ダイエットや~めた
図書館の中に戻った理沙は、いつもどおり気に入った作家の小説を手に取り、それを閲覧室で読むことに決めた。閲覧室に行くと、自分と同じくらいの少女が目に映る。制服を着ている。どこの高校だろうか。オーディオプレイヤーで音楽を聴きながら勉強している。スッと理沙は少女のことを一瞥する。体型は少しぽっちゃりとしていて、健康そうな少女である。
(勝った。あたしのほうが痩せてる)
理沙はそう思い、心の中でガッツポーズをした。自分の方が痩せていると分かると、とても安心する。それにダイエットをして良かったという気持ちになる。満たされるような気分になるのだ。だが、それは理沙の勘違いであった。いくら人よりも痩せていると分かっても、空腹は満たされないし、満足するわけではない。永遠に痩せた自分を求める果てのない旅なのだ。
このままやせ細っていけば、まとも外を出歩くことも出来ないだろうし、大げさに言えば入院することになるかもしれない。点滴で栄養を摂ってベッドの上で送る生活と、少し太っても良いから、毎日学校へ行き、友達と一緒に遊んだり、勉強したりする生活。そのどちらが良いかなんて答えは決まっている。絶対に後者の方が良い。それは分かっているのだが、太ることが我慢出来ないのだ。どうしたら、もっと自分に素直になれるのだろうか? 臺のように……、否、臺は少し言い過ぎだが、少なくとも、今自分の目の前に座る女子高生のように生活するのはどうしたら良いのか? 理沙は痩せた腕で頭を抱えた。
(もう、ダイエット止めたいよ)
ポツリと理沙はそんなことを考えた。ダイエットを止めたい。心の底ではそう思っているのだ。ダイエットを止め、好きな物を食べられるようになりたい。しかし、そんなことは出来ない。好きな物を食べるようになれば、太るに決まっている。今の体型を維持するためには、カロリー計算をして、節制した食生活を送らなければならない。
しばらくの間、脳内で葛藤としていると、昼食を終えたであろう臺が、閲覧室に入って来た。そして、辺りを見渡した後、空いた席に座り、何やら本を開き、それを読み始めた。一体、何の本を読んでいるのであろうか? 気になった理沙は、目を細め、臺に視線を移した。臺が持って来た本は、何やら難解そうで分厚いものだ。難しそうな顔をしている。表紙には精神医学と書かれているようだ。
精神医学の本なんて見て何をするんだろう? そんな暇があれば運動すれば良いのだ。それでも痩せないだろう。何しろ、パウンドケーキを一本丸々食べるくらいだ。理沙は立ち上がり、閲覧室を出て、再び休憩所に向かうことにした。
時刻は午後一時半――。昼時を少し過ぎたということもあり、休憩所には誰もいなかった。その代わり、奥のベンチには黒い異物が落ちている。あそこは確か、臺が座っていた場所だ。理沙は黒い物体が何であるか確かめるため、ベンチの前に立った。
黒い物体は財布であった。カードがずっしり入っているため重く分厚くなっている。
(誰の財布だろう……)
理沙は財布を手に取る。中身を見ると、千円札が数枚入っている。誰も見ていないが、理沙は千円札を抜くことはせず、カードの中から落とし主を探すための情報がないか調べた。
幸い、運転免許証が入っていた。理沙は免許証を取り出し、その名前を確認する。
臺信夫。免許証にはそう書かれている。
(臺さんのだ。あの人こんなところに財布を忘れたんだ。危ない人だなぁ)
ホッとするもの束の間、理沙は免許証の写真を見て、ぞくっとする。そこに写っているのは臺なのだろうか?
(これって誰だろう。まさか……臺さん?)
免許証の写真には痩せている男性が写っている。写真を撮ったのはいつか分からないが、有効期限が迫っていることを考えると、恐らく数年前に撮った写真であると推測出来る。
この痩せた男性が臺? 理沙は目を丸くした。一体何があり、臺はあのようにずっしりと太ってしまったのだろうか。理沙の頭の中で、臺の太っていくプロセスが想像される。いくら考えても答えは出ない。臺に聞けば教えてくれるだろうか?
見てはいけないものを見てしまった。この事実は知ってはいけないものだ。理沙は免許証を財布に戻し、閲覧室にいる臺に財布を渡そうと、図書館に戻った。
真剣な眼差しで本を読んでいる臺は、自分が財布を落としたことに全く気がつかないようであった。理沙が財布を持ち、それを臺に渡すと、酷く驚いた目で財布を見つめていた。
「拾ってくれたんだ」
静かな図書館内で、臺の声がこだまする。
「気をつけてください」
理沙はそう言うと、財布を臺に渡し、足早にその場から立ち去り、自分の席に戻って行く。
臺は財布をポケットの中にしまうと、にっこりと微笑み、理沙を見つめ、その後再び読書に戻った。
延々と本を読んでいたいところであるが、集中力が続かない。既に時刻は三時だし、そろそろ家に帰ろうかと思い、本を鞄にしまい、席を立った。その際、チラと臺を窺うと、彼はまだ本を読んでいるようだった。意外と集中力が高い。どういうわけか食い入るように精神医学の本を見ている。その姿を見て、理沙は若干の訝しさを感じたものの、特に気にはしなかった。そして、臺には挨拶をせずに、理沙は閲覧室を後にした。
図書館を出て、休憩所を通り過ぎようとしたとき、後ろから声が聞えた。
「お~い」
甲高い声。直ぐに声の主が臺であると分かった。理沙は立ち止まり、振り返る。
「理沙ちゃん。もう帰るの?」
理沙に追いついた臺はそう尋ねた。対する理沙は首を上下に振りながら、
「はい。帰ります。なんか集中出来なくて」
「そう。あ、財布ありがとう。なくしたら大変だからねぇ」
「そうですよ。あんなところに財布を忘れて。拾ったのがあたしだったから良かったですけど、他の人だったら盗まれていたかもしれませんよ。あ、ちなみにあたしは中身を抜いたりしてませんからね」
「それは分かるよ。理沙ちゃんはそんなことをしない。僕は信じてるよ。ねぇ財布を拾ってくれたお礼にジュースでもご馳走したいんだけど、良いかな?」
「ジュースですか?」
ジュースと聞き、理沙の頭は直ぐさまカロリー計算を始める。オレンジジュースは一杯八〇~一〇〇キロカロリーだ。それにコーラなんかの炭酸は一杯一〇〇キロカロリー。恐らく自動販売機でジュースを買うだろうから、コップ一杯のカロリーではなく、もっと増えるはずだ。きっと二〇〇キロカロリーくらい摂取することになるだろう。
二〇〇! 恐るべき数値だ。理沙はがっくりとうなだれた。
臺はというと、にっこりと笑みを浮かべ、
「休憩所の脇に自動販売機があるよね。そこで買おう。何でも好きな物を買いなよ」
臺はそう言うと、自動販売機に向かって歩き始めた。ご馳走してくれる。本来なら嬉しいことなのであるが、緻密にカロリー計算をしている理沙にとって、このような突然のカロリー摂取は迷惑以外何者でもない。しかし、臺の提案を反故にすることは出来ないだろう。仕方なく理沙は臺の背中を追った。
「何にする?」
小銭をじゃらじゃらと鳴らしながら、臺は理沙に向かって尋ねる。理沙は自動販売機のメニューを見て、
「ええと、じゃあブラックコーヒーで」
ブラックコーヒーは五キロカロリー未満。つまりほぼ〇キロカロリーである。それならば摂取しても問題はない。
「ブラックかぁ。理沙ちゃんは大人だねぇ。僕はブラックが駄目なんだ。砂糖とミルクをたっぷり入れたヤツは大好きなんだけどね」
聞いてもいないのに、自分の好みを披露した後、臺はブラックの缶コーヒーを買い、それを理沙に渡した。その後、カフェオレを購入した。
休憩所でそれを飲みながら、少し話そうということになった。ダイエットを始め、痩せてきて、学校に行かなくなってから、あまり人と喋らなくなった理沙は、ここ数日臺とばかり喋っているなと感じ、ちょっとおかしくなった。昔の理沙なら、臺とは喋ったりはしないだろう。だけど今は違う。太り、よく食べる人物を見るのが好きなのだ。自分が食べられない分、よく食べる人を見るのは楽しい。代替行為だ。だからこうして臺と喋るのかもしれない。だけど、臺はダイエットをすると言っている。
自分以外の人間がダイエットするというのは、理沙にとって悪夢である。痩せているのは自分だけ、それ以外の周りはすべて太っていてほしい。だからこそ、ダイエットを宣言しながら、とんちんかんにも高カロリーの物を食べまくる臺のことが嬉しくて堪らなかった。ダイエットだと言って、それに失敗する人を見るのは最高に甘美なものだ。どんどんダイエットに失敗し、高カロリーの物を食べ、今以上に太ってほしいと願うのだった。
そうこう考えていると、臺がベンチに理沙を誘った。
「立ってるのも疲れるし、ベンチに座ろうよ」
そう言い、臺は空いたベンチに腰を下ろした。理沙もそれに倣いベンチに座る。
臺は買ったカフェオレのプルトップを開け、ごくごくと飲み始めた。対する理沙はちみちみとブラックコーヒーを飲む。
「財布。ありがとね」
突然、臺が言った。理沙はコーヒーを飲むことを止め、
「別に良いですよ。偶然拾っただけですし」
「確かに拾ったのが、理沙ちゃんで良かったよ。君の言うとおり、別の人間だったら盗まれていたかもしれない」
「そうですよ。これからは気をつけてください」
「うん。気をつける。あ、でもさ、よくこの財布が僕の財布だって分かったね」
その言葉に理沙はギクリとした。運転免許証を見たことを言っても良いのだろうか? 否、言わなきゃ逆に怪しまれるかもしれない。
「ええと、実は、その、怒らないでくださいね。財布が落ちているのを見つけて、それが誰の物か確かめるために、免許証を見たんです。それで、財布が臺さんの物だって分かったんですよ」
「あぁ、免許証ね。それを見れば確かに僕のだって分かるよね」
臺はそう言った。決して、写真のことは言わない。理沙は写真に写った痩せた人物が本当に臺なのだろうか、聞いてみたくて堪らなくなった。だけど、それは聞いても良いことなんだろうか?
「あの、一つ聞いても良いですか?」
意を決し、理沙は声を出した。再びカフェオレを口にした臺はそれを飲み込んだ後、答える。
「何?」
「免許証に写ってた人、臺さんですよね? 臺さんの免許証だから当然だと思うんですけど、痩せてる人が写ってたんで、驚いたんです」
理沙がそう言うと、臺は遠い目をしながら、沈黙した。数秒間の静寂の後、臺は口を開く。
「……。そう、僕はね、昔は痩せてたんだ。なかなか男前だったでしょ?」
男前かどうかは置いておいて、少なくともオタク臭さのない普通の男性だった。理沙はとりあえず話を合わせ、
「はい。びっくりしました」
「まぁ二十代の頃の写真だからね。二十代の頃は何を食べてもそんなに太らなかった。何しろ基礎代謝が高いからね」
基礎代謝というフレーズが出て、理沙は少し面食らった。臺は密かにダイエットの勉強をしているのだろうか? そうでなければ基礎代謝などという単語は出てこないはずだ。理沙は、なんとなく臺がダイエットについて知識があるのではないかと思った。
「基礎代謝なんて言葉知ってるんですね」
「え、あ、ああ。まぁね。本で読んだんだよ」
今時のダイエット本には基礎代謝の情報くらい載っている。しかし、基礎代謝を知りながら、パウンドケーキを一本丸ごと食べるなんてどういう神経をしているのだろうか? それだけが理沙には理解不能だった。
「理沙ちゃんはさ、昼ご飯、水だけだったみたいだけど、おやつとか食べるの?」
「おやつですか。そんなもの食べませんよ」
「じゃあ、夕食は? 勿論しっかり食べるんだよね?」
臺は心配そうな顔をして尋ねる。理沙はどう答えようか迷った。理沙の夕食のメニューはこんにゃくや白滝、もずく。後はきゅうりやブロッコリーなどの低カロリーの野菜を少し食べるだけである。低カロリーだから、栄養価は低い。そのことをそのまま言うと、臺が何を言うか分かったものではない。嘘をついてしっかり食べているということにしようか思ったが、嘘をつく気にはなれなかった。
「夕食もそんなに食べるわけじゃありません。こんにゃくとか、きゅうりとかを食べてます」
それを聞いて、臺はなんと言うだろう。両親と同じで、もっと食べろと言うのだろうか? 食べたい気持ちはある。だけど食べられないのだ。それを両親は分かっていない。理沙はやや俯きながら、臺の反応を待った。
「こんにゃく。きゅうりか。こんにゃくは茹でて、田楽味噌をかけると美味しいよね。きゅうりも味噌をつけたり、塩をかけたりすると美味しい。糠漬けや浅漬けなんかも良いよね」
意外な言葉に理沙は驚いた。その言葉を聞き、理沙は答える。
「確かにこんにゃくの味噌田楽は美味しいですよね。でもあたしは刺身こんにゃくを食べてます。一口サイズに切られていて美味しいんです。きゅうりには塩をつけて食べてます。きゅうりと塩って意外と合いますからね」
「僕はきゅうりに桑の葉ソルトをかけて食べるのが好きだなぁ。あれ美味しいんだよねぇ」
桑の葉ソルト。意外な単語が出た。そんな塩聞いたことがない。理沙がきゅうりにつける塩はどこにでも売っている食卓塩である。
「桑の葉ソルトって何ですか? お、美味しいんですか?」
理沙は食い入るように質問を飛ばした。それに対し、臺は平然と構え、
「名前の通り、桑の葉が入った塩のことだよ。あれはなかなか美味しいんだ。きゅうり以外にも何かけてもおいしいよ、サラダにオリーブオイルをかけて、その上に桑の葉ソルトをサッとかけるだけで絶品のドレッシングが出来上がる。僕は大好きなんだ。ただ、少し高いけどね」
オリーブオイルに塩をかけたサラダ。なんとも美味しそうな響きだ。口の中が涎で一杯になる。あぁ食べてみたいなぁ。でもオリーブオイルってカロリーがもの凄く高いし、きっと食べてしまったら一気に体重がリバウンドするだろうなぁ。
オイルはともかく、塩を食べることなら出来そうだ。なぜなら、塩のカロリーはほぼ〇キロカロリーだからである。それならば、ダイエットをしている理沙でも十分手が届く。直ぐにスマホで調べたいくらいだ。
「あ、あの、その桑の葉ソルトってどこに売ってるんですか?」
「ええとね。デパ地下。ほら、溝の口の丸井に地下食料品売り場があるでしょ。そこに売ってるんだよ。値が張るけどね」
「どのくらいですか?」
「大体五百円。普通の塩の五倍くらいの値段」
塩に五百円は確かに高い。でもそのくらいの値段なら理沙にも十分支払える。理沙は直ぐに桑の葉ソルトを買い求めたくなった。まともに食べられない分、食材観察には異様な執念を燃やすのが理沙なのである。
「あ、あたし、これから買いに行きます」
「今から? それは良いかもね」
臺はパンパンに太った手首を上げ、腕時計で時刻を確認すると、
「今、丁度三時だし、おやつ時だよね。よし、僕も丸井に行くよ。一緒に行こう。案内するよ」
臺はにっこりと笑った。




