第7話 二つの傘
局地的な天候の変化は、日常的に、いつ、どこでもそれは起きている。だが、特別な状況下においてそのような現象は、観る者に運命や宿命や宿敵といった言葉を連想させる。今このとき――敷地面積約81万平方メートの笠井町海浜公園のなかでも、雨が降っていないのは公園の三分の一にあたる野鳥園エリアにある沼地周辺に限ったことであることを知れば、誰もがそう思うことだろう。
だが、二人は傘を差したまま、動こうとはしない。
一人の男は作務衣に下駄という"日本の夏"を象徴するかのような佇まい。
もう一人の男は、上下白のスーツに身を包み、公園のしかも、野鳥園などには到底似合わない格好のはずだが、アメリカ映画でよく目にする南国の広大なリゾート地にエキゾチックなバカンスを楽しみに来た若者に見えなくもない。しかしその肌の色は青白く、病人が療養に来たのか、或いは思い残すことがないように、暗く閉ざされた病室から抜け出してきたようにも見える。
「お互いにこうして姿を晒して会うことに、いったい何の意味があるのかのぉ」
下駄の男は問うた。
「僕には僕のやらなければならない事、そしてやりたいことがあります。それを邪魔しないで頂きたい――というお願いを聞いていただくために、こうしてあなたをお招きし、あなたはそれに応えた。違いますか?」
青白い青年は問うた。
「いかにも。ワシは招かれてここに来た。しかしお主ではないわ。姉を亡くした妹の無念の声に誘われて来たんじゃ。お前さんに会うのはついでの話しよ」
下駄の男は肯定し、否定した。
「過程はどうでもいいのです。今ここには、あなたと僕しかいないのですから」
青白い男は否定した。
相いれない。
二人の間には、外見にもまして、根底にあるものの違いがうかがえる。
「これがお主の望んだ結果だというのなら、そしてそれも次の結果につながる過程だというのであれば、つまり今このときもいずれ、どうでもよくなることだという話になるのじゃが、それはお主がこの先も生きていられるという前提があっての話しじゃろう。人という物は、いつどのような形で命を落とすかわからんからのぉ。そしてそれこそが、お主がワシと直接会うことを決めた理由じゃと、ワシは睨んでおる」
不敵――その表現がぴったりという笑顔を見せ、下駄の男は睨みつける。
「不愉快ですね。あなたは全て知っているというその態度、どれほど齢を重ねようが所詮人は人。あなた一人が知り得る真理など、取るに足りないのだと知るべきですよ。僕は知っている。この先に何があるのかを。あなたにはわからないでしょう。それなりの力をそれなりにしか扱えないあなたには限界がある。あなたは恐れている。自分が制御できないほどの強大な力に対して、己の存在の矮小さがついていけていないのですよ。それだけの力をお持ちなのに、まったく残念ですよ」
不敬――その表現がしっくりと来るような笑みを浮かべ、青白い男は蔑んだ。
「大事の前の小事か。そして大義親を滅すというわけか。お主は親も兄弟も犠牲にして、いったい何をなそうというのか。いや、犠牲にしたからこそ、何かをしなければならないと思っているのかのぉ」
「ふざけるな!」
挑発と怒号。ついに均衡が崩れ出した。
「若さよのぉ。目的のためには手段を選ばずか。お主がここまで何を失い、何を得たのか。その結果があっての今、そして失ったものを取り戻すためなら、得たものすべてを懸けてもいいというわけじゃな。それはウロボロスの輪じゃぞ」
青白い男は自分が動揺していることを自覚しながら、下駄の男の言葉を無視することができずにいた。
「どんな生き物も、天敵からは逃げるものよ。それは恥ではない。逃げ延びてこそ勝者。自然の摂理とはそういうものじゃ。それに逆らうのはこの世界に人間しかおらん。人間らしくあることは、生きることにあらず。その死にざまにこそ意味を見出すというのは、それはそれで覚悟としてはりっぱなことじゃが、そこにはいくつもの落とし穴がある。一歩踏み外せば人の道から外れる。すなわちこれ、外道」
一歩。下駄の男は前に出る。
「うん? これは……」
雨でぬかるんだ地面から黒い糸状の物体が一歩踏み出した下駄の男の左足に絡みついている。
「女の髪じゃと」
地面から無数に生えた女の長い髪が生き物のように下駄の男の足にらせん状に巻きついてきつく締め上げる
「くぅぅ」
苦痛で下駄の男の顔が歪み、身体のバランスを崩す。巻きついた髪の毛の隙間から下駄の男の血がにじみ出ている。その様子を青白い男が不敵な笑みを浮かべながら眺めている。
形勢逆転である。
「さぁ、どうする。そのままだと底なしの沼の中に引きずり込まれてしまいますよ」
絡みついた髪の毛はものすごい力で下駄の男の足を地面に引きずりこもうとしている。下駄はすでにぬかるんだ地面に沈みこみ、そこを中心に直径50センチほどの水たまりができている。
「これほどのものとはのぉ」
下駄の男の禿げ上がった頭から湯気が立ち上る。汗がしずくとなって頬を伝わり、顎から落ちる。
「助けてあげないこともない。もちろん、助けるとは限らない。助かるとも限らない。それでも一生懸命に命乞いをすれば、僕は手を差し伸べるかもしれない」
軽蔑。
下駄の男は、悦に浸る青白い男に一瞥をくれると、持っていた傘を正面に向けて持ち、自分の上半身を青白い男から隠した。くるっと一回時計回りに傘を回す。今度は逆方向に2回、傘が回る。
「なんの真似だ。尾上弥太郎、悪あがきはよせ!」
「それはお主のことじゃよ。狩野紫明」
後ろ――あらぬ方向から下駄の男の声がした。
狩野紫明は思わず振り返った。その瞬間、狩野紫明の視界が闇に覆われた。
「しまった。これは」
狩野紫明には見えていない。暗い闇。しかし、彼には黒髪が自分の手足に巻き付いて自由を奪い、さらに顔の目の部分だけ髪の毛が巻き付き、視界を奪っている様子が脳裏に浮かんでいた。
「ほぉ、これは、これは、見事に決まったのぉ。一度やってみたかったんじゃい」
声は聞こえる。前からなのか、後ろからなのか、耳元からなのか、頭の上からなのか、まるで見当がつかない。
「尾上弥太郎、貴様、図ったなぁ!」
狩野紫明は前も観ず、振り向かず、天を仰がず、地面に向かって怒号を浴びせた。はぁはぁと息を荒げながら、必死で何が起きたのかを考え、そしてどうにかしてこの窮地から逃れようともがいた。
いったい何が起こった。
なんだ。
何をされた。
俺の仕込んだ符術は完璧だった。奴は仕掛けた罠を左足で踏んだ。術は発動し、奴は女の髪の毛に足を絡み取られ、地面に引きずり込まれる幻覚を見ていたはずだ。実際奴は幻術の影響を受けて左足から血を流していたじゃないか。あの状態から逃れる術はないはずだ。
傘。
そうだ、奴は傘を回し出した。
時計回りに1回まわした。
そして逆回りに……1回、いや2回まわした。
時計と逆回りに2回?
「陰陽師に古くから伝わる技じゃ。奇門遁甲の法を用い、術の攻撃対象をワシからお主に変えたのじゃ。人を呪わば穴二つじゃよ」
狩野紫明は強烈な敗北感に耐えながら状況を打開する術を考えた。
傘だと……。
狩野紫明は全身の力を抜き、もがくことを止めた。
「僕の、傘……」
狩野紫明は左手に意識を集中し、こわばって動かなくなっていた左手の指さきの一つ一つの感触を確かめた。
「そういうことか」
狩野紫明の左手の力を抜き、その手に握っているものを手放した。
「ほぉ、自力で解いたかよ」
狩野紫明の視界を遮っていたもの。それは女の髪の毛ではなく、自分の傘だったのである。
「なるほど、あの方が一目置くだけのことはあるということか。下駄の男――尾上弥太郎」
狩野紫明の素顔が晒された。それは普通の、酷く疲れた青年の顔であった。
「紫明! 傘を取れ!」
沼地を囲む茂みの中から男の声がする。その声に反応し、慌てて傘を拾おうとした狩野紫明の額に赤い光る点が見える。
「なんじゃと!」
雨が、また降りだした。




