ダイエットや~めた
理沙は臺の前に立つ。すると、リスのようにパンを頬張っていた臺が理沙の存在に気づいた。臺はにっこりと笑う。その表情はどこか七福神の大黒天を髣髴させ、理沙の心を幾分か穏やかにさせた。
「何やってるですか?」
穏やかになったものの、真剣みのある声で言った。
「何って昼ごはん食べてるんだけど」
あっけらかんと言う臺。
理沙は髪の毛の先端をくるくると指で弄くりながら、
「痩せるのが目的じゃないんですか?」
「うん。僕は絶賛ダイエット中だよ」
「ダイエットしてる人は、そんなに沢山パンを食べないですし、パウンドケーキも買いません。パウンドケーキのカロリー知ってるんですか? それに、一本丸々買いましたけど、まさか全部一人で食べるわけじゃないですよね?」
「一人で食べるよ。僕、パウンドケーキ大好きなんだ。とくにサツマイモ味。これがたまらなく美味い」
サツマイモ味のパウンドケーキ。聞いただけで涎が出る。理沙はごくりと生唾を飲み込み、懸命にパウンドケーキサツマイモ味を食べたいという欲求を消し去った。
「駄目ですよ。それじゃダイエットになりませんし、逆に激太りしてしまいますよ」
「ええぇ、これ以上太ったら困るなぁ。医者に怒られちゃうよ」
「臺さんはホントにダイエットする気があるんですか?」
「あるよ。だから夕食はご飯抜きにするよ。そのためにこうして昼ご飯は沢山食べようと思って、奮発して買ったんだ」
いくら夕食のご飯を抜くからといって、昼食にこれだけの物を食べたら意味がない。というか、臺はダイエットについての基本を理解していない。否、あえて理解していないという感じだ。
「臺さん。カロリーって知ってますか?」
理沙がぼそりと尋ねると、臺は食べるのを止め、
「カロリー。勿論知っているよ。エネルギーのことでしょ」
「今食べてるパンの包装紙の裏を見てください」
「包装紙の裏?」
臺は理沙に言われるがままに包装紙の裏を見やった。そこにはカロリーなどの栄養成分が書かれている。臺はそれを確認し、
「カロリーが書かれているね。三五〇キロカロリーだよ」
「他のパンにも書かれています。パウンドケーキは書いてないかもしれませんけど、一本食べるのだとしたら一〇〇〇キロカロリー摂取することになります」
理沙は訴えるように言うが、当の本人である臺はあまり堪えているようには見えない。理沙はやや毒気を抜かれながらも、続けて言う。
「一日の総摂取カロリーは男性なら二三〇〇キロカロリーくらいです。臺さんは今日の朝にポテチを食べてましたし、昼食だけで二〇〇〇キロカロリー近く摂ろうとしています。ダイエットをする場合、大体総摂取カロリーを一五〇〇キロカロリーにしなくちゃ痩せないんです」
菓子パンの袋の裏を見ていた臺は、そこでようやく目を真ん丸くさせ、
「一五〇〇! そりゃ凄い」
「そうです。だからそんなにパンを食べちゃ駄目です」
「う~ん。カロリーが高いのは分かるんだけど、せっかく買ったんだし、残すのはもったいないよね。だから一応全部食べるよ」
あっさりと言う臺。その発言に理沙はわなわなと震えた。ダイエットというのは、もっと身を削る行為なのだ。少なくとも、理沙はそう思っていた。しかし、臺はそこまでの覚悟がない。どうやったら簡単に痩せられるのかを考え、なるべく食事制限をなしで楽に痩せようと考えている。そんなダイエットはこの世に存在しない。
「吐いてください」
理沙が強い口調で言うと、臺は新しい菓子パンの袋を開けながら、
「え?」
「だから、全部食べるんなら、吐いてください」
「吐くって嘔吐するってこと」
「そうです。そうすれば食べた分をなかったことに出来ます」
「僕、吐いたことなんてないから、そんなこと出来ないよ。それに、吐いたらもったいないじゃないか」
「だけど、臺さんは痩せたいんですよね? それならそこまでのことをしなくちゃ痩せません。それに吐くとすっきりします」
「ストイックだなぁ~。君は凄いよ。その情熱をもっと別の部分で発揮すれば良いのに。もったいないなぁ」
臺の言葉に理沙は固まる。
もっと別の部分で情熱を発揮すれば良い。そんなことは考えたことがなかった。とにかく今はダイエットと食べ物のこと以外考えられない。学校にも行けないし、こうして毎日ぶらぶらと生活するしかない。
「そ、そんなこと言っても駄目ですよ。とにかく痩せたいなら吐いてください」
しつこく理沙が言うと、そこでようやく臺は、
「分かった。分かった。吐けるように努力するから、とにかく今は食事をさせてよ。そうだ、一緒にご飯食べない? 丁度隣の席も空いてるし、座りなよ」
臺はそう言うと、開いたベンチを指差し、そこに座るように促した。理沙はフンと嘆息し、ベンチに座った。木製のベンチが臀部に当たる。既に臀部の肉も削ぎ落ちていたため、固さがダイレクトに伝わる。あまりに痩せると、固い椅子にずっと座っているだけでも辛いのである。
理沙はペットボトルのキャップを捻り、一口飲んだ。何の味もしないただの水が、理沙の昼食だ。頭の中では食べたい物が一杯だが、それを受け付けることが出来ない。理沙は恨めしそうに臺の買った菓子パンを見た。
「そういや、名前聞いてなかったよね。教えてよ」
臺はパンを食べながら言った。
どうして自分の名前を知りたいのだろう。ひょっとしたら、この人は自分に気があるのかもしれない。理沙はそう考え、少し警戒したが、名前くらい言っても良いだろうと思い、その質問に答えた。
「田中理沙です」
「理沙ちゃんね。よぉし、もう覚えた。良い名前だね。僕の臺と同じくらいだ」
何が同じなのかさっぱり分からないが、臺はにっこりと笑みを浮かべながら、パンを頬張る。そして、
「でも理沙ちゃんは水しか持ってないけど、昼ご飯食べないの? それとも、もう食べちゃったの?」
まさか食べるわけない。理沙は視線を臺に合わせながら、
「あたしの昼ご飯はこれです」
と、ミネラルウォーターを臺に向かって見せた。臺は水を見て、驚いた視線を送る。
「え、それって水だけど、水しか飲まないの?」
「そうです。あたしも臺さんと同じでダイエット中なんです。だから昼食は控えてます」
「ダイエットって理沙ちゃんそんなに痩せてるのにダイエットしてるの?」
「そうです。あたしなんてまだまだですよ。女優のMさんや、アイドルグループのTさんなんてあたしよりも身長が高いのに、もっと痩せてるんです。それに足もすらっと長くてカッコ良いし。だからあたしも負けないようにダイエットするんです」
「ふ~ん。そりゃ大変だねぇ。でもさ、水だけだとお腹空かないの?」
理沙はグッと詰まった。
昼食が水だけで、腹持ちするわけがない。ずっとお腹は空いているのだ。だけど、我慢だ。ここで食べたら絶対に負ける。何に負けるのか分からないが、理沙の中では昼食を食べる=悪という方程式が出来上がっていた。
「お、お腹は空きますけど、我慢するしかないです」
「理沙ちゃんはさ、どうしてダイエットを始める気になったの?」
ダイエットを始めた理由。理沙は記憶を反芻する。
大した理由はない。だけど、スラッと細長いシルエットに憧れているのだ。
「あたしは」理沙は言う。「女優のKさんが凄く好きなんですけど、その人みたいに細くなりたいと思ったんです。しいて言うなら、それがきっかけです」
「女優のKさんねぇ。僕も一応知ってるよ。確かに綺麗な子だよね。君のような女の子が憧れるのも分かる。でも僕が見るからに、君はKさんより痩せているよ。つまり、とっくにKさんの体型は手に入れたんだ。それなのにまだダイエットするのは何故?」
言われた通りだ。既に目標を達している。なのにどうしてダイエットを止められないんだろうか。
「こんなこと言っても分からないかもしれないですけど、漠然と怖いんです」
「怖い? 何が?」
「太ることですよ。食べたら一気にリバウンドして、手にした体型が逃げていってしまう気になるんです。だからあんまり食べる気がしないっていうか……」
そう言うと、臺は理沙から視線を外し、遠い目になった。心の底に刃が刺さって、それが彼を苦しめている。理沙にはそんな風に思えた。二人の間にしんとした空気が流れる。なんだか湿っぽくなってしまった。そんな中、臺が空気を変えようと思ったのか口を開いた。
「そうだ。パウンドケーキ半分食べる? 少しくらい食べた方が良いんじゃない?」
パウンドケーキ。口内が涎で溢れる。臺は持っていた菓子パンを一気に食べ、ビニル袋の中から、細長いパウンドケーキを取り出した。
「確か、一つ一〇〇〇キロカロリーって言ってたよね。半分にすれば五〇〇キロカロリーだ。それくらいなら食べても良いんじゃないの?」
一つ五〇〇キロカロリー! 理沙は卒倒しそうになった。そんなに高カロリーな物を食べられるわけない。五〇〇キロカロリーも摂取したら、どれだけウォーキングすれば良いのだろうか? 多分一日、歩いても消費しきれないんじゃなかろうか。理沙は顔を真っ青にしながら、パウンドケーキに目を向けた。
美味しそうなパウンドケーキ。否、美味しいに決まっているのだ。でも食べてしまったらその分の贖罪は受けなければならない。きっと体重は増えるだろうし、太ももだって太くなるかもしれない。
そうこうと理沙が考えていると、臺が大きな手でパウンドケーキの包装紙を破り、半分に折った。そして、それを理沙も前まで持ってきて、
「ほら、食べなよ。このパウンドケーキ美味しいよ。僕が保証する」
目の前に掲げられたパウンドケーキ。理沙の口内は涎で溢れかえった。手が震える。それと同時に、食べたら太るという恐怖が脳内を侵食する。
「い、いりません……」
「どうして? まさか毒が入っていると思ってるの? そんなものは入ってないから安心しなよ」
「ホ、ホントにいらないんです。気持ちだけで十分です。ありがとうございました」
理沙はそう言い、立ち上がった。しつこく食い下がる臺の前にいると、どうしても気が狂いそうになる。あぁパウンドケーキが食べたい。
理沙は立ち上がり、図書館の中へと消えて行った。臺はその姿を呆然と見送り、差し出したパウンドケーキを一齧りした。




