいいシーンになってしまう。
戦闘シーン自体は面白いものではない――まずこの事実を頭に入っていないなら、おそらくあなたの書いている戦闘シーンは既に魔境の入り口に立っているということになるでしょう。
2.戦闘シーンが書きたいだけで書いてる
小説執筆というのは非常に苦痛であるため、どっかに趣味がないと気力が続かないものですが、それ故「戦闘シーンが書きたい」という欲望には抑えがたいものがあります。
例えばロボットモノや異能モノ、チートモノは戦闘シーンがないと最初から形にならないでしょう。
だからある程度ジャンルという枠を決めて書く以上、必要な分だけ戦闘シーンを書く必要があるジャンルはある。それは間違いない
ですが一度根本に立ち返れば――そもそも書きたいのはそのジャンルの物語であって、戦闘シーンそのものではないはずなのです。
私は何も「人が乗ったロボットで戦闘せずにバスケをやれ」と言ってるわけではありません。
そのジャンルの構成要素として戦闘シーンを書いているのか、戦闘シーンが書きたいからそのジャンルの話を書いているのかでは、意味合いが全く違うと言いたいのです。
色々物語の作り方はあると思うのですが、「ロボットものor異能ものorチートものを書くためにそのジャンルの話を書いている」としていた人が、徐々に戦闘シーンの奴隷になり、筆が走ってついつい不必要な戦闘シーンを書いてしまっている、というなら話は厄介です。それは主客の倒錯、本末転倒とも言うべきもの。戦闘シーンばかりに枚数が積み上がり、キャラの掘り下げや世界観の説明をどんどん喰っちまっている作品も、おそらくかなりあるでしょう。
こんな陥穽に落ちないためには、戦闘シーンを書きたいという熱には意識的にセーブが必要です。だがそれに気がつかず、終わらない地獄のように戦闘シーンだけを書き連ねる作品になっているなら――あなたの戦闘シーンは間違いなく魔境に陥っていることになるでしょう。
反対に、「戦闘シーンが書きたいからこのジャンルの話書いてるぜ!」とハッキリ言える方は、これは魔境に陥ってるわけではありません。むしろ悟りに近くなっている。読者という他人の目を気にしないという覚悟があるなら、それはむしろ突き抜けた良さということになるでしょう。匙加減の難しいところです。
3.読者はまず第一に戦闘シーンを評価してくれるものだと思って書いている
中でも一番厄介かつ、最も闇深い魔境の森に迷い込んでいると言えるのがコレです。
私もかつてこの一番厄介でデカい悪魔に取り憑かれていたわけですから、これの厄介さはよくわかります。
これは私は別として、多少手慣れた人、修行が半ばまで来ている方が陥る魔境です。
そういう戦闘シーンは文面からもそこはかとなく「ドヤ感」が伝わってくるものです。
「どや! 俺のこの疾走感ある戦闘シーンは! こんなところをこういう風に表現してるで! こういう風な狂ったキャラが相手や! ヤバいやろ! すごい技出したるで! この技にこんなメチャクチャなルビ振っちゃうぜ! もうこの戦闘シーンの素晴らしさだけで書籍化決定アニメ化決定映画化決定の転スラ超えやろ」――。
かつてこの魔境に陥っていた人間として、これには四の五の言いません。
過去の己の横っ面を張り飛ばすつもりで、強い言葉を使います。
そんなわけねーだろ、と。
一体この世のどこに戦闘シーンの拾い読みだけしてくれる変態読者がいるというのか。そんな太い客がたとえいたとして、その作品の読者はこの世にその人だけであり、数人、数十人、数百人に読まれることは有り得ないと。たとえばお尻だけがめっちゃいい形をしていたとして、顔がブサイクなら何もかもダメ――そういうことを想定できなくなるからこそ、最もヤバい魔境であるのです。
俺の尻を見てくれ! 俺は不細工だが尻だけは凄いんだ! このプリティな尻をみんなで愛でてくれ――! こんな事を言いながら尻を突き出して迫ってくる奴がいたら、それは単なる変態です。私がそうでした。私は変態でした。
この魔境から脱するためには、これを書いてみることです。まず読まれません。それだから悪あがきを始める。戦闘シーンが書けているんだから読まれるはずだと。こんなはずはないと。少なくとも、この戦闘シーンを読んで書き方の勉強をしてくれる人ぐらいはいるだろうと。
いません。
むしろ、どこの世界にそんな人間がいるのか。
ちょっと考えればわかることです。
なまじ多少腕に覚えがあり、そこそこ戦闘シーンは書けているからこそ厄介です。
とにかく、この魔境に陥ったなら、読者の無関心という形で目が覚めない限り永遠に続きます。修行僧の精神的苦痛が最も長引くタイプであり、失望して筆をへし折ることにもなりかねないので、本当にこの魔境に落ちることだけは戒めたいものです。
◆あなたの戦闘シーンが何故魔境であると言えるのか
次にこれです。
これは非常に難しい議題であり、ともすればある作品に対する中傷とも受け取られかねないので、そのへんはあしからずご理解お願い致します。
1.ある戦闘シーンが根本的にストーリーに必要がない
身も蓋もない書き方ですが、おそらくこれは多いんじゃないでしょうか。
かつて戦闘シーンの魔境に陥っていた私の小説の半分以上は無意味な戦闘、もしくは戦闘シーンでなくてもよい展開でした。
物語はストーリーとドラマのスイッチングによって成り立っていく、とはよく言ったものですが、この場合は明確にストーリーが停滞するドラマとしての戦闘シーンの場合です。
折角ストーリーを眠らせてやってるのに、特にドラマもない戦闘シーン、これは必要がない、とでも言い換えられるでしょうか。
まず根本的に、物語に必要がない要素なら削った方がいい、という大前提に立ち還ることにしましょう。例えばこれに寄って主人公が新たな能力に目覚めるとか、和解して友になるとか、そういう事に繋がるならいいのですが、所謂「噛ませ犬」が出てきて速攻でぶっ飛ばされるだけなら、そもそも戦闘シーンなどなくていいはずです。賑やかしのための戦闘シーンは物語の全体的な密度の低下に繋がります。余計な戦闘は回避するぐらいがちょうどいいでしょう。
2.戦闘にルールや制限などの駆け引き要素がない
チートモノ、魔法モノで気をつけなければならないことだと思います。
第一、魔法は「法」なのだから使用にも発生にもれっきとしてルールがあるはずなのです。物理にも質量保存の法則だとか光速不変の法則があり、それを守るからこそ物事が成立する。法というのはルールで成り立つ概念であり、これを無視することはボールを何個でも使ってもいいサッカーみたいなもんです。
ただただ無限に転がり出てくるボールを相手ゴールに蹴り込み続けているだけのような戦闘では、当然の如くいくら技名を工夫しても意味がありません。
なんでこうなるかというと、作者の方が知らず知らずのうちに油断しており、戦闘そのものに密度を増していこうとする意識が希薄になっているからでしょう。いくらチートもの魔法ものと言えど、ただ能力を行使しているだけでは戦闘にはなりません。ただの技の掛け合いになってしまう。
技の掛け合いをいっぱしの戦闘シーンに昇華するのは、駆け引きやスリル、爽快感ということになるでしょう。爽快感はともかくとして、手に汗握る展開だって大いに作品を富ませてくれるはず。工夫してみる価値はあります。
ルールの制定や能力の制限までやったらチートものが書けなくなる、と言われかねないので難しいところなのですが、要するに戦闘シーンを単調なままにしないことが目的なので、能力ではなく舞台や場面の工夫でも演出はできます。「Aを秒殺して呪いを解かないとBが死ぬ」「Aを倒しつつBの問題も解決する」など、時間制限や複合的な危機の解決などの限定的シチュエーションの設定でも、こういうスリルや駆け引きは十分に演出できます。これらの工夫は作者の腕の見せ所でしょう。
3.設定先行で、何が起こっているのかよくわからない
ロボットもの、ミリタリーSFもののような、ある程度独自設定をガッツリ決めて書かれていらっしゃる作品は、よっぽど気をつけないとすぐにこれに陥ってしまうでしょう。
もう読ませる気がないのではないか、というぐらい情報の出し方が一方的で、なんちゃらファンネルだなんちゃらシステムだが予告もなく出てきて敵を蹂躙する。作者の脳内がエンドルフィンで真っ赤に燃え盛る反面、読者の心は「一体この機能はどっから出てきたんだよ? 説明されてないよ……」と冷え切り、頭からついていけなくなってくる。
これはひとえに設定の多さと、その情報の出し方が上手く行っていないからです。戦闘シーンがいくら達者だとしても、読者が覚えることができる最低限の数の情報を出し、覚えさせることを怠る――これは完全なる怠慢、魔の境涯です。そしてなまじ作者の頭の中には全部の情報が入っているので、どこで読者がついていけなくなってるのかがわからない。脱するにも苦労するタイプです。
すべての情報は作者の頭の中にしかないのですから、それを最高のタイミングで、そして取捨選択し、最低限だけ覚えさせていくという、戦闘の前にやっておかねばならない当然の準備を怠ると、物語全体が後出しジャンケンの繰り返しでワヤになってしまう。
ましてや早く戦闘シーンが書きたい、早く戦闘に入りたいとばかりに、独自の妄想設定だけを「設定集」などと外部化し、「予習しといてね」とばかりに読者の目の前に置いておくのは絶対に避けたほうがいいでしょう。設定集は設定や関係性がわからなくなったときに読むものです。読者に予習させるためのものではありません。
4.キャラクターの心理描写がないため、勝っても負けてもアツさがない
心理描写が足りないとか少ないとかでなく、「ない」のは大いに問題です。
全部台詞でキャラの感情を吐露させているぐらいはまだいい方。
戦闘描写だけで各キャラの心理描写を全くしないのでは、結局戦闘シーンなど無意味でしょう。
心理描写とは、つまりあるキャラに血を通わせ、それが文字ではなく「○○」というキャラクターなのだということを読者に認識させるための必須ツールです。
これがなく、全くブリキの人形のような、つついても血ではなくオイルが漏れ出してくるような奴が殴り合ったところで、誰も心を動かしてはくれません。
戦闘シーンとは、アツさ! キツさ! 苦痛! 爽快感! などの「!」を読者の中に一個でも増やす作業であります。
この「!」の源泉こそキャラクター性というものであり、そのキャラクター性を産むのは心理や感情の発露とその描写です。
殴られて「いてぇ!」、負けて「悔しい!」、勝って「嬉しい!」と言えないキャラに血が通うことは、たぶんないでしょう。
それ故に、戦闘シーンのときほど、疾走感の中にも丹念に心理描写を突っ込んで行かなければなりません。
もう一度己の作品を読み返してみるとブリキ人形がチート合戦していた、とハッとする人はたぶん多いんじゃないかと思います。
結びに
序論でも書いた通り、私は最近意図的に戦闘シーンを書かないようにしてきました。もちろん、どう頑張っても書かないといけない場所では書くのですが、「戦闘シーンそのものは面白くはない」という一種の「悟り」を得てから、書くのが億劫、いや、書くことにめちゃくちゃ慎重になりました。
戦闘シーンを書くことは楽しい。だがそれを主観的なものではなく、万人が心躍るエンターテイメントにすることは至難の業です。おそらくこれはほとんどのモノ書きなら一度は痛感することだと思います。
ある意味、戦闘シーンとはカフェインのようなものでしょう。
書けば楽しいし、それなりに読者もついてくる。だがそれを抜ければ疲れてくる。
だから徐々に戦闘シーンの間隔が短くなり、ストーリーが停滞し、新たな情報が出てこなくなり、物語の根幹が肥えていかない悪循環に陥る――。
もしかしたら、私の言うところの「戦闘シーンの魔境」とはこういうことであるかもしれません。
だから私は戦闘シーンを書くのを控えております。
いや、書くにはよっぽど書いているのですが、その敷居は以前よりも遥かに高くなった。
具体的に「書くのを控える」という方法を取らないと、すぐこの悪循環にハマってしまうと思ったのです。
ですから自分への戒め、自省録としてこのエッセイを書きました。
かつて悪魔に囚われ、誰からも注目されない不幸な物語を書いていた者として、この魔境には二度と陥りたくないものだとしみじみ思います。
くどいほど言っておきますが、戦闘シーンそのものが悪いわけではない。戦闘シーンを巧く書けるというのは一種の才能であり、大いに誇っていいことです。ですが、戦闘シーン以外の描写を怠り、キャラクターがいつしか目鼻もついてないブリキ人形になってしまうなら、それは戦闘シーンで得た評価をすべて地面にぶちまけるようなことになってしまう。戦闘シーンとそれ以外のバランスが大きく崩れた時、その戦闘シーンは魔境そのものになってしまう、そういうことです。
どうぞ皆様、これからも素敵な戦闘シーンを書いてください。
そしてその戦闘シーンが魔境とならぬことを祈るばかりです。
おしまい