押してダメなら。
振り抜かれた刀が闇を切り払った。
斬られた部分から溢れ出る光を押さえ込むようにして、魔王は両手で傷口を塞ごうとする。しかし光は徐々に強さを増し、そして。
「おのれ、おのれ勇者あああああああ!」
魔王は内側から爆散した。後には塵も残らない。
勇者は残心の後、血振るいして愛刀を鞘に収め、それから静かに仲間たちを振り返る。
「終わったな」
長い旅路の末に勇者が見せた笑顔に、皆はようやく自分たちが使命を成し遂げたことを知った。
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魔王を討伐した後、勇者は国へと帰還したが栄達や財貨を求めることなく早々に片田舎へと隠遁した。
彼は、自分が戦後の政治闘争の道具として利用されるのを良しとせず、また強すぎる力を持つ者がどう扱われるかを理解していたからだ。
人里離れた場所に故郷のものに似た住居を建てた後、勇者は周囲とのつき合いをきっぱりと断った。家の裏手でちいさな畑を開いて野菜を育て、河で魚を釣り、野山で獣を追って完全に自給自足の生活を送ることにしたのである。しばらくは噂を聞いた客や顔なじみが来ることもあったが、その頻度も徐々に減り、やがては誰も訪れなくなった。
それでいい、と勇者は考えていた。
魔王不在となった世界は新しい時代に向けて目まぐるしく動き始めていた。勇者も魔王もいつか消え去って、おとぎ話だけの存在になったときこそ本当の平和が訪れたと言えるだろう。
そうして十数年の月日が流れた今、勇者は死の床に就いていた。
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結局、私は何も残さなかったな。
薄い布団のなかで、木目の浮いた天井を見上げながら勇者は思う。
勇者としてこの世界に召喚され、魔王を倒した以外には何も成さなかった。なにかを生み、伝えていくのはこの世界の人々がするべき事であり、自分が関わるべきではないという信念を持っていた為でもある。
その願いの通りに月日は流れ、自分は病を得てひとり死んでいこうとしている。
これはこれで潔い幕引きではなかろうか。
ああ、なんだか眠たくなってきた。目をつむると顔は熱いのに、体の内側だけが妙に寒かった。
その時、不意に表が騒がしくなった。久方ぶりの来客らしい。
「失礼いたします」
乱暴に襖が開かれ、庭先からどすどすと縁側を踏み越えて入ってきたのは体格のよい妙齢の魔術師だった。よく見れば誰あろう、かつて魔王討伐の旅に参加していた国の魔術師である。
「おや勇者様、まだご存命でいらっしゃいましたか。いやいや間に合ってなによりです」
「魔術師殿か、お久しゅうござる。よく肥え、いや、ご壮健そうでなによりだ」
その一瞬で十数年間の時が巻き戻ったような気がして、勇者の目がわずかに潤んだ。過酷な旅路で仲間と交わす会話や軽口が、なによりの気晴らしであったのを思い出したからでもある。
「ちょっとした問題が持ち上がりまして。いえ、貴方様が倒した魔王のことなのですが」
そんな勇者の感慨にも気づかぬふうで、魔術師は勢いよく喋りはじめた。
「そう遠くない未来に奴が復活するという予言が出ました。そこで今一度、勇者様のお力をお借りしたいと思いまして」
布団に横たわった勇者を、頭の先からじっとりとした視線が舐める。
「でもそのお体ではちょっと無理そうですなあ」
「そりゃあ死に掛けだからな。床から起き上がるのも辛いし、魔王ともう一度戦えと言われても難しかろう」
「本当にねえ。お願いに上がるのが少しばかり遅すぎましたが―――まあ、本題はここからです」
魔術師は下唇を湿らせて続けた。
「勇者様には以前お使いになられた武具をお譲り頂きたいのです。まだお持ちですよね?」
「うむ。捨てようかとも思っていたが、私と一緒に故郷から召喚されてきた物だけになかなか手放せなくてな」
「このたび魔王復活に備えて、国主導でふたたび召喚の儀式を行うことになりました。そこで新しい勇者様にはその武具を」
再び召喚の儀式を行う、と聞こえた。こいつらは自分のことしか考えていない。怒りで目の奥で火花が散ったようになり、同時に鈍い頭痛が勇者を襲った。召喚された側の想いや感傷、元の世界への未練や後悔について配慮するつもりはないのか。
まあ、ないのだろうなあ。
こいつら、この世界の人間にとっては勇者とは魔王を倒す力を持った便利な道具、くらいにしか捉えていないのだろう。だから平気で召喚の儀式に頼るのだ。
深い溜息が出た。
同時に、得意げに自分の計画をしゃべり続ける魔術師にもむらむらと怒りが湧き上がる。そもそも死の淵に瀕した人間の住処に無遠慮に踏み込んでおきながら世辞も言わぬ、挨拶もせぬとはどういう了見か。
おまけに「お前はもう死ぬのだから持っている武具をよこせ、新しい勇者が使うから」とは。
もっとも自分とて、せっかく救ったこの世界が滅んでしまうのは本意ではない。
だが、去り際にすこしばかりの嫌がらせをするくらいなら罰は当たらないだろう。
「では勇者には我が武具と財産を遺していくとしよう」
勇者が、わざと重々しく口を開いた。
「かつて私の使った装備品、精霊の加護を受けた装飾品、愛刀はその部屋にしまってある。全部くれてやろう」
そう言って、部屋の奥にある扉を指し示した勇者は、さっそく回収作業に入ろうと腰を浮かせた魔術師の背中に続けて声を掛けた。
「開けられるものならな。その扉には不壊の魔法をかけてある。正しい開け方をせねば永久に開かんぞ」
「えっ、なにそれは」
慌てて振り返った魔術師が見たのは、皮肉げな笑みを浮かべたまま眠るように逝った勇者の姿であった。
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それは奇妙な扉だった。
壁に薄くめり込むように作られており、ドアノブは無く、表面にちいさな薄いくぼみがあるだけの簡素な構造である。にも関わらず、不壊の魔法が掛かっていたため、どんなに屈強な兵士が叩いても壊すことができなかった。遂には屋内に攻城兵器が持ち込まれたものの傷ひとつ付けられない。
あらゆる攻撃魔法が跳ね返された。凄腕と呼ばれた開錠師が招かれたが、そもそも扉には鍵穴が存在しなかった。結局、前の勇者が遺した扉の謎を誰も解くことができないまま時間だけが過ぎ、そして魔王は復活した。
国はもはや武具の存在などにこだわっていられなくなり、早々に新たな勇者を召喚せざるを得なくなった。
『召喚された勇者に王自らが伝説の武具を与える』というイベントは中止され、発案した魔術師は面目を失ったという。かくして勇者は市販の剣と鎧、わずかばかりの路銀を与えられて旅立つことになったのである。
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「へえ、ここが前の勇者が暮らしてた家か」
あどけない顔立ちをした黒髪の少年、すなわち勇者がその家屋を見つけたのは偶然だった。レベルアップ作業を兼ねて山奥に入り込み、道に迷った挙句に発見したその家は、記録によれば先代勇者の住まいだったという。
「なんつーか、田舎の祖父ちゃん家に似てるなー」
先代勇者の希望通りに建てられたその家は、驚くほどに日本式家屋を模して造られていた。住人が消え、訪れるものもいなくなった住居に勇者は踏み入り、そして不壊の魔法が掛けられた扉を発見した。
勇者は扉のちいさなくぼみに手をかけた。
数々の攻撃も魔法も通じなかったその扉が、少年の指先に込められたわずかな力でするすると開いていく。これは勇者の成せるわざか、それとも神々の御意志か。
封じられた扉は開かれ、かくして彼は伝説の武具と先代勇者の遺産を手に入れ、魔王討伐への大きな力としたのであった。
ひとつだけ言えるのは、新たに召喚された勇者が日本の出身で本当に良かった、ということくらいだ。
そう。
引き戸だったんである。