第8話 蝉時雨
下駄の男――尾上弥太郎と別れた後藤と鳴門刑事は、笠井稲荷神社をあとにした。途中、坂口由紀子の姉、坂口浩子の遺体が発見された公園に立ち寄った。
古池公園は、小さな動物園と噴水や水遊びができるエリアがある比較的大きな公園である。妹の由紀子が発見された笠井町海浜公園の半分ほどの敷地面積だが、それでもソフトボールなら4面使えるグランド、ヘラブナ釣りを楽しめる池、春には桜の木のある広場は家族ずれで賑わうなど、公園というレベルよりも総合広場といった場所である。広い敷地だけに死角もある。夜になれば人目のつかないエリアも通常の公園よりもはるかに多く、広い。
「昼間でもこのあたりは薄気味悪いですね」
鳴門刑事は手を合わせたあと、ぼそりといった。そこは坂口浩子という当時26歳のOLが遺体で発見された場所である。蝉がけたたましく鳴いている。
アブラゼミ、クマゼミ、ミンミンゼミ
「蝉は土の中で7年近く過ごすらしいが、このあたりの蝉は坂口浩子の遺体と、その怨念と一緒にいたわけだ。考えるだけで寒気がしてくるな」
「いやなこと言わないでくださいよ。まるで蝉の鳴き声が……」
「権田には……、あの男にはどんなふうに聞こえたんだろうな。この蝉の鳴き声が」
鳴門刑事は目の前の木の幹に留まる蝉の姿を見て、とてつもなく嫌な想像をし、思わず目がくらみそうに立った。
蝉時雨
後藤は思い浮かべた。子供のころ、麦わら帽子に短パン、ランニング。虫かごを肩からかけ、虫取り網がそよ風に揺れている。太い幹をした銀杏の木の上の方に蝉を見つける。背伸びをしたり、跳ねあがってみたりしても、どうにも届かない。ふと後ろから野太い声が聞こえる。
「どら、坊主、手伝ってやろうか」
振り向く間もなく、大きな手が両の脇の下に滑り込む。固く、大きなその手の感触はくすぐったいよりもむしろ痛いくらいだった。
ふわっと、体が浮き、血液が頭の先から足の先の方に移動するようないやな感覚に背筋がぞっとする。しかしそれには、ジェットコースターに乗っているようなわくわく感があった。
「そら、これで届くだろう」
虫取り網を蝉の留まっている場所へ静かに、それでいて素早く振る。
ジジジジジ、ジジジジジ、ギギギギギ、ギギギギギ
「摂れた!」
「よくやったぞ、坊主」
次の瞬間自分の足は地面についていた。
「ありがとう! おじさん」
振り向くとそこには大きな影があった。逆光で顔がよく見えなかったが、それがすぐに警察官であることは、シルエットだけで十分にわかった。
「一人か? 坊主」
「うん」
「そうか。このあたりはたまに子供に悪さをする大人が現れるらしい。あまり一人で遅い時間までいたらだめだぞ」
「わかった! ありがとう」
「あぁ、じゃあな、坊主」
蝉の鳴き声が雨のように降り注ぐ中、大きな警官の後ろ姿が、少年にはとてもまぶしく見えた。
「後藤さん?」
「あっ、ああ、すまん。ちょっと昔のことを思い出していてなぁ」
「昔のこと? なんです、それ?」
後藤はその場にしゃがみ込み、小枝を拾って落ち葉をひっくり返し始めた。
「古い話さ。そんなことより、このあたりを捜査して、何かめぼしいものは出たりしていないのか」
「遺体が埋められてから何年もたちますし、実際身元を証明するような遺品は何一つ見つかっていません。もし、遺体だけが見つかったのでしたら、身元が割れることはなかったかもしれませんね」
「いや、そういう類の物じゃなくて、ほら、なんていったか、呪いごとに使うような……」
「はい、特に不審なものは記録されていません」
「ふむ……」
「何か気になることでもあるんですか?」
鳴門刑事は手帳をしまい、後藤の横にしゃがみ込んだ。
「まぁ、鑑識に何かの儀式をしたような跡はなかったかと 聴くわけにもいかんか」
「なにか見落としているものがあると?」
「わからん。わからんから来てみたが、やはりわからんな」
「どうします? もう少し調べますか?」
後藤は立ち上がり、持っていた小枝を放り投げた。
「いや、今日はもういい」
鳴門刑事も立ち上がる。
「今日は……ですか」
「あぁ、そうだ。気になるときっていうのは、たいがい何かあるものさ。帰るぞ」
「はい」
後藤と鳴門刑事は車の留めてある公園の駐車場に向かって歩き出した。後藤刑事は何度か後ろを振り返る。どうにも誰かに見られているような気配がする。
「なぁ、鳴門、何か妙な気配を感じないか?」
「気配……ですか? あいにく僕には何も」
「そうか……」
いや、見られている。
後藤は足を止め、あたりを見回す。するとそこにあるものを見つけた。猫である。
「野良猫か……」
その猫は白と黒の毛の混じった猫に見えたが、すぐに木陰に隠れてしまった。間違いなくさっきまでこちらを見ていたに違いない。
「昔から猫は苦手でな」
「あっ、後藤さん犬派なんですか? 僕はどっちかっていうと猫派です」
「ふん、あんな薄気味の悪い生き物のどこがいいんだ」
「うっ、うわぁ、とても人とは思えない発言ですよ、今のは。僕の前ではともかく、女の子の前では言わない方がいいですよ」
「言ってろ!」
ヤーオ
猫が低く唸る。その猫の目は、猫のそれとは違っていた。その眼は人の目、狩野紫明の眼であった。
「勘のいい男だな。あの後藤という男……」
ひどく青白い顔をした男は、卑屈に笑い、そして椅子の背もたれに深く身をうずめた。
「しかし、網にかけたいのは奴らじゃない。警察にはしょせん、何もできやしない」
薄暗い部屋。夏だというのに吐く息が白くなるのではないかというくらい冷房が効いている。大きな水槽が青白く光り、その中にあまり見かけない魚がゆったりと泳いでいる。観賞用の大型の外来魚である。
「まぁいい。何も問題はない。餌に食いつくのを待つだけだ」
狩野紫明は静かに目をつむり、微動だにしない。
それはまるで美しい死体のようであった。




