第8話 休日の午後。
十一時までたっぷり九時間寝ても、身体はだるかった。目覚める前に、生きている頃の中崎くんの夢を見たからだ。
『何かこの辺臭くねえか?』
『お兄ちゃまがいるからだろ』
『そっかー、目障りだよなあ』
そんなことをクラスメイトが言う度、中崎くんの背中は小さくなってゆく。私の目に焼き付けられた記憶が、ビデオテープのように再生された形があの夢なのだ。
少し散らかった勉強机を見て、英語のノートがきれていたことを思い出した。古臭いタンスの中から適当に服を選んで着替える。家の近くには文房具屋というものがない。コンビニに行けば売っているが、気分転換も兼ねて高校の近くのジャスコまで買いに行こうと考えた。髪の毛は少々はねているが別に友達と会うわけでもない、くしでとかすだけにした。
「ノート買いにジャスコ行ってくる」
台所に立つお母さんに声をかけた。
「あら、じゃあお母さんも一緒に行こうかな」
「ついて来ないでいい!」
靴箱からサンダルを出し足を入れると、私は家を出て行った。本当は、一人で買い物をするのはあまり好きじゃない。話し相手がいないと、店内を歩くときに挙動不審になってしまうのだ。だから、ジャスコの中に入ると文房具屋に直行し前に使っていたものと同じノートを手にとってさっさと支払いを済ませた。とはいっても、ここまで来ておいてすぐに帰ってしまうのもなんだかなあ。そう思い、小物の売っているお店をぶらつくことにする。
可愛いアクセサリーやペンなんかが並んだ小さな店内。私は買う気もないのにカチューシャを手にとってみたりした。そして隣の通路に移ろうとしたとき、すぐ先に知っている顔があった。化粧はいつもより濃いが、分かるに決まっている。
「美咲ー、これ彼氏に買ってあげれば?」
「ヤだよ、恥ずかしいもん」
心臓が速い鼓動を打つ。一緒にいるのは卓球部員の女の子だ。お洒落が大好きで派手な、私と正反対の子。幸いにもまだ見つかっていないらしい、私は急いでその店を出た。
もう他のところをぶらぶらする気にもならない、今は、外の空気に当たりたい。ジャスコを出ると駐車場の側にある自動販売機でコーラを買い、隣のベンチに腰掛けた。そこは運良く誰もいなく、更に日陰になっていて、それほど暑くない。快適空間だ。
美咲と一緒に遊ぶのは、私ではなく他の女の子なんだこれからも。そのことに今更ながらもショックを受けた。先ほど見た光景が頭から離れない。彼氏、という言葉がよみがえる。いつの間にか恋人までいたなんて。私の知らないところで美咲はどんどん新しいことを経験してゆくんだ。コーラを一気に飲むと炭酸のせいで涙が出てきた。もう、このまま大泣きしてしまいたい。
ポケットティッシュで鼻をかんでいると、「月岡さん?」という声が頭の上で聞こえた。まさかと思い顔を上げると……やっぱり。
「中崎先輩、ですか」
私服だから部活のときとは違う雰囲気だ。知っている人に会ってしまうなら、もう少しマシな服を着てくればよかったと後悔する。先輩が何も言ってくれないために思わず立ち上がると、
「いいよ、座ってて」
と妙に優しい声で言われたので、私はまた腰を下ろす。
「泣いてる」
さらりと言われた。私は意地を張って、
「泣いてません」
「目尻に涙溜まってる」
私はティッシュで目をこすった。
「コーラの炭酸のせいです」
嘘ではない。それだけが原因とは言えないけれど。
「それも、あるだろうな」
見透かされている、と思った。中崎先輩はズボンのポケットからがま口の財布を取り出し、自動販売機に小銭を入れていった。ボタンを押して腰を折り、出口に手を突っ込む。そんな一つ一つの行動が私の目に止まった。こうやって見ると、中崎くんと似ている気がしないでもない。
「隣、座るよ」
手には今買ったジュースが握られている。返事を返さないうちに先輩は約一人分のスペースを空けて座った。プシュっと缶を開ける音が響く。私は両手で抱えたコーラの缶に視線を落とした。
「ほらよ」
ぶら下げていた袋から、ビスケットの入った箱が出てきた。既に開封してある。遠慮がちに一つつまんで口に入れると、上半分のホワイトチョコレートが溶けてゆき、濃厚な甘みが広がった。
「美味しい」
「だろ? 新発売なんだ、これ」
大きな手のひらに乗った箱がぐらりと揺れる。何の用か、私はまだ訊けずにいた。大体予想はついている。というか、中崎先輩と話すことは一つしかない。
「中崎……弘樹くんのことですか」
しかしビスケットを噛み砕いていた先輩は、さも意外だというような表情になる。
「別に、そういうわけじゃない」
「じゃあ、話すことはありません」
口に出してみるとそれは思ったよりきつい言葉に聞こえ、私は慌てた。何か付け足そうにも言葉が出てこない。買い物袋を提げる女の人が私達の前を通り過ぎた。
「いや、あるさ」
「え?」
「悩みって、あるか」
これは、何を意図した質問なのだろう。私の考えを読み取ったように、先輩がすかさず弁解する。
「別に、弘樹のこととは関係ない。ただ、何かあるんじゃないか。もしかしたら、部活のこととかで」
ぎくりとした。そんなに私、分かりやすい顔をしているのだろうか。
「どうしてそう思うんですか」
「覚えてないと思うんだけど、以前一度だけ月岡さんとプレーしたことがあるんだよ。ほら、一年が入部してすぐに体育館で二、三年が相手したことあったじゃん。俺ともちょこっと打ち合ったんだけどさ。それで、休憩時間のとき一人でぽつんと他のある一人の部員のことを哀しそうな顔で見ていただろ。あの時はまだ打ち解けてないからだと思ったけど、今は仲の良い奴もいるみたいなのに、その部員のこと同じ表情で見てるからさ」
先輩は一気に喋る。私の見ていた部員、というのは他でもない、美咲だ。卒業アルバムに載っている写真と随分変わったから、先輩は気付いていないのだろう。
「その子が、田島美咲です」
もしかしたら言わなくても良かったかもしれない。しかし、心配してくれているというのに黙ったままでいるのは胸が痛んだ。
「え、あの人が」
「そうです」
「へえー、分からなかった。名前は試合表で見ただけだから。……随分と変わっちゃったんだな」
先輩は苦笑した。私もつられて笑う。
「友達じゃないのか?」
どうなんだろう。友達をやめたつもりはないのだけれど。私は曖昧に笑って見せた。すると中崎先輩は、
「そっか……」
と言ったきり口を閉じた。深刻そうな表情をしている。こういうのって、何か嫌だ。可哀想な人に見られている感じがする。同情なんてまっぴらだ。
「違うんです。別にそれほど友達だったわけじゃないし……」
口に出してみると余計に情けない感じになった。
「無理すんな」
先輩は微笑んだ。
「無理すんな、人間は皆弱いんだから」
目頭が熱くなってくる。油断したら駄目だ。こんな言葉に騙されるな。だって、中崎先輩は。
「弘樹くんのこと、お話します」
自然と口をついて出てきた。何故そんな気になったのだろう。もしかしたら、先輩の横顔が寂しそうだったからかもしれない。




