第5話 雨の公園
とあるマンションの一室。夏だというのに室内はひんやりとしている。それはオアシスのような心地の良さとは真逆の、生モノの腐敗を防ぐために温度管理がされている冷たい空間である。部屋は薄暗く、大きな水槽を照らす照明によって、水槽の中の色鮮やかな熱帯魚が、まるで部屋の中を泳いでいるかのような幻想的な情景を生み出している。
「あの男、誘っているな」
狩野紫明は、下駄の男が笠井町海浜公園にある水族館に現れたことを察知していた。
「術符を餌用のイワシの体内に忍ばせておくことで、ちょっとした監視カメラの代わりにはなるが、やはり魚となると、なかなか思うようにはいかないものだ。まぁ、いい。今回の実験は成功と言えるだろう」
狩野紫明は分厚いカーテンの隙間から外の様子を眺める。雨であることはネットニュースを見て確認済みであるが、雨雲の様子からしばらく雨が続くことを確信し、身支度を始めた。狩野紫明は武井と連絡を取り、これから下駄の男に会いに行くことを告げた。
「別に殺してしまおうとか、病院送りにするとか、そういう物騒なことではないですよ。こちらが上だということをわからせれば、向こうも手を引くでしょう。こちらには、こちらのルールという物があります。そういうことを弁えていない男だとは思えませんから」
狩野紫明は机の引き出しから紫色の布に包んだものを取り出し、丁寧に包みを開けた。そこには白い紙に墨で書かれた文字が躍っている。それは文字でありながら紙の上を這う毒虫のようにうごめいているように見える。
電話口では武井が車を回す手配をしながら後藤刑事について注意を促した。
「後藤刑事という男、あまり侮らないほうがいい。奴は切れる。そして目的に対して真っ直ぐだ。そういうやつは土壇場に強い。下駄の男と行動をともにしている可能性を考慮に入れた方がいい」
狩野紫明は一枚一枚符を確認し終えると再び紫色の布に包み、白いスーツの内ポケットに仕舞い込んだ。そして武井の忠告に対して大丈夫と答えた。
「もし後藤刑事が私の背後を突くというのであれば、こちらにも相応しい見方が必要ですが、それに関して私は何も心配はしていないんですよ。私に対して日本の法律は無力です。法律が無力な以上、警察官ごときがたとえ拳銃を持っていようともそれを私に突きつけることはできません。そういうことができるのは、もっと別の組織、そう、あなた方のような法律の外で動くような人たちということになります。その意味ではむしろ後藤刑事が後ろにいたほうが、私にとっては都合がいい、ということになります」
武井は狩野紫明の話を聞いて、いよいよこの男が追い詰められているのだと感じた。つまりそういう心の準備が必要なほど、狩野紫明の立場は危ういということなのであろう。
呪詛を利用しての要人の暗殺。そのような常軌を逸した仕事といえども、しくじれば自分たちと同じ闇の掟に従わなければならない。法の加護などあってないようなものである。それをわかって、背中をとられるのであれば後藤のほうがいいとこの男は言っているのである。相手がもし、狩野紫明と同じ側、"能力者"であり、同じ側の人間というのであれば、けじめのつけ方も違ってくるのだろう。問題は後藤刑事という向こう側の人間にその存在――決して知られてはならない暗躍を、証拠はないにしても知られてしまっているのである。それでは、呪詛という特殊な方法であろうが、銃による暗殺だろうが変わりはない。暗殺とは誰が誰のために行ったのかが知れてしまっては、意味がない。もちろん見せしめで"公開処刑"をすることもあるが、今回のミッションは誰にも知られることなく、自己として扱われるような暗殺でなければならなかったはずである。
「さて、支度が整いました。笠井町臨海公園に向かいましょう」
武井も動き出した。護衛を命じられている狩野紫明にもしものことがあれば、詰め腹を切らされるのは自分である。或いはそういうシナリオがすでに動き出しているのかもしれないと武井は思った。そして同時にそれによって自分は試されているのだと確信していた。
「さて、次の試合の権利を得られるのは、いったい誰と誰なのか」
武井は数日前から信頼できる部下に加賀組の動きを見張るように指示を出していた。今のところ目だった動きはないが、狩野紫明が移動したあとのリアクションがあるかもしれない。武井は特製の仕込み傘を用意した。そして狩野紫明から預かった術符を上着の内ポケットにしまった。
「われながら、どうも滑稽だがしかたあるまい。郷に入れば郷に従え、或いは朱に交われば赤くなるといったところか」
12時を回った頃、鳴門刑事はバックミラー越しにタクシーから降り、大きなこうもり傘をさして公園に入っていく男の姿を捉えていた。
「後藤さん、大きなこうもり傘をさした怪しい男が、今タクシーを降りて公園に入っていきました。顔はよく見えません。故意に隠しているように思われます」
「わかった。鳴門、お前はそのまま公園の入り口付近を見張っていてくれ。たぶんお客さんは奴だけではないはずだ」
後藤の指示を受けて鳴門刑事は付近への警戒を強めた。その様子を物陰から武井が見つめている。武井は部下に指示を出して車を入り口そば回させ、二人の男をおろさせた。一人を駐車場へ、もう一人を公園の正門に配置し、人を探すようなしぐさを何度となく繰り返えさせた。鳴門刑事の注意がその二人に向いている隙に、武井はまんまと鳴門刑事に気づかれることなく公園の中に侵入を果たした。
役者はそろった。雨の降る笠井町臨海公園の中、通称下駄の男と呼ばれる拝み屋 尾上弥太郎、笠井町南警察 組織犯罪対策部の切れ者――後藤刑事、闇の符術師 狩野紫明、白鷺組 組長代行 武井徹の4人の男は数日前、変死体が発見された野鳥園エリアへと向かっていた。
「ずいぶんとにぎやかになってきたわね。あまり派手にやられても困るのだけれども」
そしてもう1人、4人の男の動向を見守る少女の姿――その少女はまるでフランス人形のような透き通った白い肌をしていたが、髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としていた。目はパッチリとしているが、瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしていた。その少女の存在に気づく者は、誰もいなかった。




