第1話 笠井町の朝
夜が明ける。
朝が来る。
街が動き出す。
人の営みは様々である。
笠井町は眠らない。丸の内まで15分。1日の平均乗降客数は10万人に上る。主要な商業施設、銀行、大手スーパー、家電量販店がそろい、学校や医療施設、公民館などの公共施設も充実している。公園や緑道など緑も多く、比較的道路も広く整備されている。駅周辺には主要な飲食チェーン店がそろい、街角という街角にコンビニエンスストアがある。
昼間は学生やサラリーマン、主婦などでにぎわい、夜になればキャバクラの客引きが路上にあふれる。深夜遅くまで営業している店も多く、タクシー乗り場は、人が絶えることがない。昼間働き、一時の夜の快楽をたしなみ眠りにつく者にも、そういった客の相手をし、明け方近くに一仕事終える者にも、夜が明け、朝がくる。
男にも、女にも。
若者にも、年寄りにも。
生者にも、死者にも。
第一発見者は、近所に住む72歳の男性であった。発見した場所は笠井町海浜公園の野鳥園。午前7時30分ごろ、いつも通り犬を連れて朝の散歩に来たその男性は、次のように語っている。
「いつも大体同じ時間に、このあたりを……、ジローを連れて散歩に来るんです。私と同じ老犬です。少々のことでは唸ったり、吠えたり、ましてや私の言うことを聞かずに走りだすなんてことは、ないんですけどね。今朝に限って、妙に興奮して……。急に草むらに向かって唸り声をあげて、しまいには吠えだしたんです。どうしたのかとびっくりした私を、ジローはリードを強く引っ張って草むらの方にいこうとしたんです。これはおかしいと、仕方がなく、ジローが向かう方向についていくことにしました。そこは、いままでまったく気づかなかったんですが、ちょっと中に入ってみると、獣道というか、人が通りやすい道になっていまして、難なく野鳥園の水辺の近くまで行けたんです。そしたらあんな恐ろしいものを見つけてしまって……すぐに女性だと気づきました。髪の毛が長かったので……。その場ですぐに警察に電話をすればよかったんですが、気が動転してしまって、まずは家内に相談しなければと、家に電話したんです。そしたら家内が言うには――」
警察に通報が来たのは8時20分を回ってからだった。その男性の妻は、はたしてそれが本当に女性の死体であるのか、その男性に確かめさせたのである。誰かのいたずらかもしれない。そんなことで世間様を騒がすわけにはいけないと、嫌がる男性を無理やりに遺体のそばまで行かせ、遺体の状態を確認させたそうだ。すぐに間違いなく人の腐乱死体であることは確認できたのだが、あまりの恐ろしさに腰をぬかしてしまい、携帯電話を遺体のそばに落とし、家まで逃げ帰った。そこでようやく妻が警察に電話をしたのだった。
警察はすぐに現場に急行し、笠井町の朝はいつになく、あわただしいものになった。しかしその中にあって、後藤刑事と鳴門刑事は冷静にことにあたっていた。なぜなら二人は事前にこの情報を独自のルートから入手していたのである。しかし自ら動くことはできない。それぞれに役割というものがあり、権限が定められている。現時点で本件は、後藤の管轄ではなかった。
「できれば、遺体発見現場に行きたいところだが、そういうわけにもいかんしなぁ」
「そうですね。だいたい、僕らがどうしてこの情報を掴んでいたのかを署内で明らかにするわけにもいきませんしね」
鳴門刑事は、後藤のデスクの上に書類を置くふりをしながら小声で話をした。
「つまり第一発見者が別にいるわけですからね」
後藤はいつになく不機嫌な顔をしながら鳴門刑事を見上げる。後藤は背もたれ一杯に寄り掛かり天井を見つめている。向けポケットから携帯電話を取り出し、夜中に届いたメールを読み替えした。それはあるURLを指示したものである。そこをクリックするが、すでにリンク切れをしている。記事が削除されている。
「データは取ってあるのか? そのぉ、俺はどうもこういうのは苦手でなぁ」
「ああ、それなら大丈夫です。僕のプライベートの端末で保存してありますから問題はありません。一応USBメモリーにコピーして持ってきています。車の中でお見せします」
「まぁ、見識の結果とその画像を観れば、より本当の発見時点での現場の状態がわかるから、俺らがいかなくても今はいいが、やはりこの目で見ないとなぁ」
二人には署内に開示できない共通の秘密を抱えていた。開示できないというのは秘密を秘密として守りたくて故意に開示できない場合と、真実を警察に報告いても理解を得られないという場合がある。この場合、そのどちらも当てはまり、前者の部分ではこの件に限らず、現場の刑事には情報の独自ルートというものが存在する。鳴門刑事にはともかく、後藤には一つや二つではない。
しかし、後者の部分において、後藤はひどく腹を立てていた。そういうことは今までに経験がなかった。
「忌々しい、あの男、下駄の男が、好き勝手やりやがって」
そういいながらも後藤は下駄の男を信用していたし、実際今では頼りにしているところもある。そのことが、後藤をさらに不機嫌にさせていた。
「しかし、まぁ、こうやって僕らにいの一番で知らせてくれたわけですし……」
「ちぃっ!」
下駄の男との連絡は、鳴門刑事に頼るしかなかった。下駄の男はネットやモバイル端末を巧みに使いこなし、自らの痕跡を残すことがない。後藤は携帯電話を電話として以外使うことはめったにない。できないのだ。その部分では鳴門刑事に頼るしかない。この際はそのことを含めて後藤は不機嫌にならざるを得ないのである。
「結局待つしかないわけか。気に入らんなぁ」
「まぁ、待ちましょうよ。おそらくそれほど時間はかからないと思いますから」
「ふん!」
鳴門刑事の言葉は、そのあとすぐに立証されることになる。