転がる鈍器
この章は三人称にかえてあります。
「ねぇ、たっちゃん……」
高々と振り上げられた鈍器がその場で止まっている。背を向けたまま発せられた麻衣子のため息のような問いかけに、達也の腕の筋肉は硬直していた。
麻衣子がゆっくりと振り返った。
鈍器を振りあげる達也の姿を視界に捉えても、麻衣子は悲鳴をあげるわけでも、掴みかかっていくわけでもない。ただ、彼を見つめ、今にも涙がこぼれ落ちそうな顔で弱々しく微笑んでいる。
達也は動くことができない。
彼女のまっすぐな瞳。
耳になじんだ呼び名の悲しい響き。
儚い微笑み。
達也の腕は微かに震えている。
「あなたにとって私はなんだったのかな?」
寂しげな笑みを浮かべたまま、静かに投げられた言葉が、達也の心を揺さぶる。
麻衣子はじっと彼を見つめている。
達也は思う。
――俺は今、どんな顔で麻衣子を見ているのだろう。殺そうとしている人をどんな顔で見ているのだろう。
麻衣子の目がすっと閉じられた。何かを覚悟したかのように瞳を閉じ、頭をゆっくりと下げていく。
深々とお辞儀をした彼女は、目を瞑ったまま、ニッコリと微笑み――「さようなら」
それは誕生日のケーキを前に、ろうそくで浮かび上がった子供のような微笑みだった。笑みは、ろうそくを消すと暗闇の中に消えていく。麻衣子の微笑みもすぐに消えていた。
達也の目の前には、死人のような安らかな顔で佇む姿がある。
ふと、彼の頭に、初デートの光景が浮かんだ。
――あの時も、今のように麻衣子は深々と頭を下げていた。そして、「よろしくお願いします」とニッコリ微笑んでいた。
ひとつの想い出が浮かぶと、スライド写真のように次々と頭の中を駆け巡ってくる。ちょっとした喧嘩や言い合いも頭に浮かんでくる。そんなことも今なら何だかほんのり心が温かい、そう彼は思った。
――決して長くはない付き合いの俺たちにもたくさんの想い出が……あった。
駆け巡る笑顔に、達也の腕から力が抜けていく。
――俺は人を車や家電製品のように、ちょっと気に入らないからといって、取り変えようとしている。俺はなんて最低の男なんだ。麻衣子はこの世にたったひとりの人なのに。
鈍器がだらりと下がった腕の先で揺れている。
こみ上げてくるものに、達也の目が潤んでいる。
「麻衣子」
そっと呼びかけた声に、麻衣子がゆっくりと目を開けた。その瞳を見た達也の頬に一筋の涙が流れ落ちた。
「君は俺にとって大事な、大事な人だ」
達也は手を広げて足を踏み出した。鈍い音がし、フローリングの床に鈍器が転がった。
彼は麻衣子を抱きしめた。
――うっ。




