01.レスティア・メレド
ふっと意識が浮上して、見慣れた天井を視界に映す。ぼんやりしたまま、右手を持ち上げた。
今日も、触れられなかった。レスティアは溜息を吐く。
彼女、レスティア・メレドが黒い竜の苦しむ夢を見始めたのは、たった五歳のころだった。洞窟に居た竜がもがき、壁を壊し、岩山が崩れて緑が遠ざかってゆく。何人もの人がやってきては近付けず、低い唸りをあげる。一年の間夢は早回しに進み、魔法によって地に縫いとめられた後は途切れ途切れに苦しむ姿を見続けた。かれこれ九年間、同じ夢が続いている。
この国で、いや、この世界で、竜は災厄の全てである。
おおよそ百五十年前にかの竜は突然現れたとされる。今まで存在していた龍族と一線を画すそれは、世界の全てに対して深い憎悪を抱え、世界を呪っていた。
竜の呪いは強大で、魔の傾向が強い存在は余さず理性を失い、作物は実りを減らし、災害が増えて疫病が流行った。太陽が届ける光は常に淀むようになった。
何人もの冒険者が竜を殺さんと旅立ったが、呪いに侵された大地を越えることは成しがたく、たどり着いたのはたった一人。その男も、かろうじて竜をその場に縛り付けるのみで、退治には至らなかった。
世界に呪いを撒き散らすことができなくなった竜は、しかし、じわじわと呪いを広げていた。果てしない怨嗟で、ただ一体の黒い竜は今も暗澹を染み渡らせている。
と、される。他愛無く夢の話をした五歳のレスティアを窘めるように、皆がこの話をした。「竜は悪」で、「世界の災厄の全て」だと、竜を庇いたがる少女に。
ひどく哀しく、そして腹立たしく、その話をされるたび余計にレスティアは竜を庇いたてた。夢の中の竜だけでなく、伝えられる竜のことも。
その二者が同じ存在なのだとふしぎに確信していたからだ。
あの竜は世界を呪ってなどいない。憎んでなどいない。
何度もそう主張したが、所詮は子どもの戯言、夢の話と意地に違いないと笑われた。せめて周囲に影響あるほどの美貌や知恵、武力があれば発言に力もついただろうに、それらは全て兄と姉、それから双子の弟妹にそれぞれ割り振られレスティアには与えられなかった。身分こそ貴族だが、位の低い地方領主の冴えない次女のこと。家族の中でも小さな影響力が、世間に通用するわけもない。世界中で信仰される神の一柱も信じていない兄でさえ、竜が呪っているなんてことは疑いもしなかった。
それから月日が経って十四になったレスティアは、もう竜を庇わない。それを話題に乗せることもなく、まるで存在すら忘れたかのように声を殺したまま、たったひとつのことを考え続けていた。
たったひとつ、黒竜の側に行く方法を。
竜の居る大地は、半月ほどの距離まで一切の動植物が存在しない不毛の地であり、呪われた大地と呼ばれている。その大地の過酷さはもちろん、その呪われた大地にたどり着くまでにも凶暴な魔獣や長い道程を越えなければならない。ただの貴族の娘に、国をひとつふたつ超える過酷な旅は許されない。
貴族の位を捨て冒険者になろうにも、彼女に武才は備わらなかった。剣はからきし、弓が少し。薬学だけは齧ったが、荒れ野に何の薬草が生えようか。学んだ旅の方法は箪笥の奥に仕舞われた。レスティアにできることなどほとんどなかった。
竜のことばかりを考えていたといっても、まじめな気性のレスティアはやるべきことをおろそかにはしなかった。貴族としてのマナーを学び、生きるために食事をし、そして空いた時間はしばしば眠った。できることは無くても、竜がこちらに気付くことは無くとも、側に居たかったのだ。
眠れない場所では本を読んだ。竜の本を。世界の関心は竜に大きく割かれていたから、そう多くないメレド家の図書室にだって何冊も置いてある。例えば竜を縛り付けた騎士タウンゼントの本は大流行し、暗くなった世界に光を差し込んだと言われる。それらの本を何度も何度も、飽きるほどに読み返した。どうにか竜に差し込む光を見つけたかった。
いつの時代のどんな本も竜は悪役で、殺す算段ばかりたてられて、助けようなんて奇特な筆者はひとりもいない。
それでも飽きずに見逃した文章がないか、レスティアは毎日図書室に向かった。一見関係なさそうな、「服地の基本」なんて本も読み終えている。それでも彼女が竜の側に行く方法も、竜の苦しみを和らげる方法も見つけられないでいるために、王都へ行くことを望んでいた。
レスティアが王都に行くとすれば、その方法は輿入れに限ると言って良い。この国の成人は十五歳、じきに結婚も可能になる。
もしも兄のように頭が良ければ、王都の学院に行けた。
姉のように美しければ、条件の良い結婚相手が選べた。
どちらもないレスティアに選べるものは少なく、自分も竜もとはいかない。孤独に苦しむ竜をとれば、自分を取り零す。それでも見捨てたくなかった。
だからどんなに両親の反対する相手でも、評判がよくなかろうと、王都の貴族でさえあればと思っていた。愛人でもよかった。王都に数多ある本の中で、竜のための一文を探せるのなら。
こんなことをもし知られたら、家族は「夢の中の竜のために自分の幸せを捨てるなんて」と言うだろう。昔から重ねた隠しごとのひとつにこれも加えて、王都に嫁ぎたい理由は適当に考えた。竜のことを「夢の中にしかいない」と言われるのも、「そんなこと」と言われるのも、そして「竜のために必死になるなんてばかげている」なんて言われるのも、嫌だったのだ。
実際、夢の中の竜が実在する災厄の竜と同じ証拠はない。夢の黒竜についてレスティアは知っているけれど、比べる災厄の竜のことはわからないからだ。
それでもレスティアは同じ存在と信じていたし、違う存在だったとしても、災厄の竜を救う手立ては同時に夢の黒竜を救うそれであるに違いなかった。
名前をセレスティア→レスティアに変更。