第5話 運命の、試合。
思ったより背が低く、華奢な体型をした中崎先輩は左手にラケットを持っている。左利きと試合をするのは初めてだ。少し緊張する。私はラケットを台に置き、体育館履きの紐をきつく縛る。先輩に向き直り、いつもの挨拶をしようとした時、
「もしかして、相田中学だった?」
「そうですけど……」
「そうか」
私のことを知っているのだろうか。続く言葉を待っていたが、中崎先輩はぼそっと挨拶を口にしただけだった。
試合が始まってすぐに、実力の違いに気付いた。男の先輩って、こんなにも力が強いんだ。どんどん向こうに点数が加算されてゆく。焦ると余計ミスが多くなり、ラケットを投げ出したくなった。こめかみを汗が流れる。ちらりと得点板に目をやると、十対三。後一点入れられたら、負ける。今日の試合は、夏の大会に出場するメンバーを決めるものでもあるのだ。私は大会に出たい。だから、なるべく負けたくないんだ。もし入らなかったらと思うとスマッシュも出来ない。私は今完全に守りの姿勢だ、飛んでくるボールをただ打ち返すだけ。一回くらいは負けても大丈夫かもしれない。しかし、それは私のプライドが許さなかった。
ラリーが続く。回転はかかっていない。いつスマッシュを打ってきてもおかしくなかった。ボールが台に当たる音が響く。段々、中崎先輩の打つボールの威力が増してきた。後輩相手にムキになっちゃって、少しは手を抜いてくれたっていいのに。先輩は色々な場所にボールを打つので、私は左右に動き回った。いい加減、息が切れてくる。その時、先輩がスマッシュを打ってきた。真っ直ぐ向かってくるボールに私は思わず目をつむる。後ろに下がり、ラケットを正面で構えた。バックハンドで受け止めてやる。
しかし次の瞬間、私は左目を押さえていた。橙色のボールが床をバウンドする。私はしゃがみ込んでいた。
「……ったー」
うっすらと目に涙が浮かんできた。審判をしていた女の子と中崎先輩が駆け寄ってくる。
「希里、大丈夫?」「ごめん、大丈夫か」
二人の声が重なる。
「大丈夫」
嘘だった。私の異変に気付いた部員が寄って来るのが片目からうかがえる。試合を始めようとしていた美咲も、こちらを何ともいえない顔で見つめていた。近寄ってきた部長が指示を出す。
「中崎くんは月岡さんを保健室に連れて行って」
「はい。立てるか?」
心配げな中崎先輩の声が頭に降りかかる。片手で左目を押さえたまま、卓球台に掴まって立ち上がり、私は先輩の後ろを付いていった。皆の声が遠ざかってゆく。緊張していた全身の筋肉がふっと緩んだ。私は中崎先輩の数歩後ろを歩く。もう涙は乾いているけれど、ボールが当たったほうの目がじんじんと脈をうっていた。
「ごめんな」
先輩が振り向いて言った。男の子、しかも先輩に謝られるのは何だかくすぐったい。私は笑って首を振る。
中崎先輩が保健室の扉を開けると、回転式の椅子に座った先生が振り向いた。事の次第を先輩が説明すると、椅子に座るよう促される。目を診せると、先生と私はいくつかの質疑応答をした。受け答えからそれほどの怪我ではないと判断したのか、先生は手慣れた動作でビニール袋に氷を入れて口を縛り、
「とりあえずそれで冷やしておきなさい」
と私に手渡した。そして少しベッドで休んでもいいから、と言い残し、先生は保健室を出ていった。
「じゃあベッドに横になる?」
ほのかに消毒液の匂いがする、しわ一つないベッドに横になるのは何だか気が引ける。
「体育館、戻っていいですよ」
こうやって側で立っていられるのでは気が休まらない。
「いや」
そう言って先輩は目を逸らし、机に置いてある本を手に取ったりしていた。
「でも、落ち着かないんで」
氷の入った袋はあまりにも冷たくて、押し付けていると感覚が麻痺してくる。私の心も麻痺し始めているのかもしれない。こんなこと、先輩に言えるなんて。
「訊きたいことがあるんだ」
先輩は真っ直ぐ私を見ていた。だから私も先輩の目を見据えて、
「何ですか」
と訊いた。
「中崎弘樹、って知っているよな」
「……知ってます」
「だよな」
忘れたくても忘れられないその名前。フルネームを漢字で書ける男の子は、後にも先にも中崎くんだけだ。そこから先は聞かないでも分かる。
「俺、弘樹の兄貴なんだ」
私は目をつむる。押し当てた袋の中の氷が、私の体温で溶けてきていた。明るい蛍光灯も、窓から刺す陽光も、今の私にとっては意味をなさない。
「……何で、私のこと知ってるんですか」
ゆっくりと目を開けながらかすれた声で訊いた。すぐ横に、中崎くんのお兄さんがいる。やはり、過去からは逃げられないのだろうか。先輩の視線を感じる。
「卒業アルバム」
私は深く息を吐いた。卒業後に卒業アルバムを見たのは一、二回だけだ。中学生だった頃を忘れるよう努力をしていたし、何よりも美咲の照れくさそうな笑顔の写真が否応なしに目に入ってきてしまうから。卒業アルバムのどのページにも中崎くんの個人写真は載っていない。修学旅行の集合写真に小さく写っているくらいだ。
「今日、試合表を見て気が付いた。あれもいるんだな。ほら、誰だっけ」
私の口から言わせるなんて残酷だ。中崎先輩は、私と彼女との間にあった出来事を知らないからだろうけど。
「……田島美咲、ですか」
「そう、その人。田島さんも卓球部だったんだな」
先輩は遠い眼差しをしている。私は何も言えなかった。ごめんなさいとでも謝った方がいいのだろうか。違う、とすぐさま思い直す。そんな簡単なことじゃないんだ。私は半分ほど溶けた氷の入った袋を目から離し、膝に手を置いた。
「なあ、弘樹のこと……嫌いだったか?」
中崎先輩の声は震えていた。だから私はなるべく先輩の方を見ないよう、こぶしを作った手に目を落として言った。
「嫌いじゃ、ありませんでした」
本当だった。ただ、私は弱かったのだ。昔も、今も、きっとこれからも。
「……そっか」
「私たちのせいで中崎くんは……」
受け止めてほしかった。違うよ、って言ってもらって心に焼き付けられた烙印を消してほしかった。結局、誰かに甘えたいんだ私は。
「それなら、何でもっと早く止めてくれなかった!」
机を叩く音がし、保健室に声が響いた。先輩の目尻から涙が一筋流れる。私は言葉に詰まった。唇が小刻みに震える。男の子の流す涙に衝撃を受けていた。中崎くんも、泣いたことがあったのだろうか? もう先輩と後輩なんて生ぬるい関係ではない。短絡的に言うならば、加害者と被害者の兄だ。
「もっと早く止めてくれてたら、弘樹は死なずに済んだんだ」
その通りだと、自分でも思う。