第24話 美咲。
ゆっくりと目を開けると朝日がまぶしかった。小鳥のさえずりが聞こえる。まだアラームは鳴っていない。私は目をこすると、むくりと起き上がって髪の毛を触った。昨日美容院に行き、肩辺りまで髪の毛を切ったから、頭が軽く感じる。短くしたのは中学生以来だった。寝付いたのは相変わらず遅かったが、熟睡していたのかもしれない、いつもと違って吐き気は感じなかった。
昨晩、私は夢を見た。美咲と中崎くんが登場してきて、学校で一緒に談笑していた。現実には有り得ないことだ。懐かしい中学三年生のときの教室だったが、美咲は現在の姿をしていた。茶色い髪に化粧、でもやっぱりその姿も私の見慣れた美咲なんだよね。中崎くんは変わっていなかったけれど、あんなに笑っている姿は初めて見た。思い出すと何だか温かい気持ちになり、思わず口元を緩めた。
ジリリリリ、とアラームが鳴ったので少しびっくりした。ボタンを押して止めると、私はベッドの上から元気良く飛び降りた。
リビングに行くと母は目を丸くした。
「あれ、希里いつもより起きるの早いね。どうしたの?」
「別にどうもしないけど」
「あ、そうだ。マーガリンきれているの。だから何食べる?」
「うーん……」
私は手を洗いながら考えた。
「じゃあ、おにぎり食べる」
「オッケー。お母さんが愛を込めて握ってあげるから」
「込めんでいい!」
椅子に座りしばらくすると、お皿に乗った二つのおにぎりと麦茶が運ばれてきた。私は麦茶を飲みながらおにぎりを食べた。ちょっと二つ目は寝起きなのできつかったが、塩加減が良くご飯も炊き立てで美味しかったので、食べることが出来た。お皿を流しに持っていき洗剤で洗っていると、
「自分で後片付けをするなんて珍しいじゃない。彼氏でも出来た?」
と馬鹿なことを言い出したので、私は肘で母の腹を突っついた。
学校に行くと、生徒玄関で山田さんに声をかけられた。
「希里ちゃん、髪切ったんだ」
山田さんとはもう口をきかないと決めたはずなのに、私は嬉しくなって、
「うん」
と答えた。いつかばったり出くわしたら、私から挨拶をしてみようとさえ思った。
教室に入るとグループの子たちが寄って来て第一声に言った。
「あれ、希里髪切ったんだ!」
「可愛いー」
「うんうん、似合ってる」
私は照れ臭くなった。
「そうかなあ」
「こっちの方が似合ってる」
などとみんなは言いながら私の髪の毛を触る。他人に髪の毛を触られるのは何だか心地よい。
「てか、もうすぐ夏休みだね。みんなでどっか行こうよ」
冗談好きが興奮気味に言った。言われなくてもみんなはそのつもりだろう。
「あったりまえ! 海とか行っちゃう?」
「あ、でもうちら部活あるよね」
ナツエが私の方を見た。
「あー、そうだった。でも一日も休みがないほど顧問も鬼じゃないと思うよ」
私が答える。
「そうだよね。楽しみー」
そのとき、いきなり後ろから声をかけられた。
「希里、髪切ったんだね」
あっちゃんと彼女のグループの子たちが立っていた。
「月岡さん短いほうが似合ってる」
そう言ったのはあまり会話を交わしたことのない子だ。私は嬉しくなって、
「ありがとう」
と笑顔で言った。
部室に行ってもクラスメイトとほぼ同じ言葉を言われた。
「あ、髪切ったんだ」
「うん」
「似合ってるじゃん。私も早く髪切りに行きたいなー」
「でも月岡さん、もったいなくない? 結構長かったのに」
と言った美咲の友達は、最近髪を切ったばかりだが気に入らず、早く伸びてほしいと他の部陰にこぼしていたのを小耳に挟んだことがある。そういえば、美咲の姿がない。他は全員揃っているのに。
「美咲ちゃんは?」
先にあっちゃんが訊いた。すると前に煙草を吸っていた部員が答える。
「ああ、美咲ならラケット取りについさっき来たよ。もう来ないと思うけど」
意味が分からなかった。確かに美咲のラケットケースは棚の中から消えている。
「どういうこと?」
と私が訊き返す。
「あれ、知らない? 美咲、今日で学校辞めたんだよ」
一瞬呼吸が止まった。部員が何か言う前に、私は部室を飛び出していた。
部員は『ついさっき』と言っていた。だから、もしかしたら間に合うかもしれない。生徒玄関に行くために二階まで上がって渡り廊下を走っている途中、部室に置いてきた通学バッグの中に自転車の鍵がしまってあることを思い出し、私は下唇を噛んだ。しかし取りに戻っていたら確実に間に合わない。美咲の家を知っているのだから、訪問すればいいことかもしれないが、私はそこまでする勇気なんてなく、それに、訪問してはいけないような気がしたのだ。そういえば美咲、大会のとき『最後になるかもしれないし』と言っていたではないか。どうしてあのとき気付かなかったのだろう。気付いたとしても私は何も出来ないけれど、せめてきちんとお別れの挨拶くらいはしたかった。いや、まだ諦めちゃいけない。人目も気にせず私は階段を駆け降りた。
やっと生徒玄関が見えてきた。私は息を切らしながら美咲のげた箱まで走り、中を覗くと何も入ってなかった。茶色いローファーも、体育の時間に使う黒いスニーカーも、綺麗な上履きも。まるで田島美咲なんていなかったかのように、そこは空っぽだった。私は自分の上履きを出したまま、土足厳禁の場所にローファーを置いて足を突っ込み、再び駆け出した。ちゃんと履いていなかったので転びそうになりながらも、私は校門へと向かう。すると、見覚えのある自転車に乗った後ろ姿が、向こう側の道路を走り角を曲がるところだった。今まで私はどんなことがあっても、外で人の名前を呼ぶことは恥ずかしくて出来なかった。しかし、今のわたしに迷いはなかった。
「美咲!」
私の目の前を一台の車が通り過ぎる。その人物はブレーキをかけると回りをきょろきょろした。道路を渡り走って近寄る私の足音に気付いたのか、振り向いて自分と目を合わせた。驚愕の瞳に変わる。
「どうして……」
美咲は戸惑っていた。当たり前だよね。私は息を整えて言った。
「部員から聞いたの。だから、挨拶しようと思って」
お別れ、と言う言葉は避けた。しんみりした気持ちになりたくないから。
「どうして学校辞めるの?」
「……」
美咲は迷っている様子だった。
「教室で独りだから?」
「……そうだよ」
「でも、部活の友達とかいるじゃん」
「意地悪するなんて、本当の友達じゃないもの」
美咲はこらしめられたことに気付いていたのだ。
「そう……」
独りでいるのがどんなに辛いことかは私も充分分かっている。私は汗で濡れた髪をかき上げながら言った。
「忘れないから」
躊躇することなく口に出来たのは自分でも驚きだ。辛かったよね。苦しかったよね。きっと、これからも辛いことは沢山あるだろう。美咲は哀しげな顔で私を見ていたが、
「うん」
ちょっとだけ笑った。
「髪、切ったんだね」
そう言って自分の目をこする。目の赤さは酷いものだった。私は張り裂けそうな感情を抑え、にこりと笑ってみせた。
「似合ってる」
私は目を逸らした。コンクリートの地面を見つめながら、
「じゃあ、頑張ってね。バイバイ」
と口にし、背中を向けて歩き出した。
「バイバイ、希里」
後ろを向くと私に向かって手を振っていた。太陽にも負けないほどのまぶしい笑顔。
ああ、あれが美咲なのだ。私と親友だった、大切な女の子。
私も笑顔で手を振り返す。美咲が前を向き自転車で走り出しても、姿が見えなくなるまでずっと。私は塀に寄りかかり、メールを送った。
『今すぐ、学校の外に出てきて下さい。お願いします、先輩』
ほどなくして先輩は来てくれた。
「どうしたの」
「美咲が、学校を辞めたんです」
私はうつむいたまま答えた。
「そうなんだ……。何でここにいるの」
「お別れ、告げたんです。美咲、笑顔で手を振ってくれました」
先輩は私の頭をそっと触り、
「いいんだよ」
と言った。その途端、抑えていた涙が込み上げてきた。泣き顔を他人に見られるのは嫌だから、私は先輩の胸に顔をうずめた。
「別れって、やっぱり辛いですね」
「当たり前さ。俺だって辛かった」
「……ごめんなさい」
汗がにじんだ先輩の体育着、私はこの胸を失いたくないと思った。
「今までさ、弘樹の部屋を片付けたら何だかあいつの存在までもがなかったみたいになるんじゃないかと怖くて、そのままにしていたんだ。けれど、月岡さんがあの手紙を読んでくれてきっとこれからは弘樹のことを忘れないでいてくれるだろうと思って、やっと昨日片付けられたんだ。月岡さんとこうやって会話が出来るのは、弘樹のおかげだよ。あ、そんなふうに言ったらやきもち焼いて化けて出てきそうだな」
顔を上げると先輩は笑っていた。
「人は、別々の道を歩んでいくんだよ。例え険しい道でも、絶対にその苦しみは無駄にならない。だから、田島さんも生きていけるよ。勿論、月岡さんだって。今は泣いていいんだよ」
先輩の言葉が心に染みる。
私たちは、別々の道を歩んでゆく。もう一緒に歩くことはなかったとしても、美咲と過ごした日々は確かにあったのだから。中崎くんと過ごした日々だってちゃんと存在していたのだから。これから、何が起きるかは誰にも分からない。けれど。
「髪、切ったんだね。……似合ってる」
先輩が照れたように笑いながら私の髪を触った。
過去があるから今がある。
生きている限り、未来だって、きっと、ある。
最後まで読んで下さりありがとうございました。この小説は、何年も前から書きたいと思っていたものです。お読み下さって何かを感じて頂けたなら幸いです。
どうか、皆様に明るい明日がありますように。本当に、ありがとうございました。
霜月 沙羅