第9話 笠井町の夜
笠井町――東京23区の東端に位置する江戸川区の南側の中心的な町である。人口65万以上。かつては中央から北が町工場を中心に栄えていたが、近年は南側が経済の中心になってきている。近年は中国、韓国、フィリピン、インド、ロシアと近隣諸国からの移住者が多く、その分犯罪も国際的、組織的な側面が強くなり、江戸川南警察署は、他の行政区に比べても四課――組織犯罪対策部の業務は過酷なものであった。後藤が江戸川南警察署に配属になってから7年が経つ。
「7年前、俺はまだ、こっちに着たばかりだったから、坂口浩子の失踪事件にはほとんど関わってなかったんだ」
「実際、捜索以来も取り消されたわけですし、なんせ毎日のように大小さまざまな事件が起きるこの街です。覚えていなくても無理はありません」
鳴門刑事が本庁から笠井町にやってきたのは昨年のことである。それまで後藤が組んでいた鈴森刑事が病で倒れ、急遽移動が決まったのである。
「まぁ、それもそうなんだが覚えていないというよりは、知らなかったというほうが正しい。駆け出しの俺なんかにわからないところでいろんな事件は処理されることが多い。特にあのころは左螺曼蛇がめちゃくちゃやっていたからな。やつらと直接かかわりのある婦女暴行や失踪事件であれば俺の知るところになっていただろうが、そうでないものはこっちのテリトリーじゃない。まして着任早々の俺が首を突っ込めるような状況じゃなかったからな」
「今じゃ、このシマでおきているどんな些細な事件でも後藤さんの耳に入りますからね」
「おいおい、俺はどんなバケモンだよ」
後藤と鳴門刑事は笠井町の駅前の雑居ビルにあるバーのカウンターで飲んでいた。この店はかつての後藤の上司で現在江戸川南警察署の交通課課長の岡島警部補とよく飲みに来る店である。後藤はよく考え事をするときにこの店を使う。鳴門刑事を連れてきたのは始めてである。
「こういう店を後藤さんが知っているっていうのはなんだか意外ですね。もしかして、情報の取引とかここでしてたりとかして」
「映画の見すぎだ。いや、安物のテレビドラマってところか。そんなものがあったらお目にかかりたいよ」
「やっぱりあーいうのは、作り話の世界なんですかね」
「まぁ、まったくないということはないが、少なくとも俺がそういう店に、ひよっこのお前さんを連れてくると思うか?」
「これは、これは手厳しいお言葉……はいはい、僕はまだひよっこですよ」
「そう悲観するな。俺はほめてるんだぞ」
「どうですかね。僕はまだ後藤さんに大人扱いされた覚えがないんですが」
「そうか? なら大人の扱いをしてやろうか?」
「い、いやぁ、結構です。今で十分勉強になっていますから」
入り口からすぐにカウンターになっている。奥に4人がけのテーブル席が二つ。無理をすればもう少しテーブルを置けるスペースはあるが、客への配慮なのか、席と席の間の距離が十分に保たれている。マスターは誰がどうみてもマスターである。その風貌、立ち振る舞い。口数は少なく、客から注文を受けるとき意外に目線が会うことはほとんどない。決して経営がうまく行っているようには見えない。後藤がこの町に来てからというもの、満席で入れなかったということは一度もない。もっとも後藤がこの店に訪れる時間はそういう時間帯が多いのかもしれない。後藤はにぎやかな場所が苦手だった。
後藤と鳴門刑事は仕事人間というわけではない。普段でも移動中や張り込み中には他愛もない世間話もする。しかし今の二人にとってここ数日起きている事件について、語らずにはいられなかった。
「いろいろと気になることがあります。後藤さん、僕らがいま直面している問題というのは、果たして我々警察の力でなんとかできることなんでしょうか?」
「どうかな。人は知らないものは探さないという言葉がある」
「なんですか、それ……そういえば前にも聞いたような」
「つまり、警察機構が知らないことであれば、この件には最初から圧力なんかかからなかったってことさ」
「じゃぁ、警察機構の中にあるていどことの真相を知るものがいるってことですか?」
「さぁ、それはどうかな。警察は何も知らない。ただ、命令されるがままに動いているだけ……という可能性が一番高いだろうな。少なくともうちの署の中には、それを知るものはいない。いればもっと積極的に俺を止めにくるだろう」
「なるほどです。でも、警察を動かすような存在って……」
「あぁ、そうだ。だからそういうことは考えないほうがいい。俺たちも知らないほうがいいということがある。知らなければならないときに、それはきっと向こうからやってきて、はじめましてって挨拶してくるだろう」
「はじめまして……って」
「はじめまして、あなたのことはよく存じております。ずっとあなた方を見てましたってな……怖い怖い」
「後藤さん、脅かさないでくださいよ。ちょっと寒気がしてきましたね」
「ふんっ!」
後藤はウイスキーをあおり、飲み干したグラスを目の前に差し出した。カウンター越しにマスターが声をかける。
「同じものでよろしいでしょうか?」
「ああ、頼む」
「かしこまりました」
不意に店の扉が開く。それは驚くほど静かに、まるで物理法則を無視したかのような不自然に整然とした動きであった。最初後藤にはそれがなぜ不自然に見えるのかがわからなかった。いや、普段の後藤であれば、一瞬あとにその不自然さの原因に気づいたのかもしれない。後藤の思考はその場で停止してしまった。その扉の向こう側から現れた一人の少女の姿に目を奪われたのである。
少女はまるでフランス人形のような透き通った白い肌をしていたが、髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としていた。目はパッチリとしているが、瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしていた。夏の日差しも通り抜けてしまうような透明な存在感。そして重さというものがまるで感じられないようなもの静かな身のこなしは、その場所だけ重力がないような異様な印象を与えた。
「いらっしゃいませ。お客様。こちらの席へどうぞ」
マスターの普段となんら変わりのない態度に後藤は感服した。
「きれいな人ですね」
鳴門刑事もまた普段となんら変わりのない様子だったがマスターのそれとはまったく違うものである。後藤はなんの根拠もなしにそう確信した。
「そうか」
後藤の中で急速にアルコール成分が分解されていく。一瞬の体温の上昇のあと、首から上はすっかりシラフな状態になったのは、マスターがウイスキーのグラスを後藤の前に静かに置き、少女の席までいって、いつもと変わらぬ声で「いらっしゃいませ。何になさいますか?」と注文をとりに行ったときである。
その少女は――ともすれば年齢確認が必要かと思われるような容姿であったが、その身のこなしは間違いなく大人の女性のそれであった。見た目よりも年齢は上、もしかしたら30を越えているかもしれない。後藤の視線は、被疑者を観察するそれになっていたが、出されたばかりのウイスキーのグラスを口にして、詮索することをやめた。
「やれやれ、我ながら度し難い」
「どうしました?」
「いや、なんでもない。これを飲んだら帰るか」
「そうですね。明日もありますし……」
「マティーニをくださいな」
「マティーニでございますね。かしこまりました」
少女の透き通った声は、後藤の神経の何かを刺激した。しかしマスターのオーダーを確認する声は、水面にできた波紋を打ち消すよな作用があった。この店はマスターの店なのである。マスターの動きは少女のそれに負けないほどに不自然にスマートなものだった。静かな動きと激しい動きが見事に調和し、まるで成功にできたロボットのように見えた。後藤も鳴門刑事もその動きに見蕩れていた。
「お待たせしました。マティーニでございます」
「ありがとう。素敵なお店ね」
マスターは声で返事をせずに物静かな笑みを浮かべ少女に答えた。
「ごゆっくり」
その様子をじっと見ていた後藤と少女の視線があった。少女は入り口から後藤、鳴門刑事と座り二つ席を空けたところに座っていた。
「こんばんは」
カクテルグラスを持ち上げた左手の細い指先には、まるで生活観がなかった。少女の視線は後藤、鳴門刑事と移り、次にマスターに視線を向けてからマティーニを口にする。
「素敵な夜ね。でも少し騒がしいわね」
「な、何がです?」
鳴門刑事が誘導されるように少女に声をかけた。
「鳥たちが騒いでいるわ。それに虫たちも……」
後藤は、はっとして少女を見つめた。後藤は何かデジャブのようなものを感じざるを得なかった。




