第11話 少女と猫
月明かりの中、荒川の土手近く。一人の少女が夜空を恨めしそうに眺めていた。
「闇がざわついているわね。星たちがおびえている。こんなに狂おしい月を見せられたら、正気ではいられないはね」
少女の肌は白く透き通っているが、月の明かりが体にまとわりついて、青白く輝いている。その様は見るものの心を奪い、思考を停止させる。一瞬のうちに精気を吸い取られ、魂の抜け殻にされてしまう。夜風に揺れる黒髪は、まるで生き物のようでもあった。
「でも、それだけではないようね。やはり闇の力があの場所に集まっているからかしら。それも違うわね。あれは集まっているというよりも、増幅されているって感じかしらね」
少女の視線の先には闇夜を貫くように灰色の鉄の塊が聳え立っている。
「おぞましき闇の塔……、それにしてもスカイツリーとはよく言ったものね。あの木にはどれだけの闇に堕ちた魂が吊るされているのかしら。考えただけでも鳥肌ものね」
少女の眼に映るものは、人のそれとは違っているようだった。もし少女が見ているものを常人が共有したとしたら、おそらく正気ではいられなくなるだろう。
その色彩も、その姿も、常軌を逸した禍々しき様相。見る者にとって、もっとも不快で、不純で、不埒で、すべての調和を乱し、すべての調整を不能にし、すべての調律を狂わす。抗うことのできない狂気をまとう凶器。狂人の悦を増幅させる狂喜。それが闇の塔の真の姿である。
「まだまだ、影響は少ないようだけれど、時間の問題ね。でも、それは私のあずかり知るところではないわね。私は私の探し物を見つけ、闇の声に耳を傾け、闇の深遠を覗き込み、その願いを叶えるだけ。でも、こうも闇が淀んでしまっては、それを見つけることも、耳にすることも難しそうね。困ったものだわ」
困ったといいながら、少女の表情には少しの迷いもないようだった。あるがままを受け入れ、意のままに己を律し、揺らぐことがない。流転の世界にあって、彼女の芯は、真球の中心を貫いている。
「こんな夜には動かない方がいいのだけれど、どうしたものかしら」
誰に語りかけるでもなく、自分に言い聞かせるのでもなく、それでもその言葉は、湖面にできた波紋が広がるように少女にまとわりつくひどく淀んだ空気を浄化させていった。
「にゃーおん」
少女の足元に一匹の猫が座り、少女の顔を見上げていた。
「まぁ、あなたすごいわね。いつのまに現れたのかしら。いや、違うわね。私があなたの縄張りに踏み入ってしまったようね」
「おーん」
言葉を解したというよりは、気が合ったという間合いで猫が答える。
「わかるわ。あなた、ここでずっと見守っているのね。いえ、見張っていると言った方がいいのかしら。あなたにも見えるのね。あの禍々しい塔が」
少女は腰を下ろし、猫と同じ目線になるよう顔を近づけた。
「あなた面白いわね」
それは黒い毛と白い毛がバランスよく生えた、一見どこにでもいそうな野良猫だが、この猫を正面から見て、その異常さに気づく。顔の模様が白と黒、左右にきっちりと分かれているのである。
「私とおなじ匂いがするわね。どうやら同じようなものを見てきたみたいね」
臭い――それは死者の臭い。死臭である。
「どうやらあなたにもいろいろと事情があるようね」
その猫は団十郎と呼ばれていたが、少女の知るところではない。団十郎は相手を見定め、満足をしたのかその場を立ち去ろうと数歩少女から離れたところで不意に立ち止まった。団十郎の尾が何倍にも太くなり、敵を威嚇する大勢を取った。
「招かれざる客が居るようね。大丈夫。あれはあなたのお客さんではなさそうよ。どうやら私に用事があるみたいね」
団十郎の警戒する方角に人の姿はない。あるのは人の腰の高さを程植え込みである。荒川土手沿いの遊歩道の周りにある植え込みの一部がかすかに揺らいだ。そして闇の中に二つの光が現れる。獣の目。
「困ったものね。確かに最初に覗き見をしたのは私かもしれないけれど、『か弱い少女』を覗き見るなんて万死に値するわね」
団十郎を刺激しないようにゆっくりと少女は立ち上がり、そして団十郎の警戒網に踏み込まぬよう迂回しながらその植え込みに向かって優雅に歩き出した。
「卑劣ね。そして無慈悲で、傲慢。狡猾にして執拗。とてもお友達にはなれないタイプね。もちろん敵にもしたくないのだけれど」
少女は歩きながら右手の人差し指をそっと口元に寄せて何か呪文のようなものを唱えた。少女の姿が消えた。植え込みの中の二つの光は、少女の姿を探してあたりを見回す。
どこにも 少女の 姿は 見えない
居ないのではない。見えないのだ。
獣の目は、見えないものを見ようと見ることに意識を集中する。本当に獣であれば、匂いや音や気配で相手を探すこともできるが、その獣は見ることしかできない。見ることしか許されていない獣であった。
「ひどいものだわ。こんなことができるなんて、いったいどれだけの闇を抱えているというの」
不意に視界が遮られる。それは闇。深い、深い闇。闇の中に金色に光るものが見える。さっきまで黒々としていた髪の毛が月明かりに金色に輝いていた。まるで別人のようであった。
「金髪にかわった」
狩野紫明は、成果が上がらないことに一瞬腹を立てたが、次の瞬間には卑屈な笑い声を上げながら、激しくテーブルを叩いた。
「くっ、くっ、くっ、くっ、下駄の男に金髪の魔女か。面白いじゃないか。これも闇の塔の導きなのか」
一匹の猫の死骸。
その眼はくりぬかれガラス玉が仕込んである。
「これは東洋に古くから伝わる呪法ね。いいえ。外法ね」
「うぉーん、うぉーん」
団十郎がそばに寄ってきた。先ほどはなっていた殺気はもうない。それどころか、もの悲しく、切ない声で鳴いている。
「あなたのお知り合い? 残念だけれど、どうすることもできないの。この子に罪はないというのにね」
団十郎は仲間の死を確認し、そして自らの役割を果たさんと、再び闇の塔を見上げた。
「あなたはあなたの役目を果たしなさいな。私は私の役目を果たすわ。そして約束する。こんなことはもうさせないと、あなたに約束するわ」
雲が流れ、月を覆い隠す。少女の髪の毛は光を失い、闇に溶け込んでいった。
翌朝、一人の中年女性が、いつものように散歩に訪れると、見慣れない少女が声を掛けてきた。
「実はお願いがあります。この子を、手厚く葬ってやってはくれませんか。昨日の夜、見つけたのですけれど、わたし、どうしたらわからなくて」
少女は遊歩道の植え込みに彼女を案内し、そこには一匹の黒い猫の死骸が横たわっていた。
「まぁ、この子は……、最近見かけないから心配していたのよ。まぁ、まぁ、なんてこと」
その猫は、このあたりに住み着いている野良猫で、人懐っこい黒猫であった。人は黒ちゃんと呼んだり、クロと呼んだりして、その猫を可愛がっていたそうだ。とくに外傷はなく、むしろきれいに身なりが整えられていたという。目を閉じた猫の表情は安らかで、そのあと、彼女の手によって手厚く葬られることになった。
彼女に声をかけた少女はまるでフランス人形のような、透き通った白い肌をしていたが、髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としていた。目はパッチリとしているが、瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしていた。まるで昼間に見える月のように儚げであったという。




