第23話 中崎くん。
大会が終わった次の日でも、勿論部活はある。部室の開いた窓からは生ぬるい風が入ってくる。
「じゃあ、今日は団体戦でもやる?」
美咲が提案した。
「賛成!」
一番に手を挙げたのはあっちゃんだった。次々と賛成の声が上がる。
そして私たちは二つのグループに分かれた。美咲と同じグループになり、私はこのときから決心していた。
私のグループの一番は自分だ。対戦相手のあっちゃんは、
「希里とじゃ絶対負けるー」
と泣き真似をしてみせて皆を笑わせた。声援は相変わらず聞こえないが、しかし私は気にしない。点を取るたび大げさに喜ぶと、
「温美だけには負けるなー」
などとちょっと冗談交じりで、声援がちらほら聞こえてきた。ああ、そっか。応援しやすい環境というものがあるのかもしれない。私はあまりにも真面目にやりすぎていた。楽しく、やろうじゃないか。
結果、あっちゃんはぼろ負けだった。
団体戦を締めくくるのは美咲とナツエだ。現在四対四の引き分けで、この試合でグループの勝ち負けが決まる。グループの組み合わせは違うものの、以前あっちゃんが部活を辞めると言い出した日にやった団体戦と同じ光景だ。二人の試合が始まり、あっちゃんはナツエの応援をしている。私は一人で頷くと棚の前から立ち上がり、卓球台に近寄った。そして美咲と一緒に過ごした日々を思い浮かべながら、すうっと息を吸う。
「美咲、どんどんリードだよ!」
サーブを打とうとしていた美咲は驚き顔でこちらに視線を移した。声を出したのが私だと気付いたらしく、
「希里……だったんだ」
という言葉を零した。私だって驚かずにはいられなかった。
美咲、今私のこと名前で呼んだ。
多分、無意識のうちにそう呼んでしまったのだろう。思えば、三年近く『希里』と呼び続けていたのだから頭の中に染み付いてしまっているのは当然のことだった。美咲は『月岡さん』と呼ぶのにかなりの注意を払っていたんだろうな。親友には戻れなくてもいい。でも、もう、私のことを避けたりはしないよね。きっと。
「どうしたの?」
中崎先輩はきょとんとした顔で私を見ていた。当たり前かもしれない、部活が終わったあとにメールで先輩を呼び出すなんて初めてのことだったから。生徒玄関から出てきた女の子たちは、好奇の視線を水飲み場にいる私たちに向けていた。外はまだ明るく、立っているだけなのにうっすらと汗をかくのだから、やはり夏だ。
「いきなりで、ごめんなさい」
私はYシャツの襟を正しながら言った。
「でも、今日じゃないと決心が揺らいでしまいそうだったので」
「今日、何かあったの?」
「美咲に、久しぶりに下の名前で呼ばれました。それだけなんですけど、前から考えていたことの背中を押してくれて。今日がいいんです」
私はまっすぐ茶色い瞳を見つめた。
「……何?」
先輩はエナメルバッグの紐を握る。こんなこと言ったら、図々しいかもしれない。けれど、私はそろそろ区切りをつけなければいけないんだ。後悔をしないために。
「弘樹くんに挨拶をしたいんです」
先輩はまばたき一つせず、しばらくの間固まっていた。やっぱり、駄目だろうか。私は加害者なんだから。
しかし意外にも、あっさりと先輩は言った。
「いいよ」
そして、こう続ける。
「弘樹もそれを望んでいると思うよ。勿論、俺も」
「いいんですか?」
「いいんだよ。俺も、弘樹も恨んでいないだろうし、月岡さんが来てくれるのを願っていた」
先輩は手を伸ばし、ごつごつとした手を頭に乗せてきた。そして背を向けるとスニーカーを引きずるように歩き出した。私は周りには目もくれず、黄ばんだYシャツの背中を追う。肩甲骨がはっきりと分かった。
鍵を開け自転車に乗り駐輪場から出ると、前方で先輩が大きな自転車にまたがって私を待っていた。先輩はちらりと後ろを振り向くと発進した。見慣れたいつもの景色が流れる。沢山の木が生えている広い公園や、セブンイレブンを通り過ぎる間、私は考えていた。中崎くんに、何て語りかければいいのだろう? ごめんなさいは何か違う気がする。
「家族の人は家にいるんですか?」
車の音に負けないよう、大きな声で訊いた。家族の人がいたら気まずい。もしいるとしても、もう私の中に行かないという選択肢はないのだが。
「仕事が遅いからまだいないよ。帰ってくるのは大体九時ごろさ」
共働きなんてさほど珍しくはないが、それにしても結構帰りが遅いんだな。だから中崎くん、お兄さんのことがあんなに好きだったのかもしれない。
しばらく走ると私の知らない道に入った。高いマンションやアパートがそびえ立っていて、そのせいで道は日陰になっていて薄暗い。電灯は点いているものの、数えるほどしかなかった。しかし先輩に続いてハンドルを右にきると、目の前に大通りが姿を現した。信号待ちの車が排気ガスを吐き出している。
「近道したんだ」
私の考えていることが分かったのか、先輩が説明した。止まっている車の間を先輩の自転車がすり抜ける。私はまだ死にたくないので左右をよく確認してから、信号は使わずに先輩と同じルートを通った。家が並ぶ住宅街を進むと、先輩がいきなり止まったので私は急いでブレーキをかけた。キィッと嫌な音がした。
「ここだ」
先輩の左側には、どこにでもあるごく普通のマンションが建っていた。私はマンションの側に自転車を停める。先輩は短時間だからここでも大丈夫だろうと言った。先輩がマンション住人専用の駐輪場に自転車を停めに行っている間、私はマンションを見上げた。人通りは少なく、どこからか蝉の鳴き声が聞こえていた。中崎くんは自宅から飛び降りたと先輩が言っていた。そう、このマンションから。足下から恐怖が沸き上がってきた。どうして? それほどの勇気があるなら、何でも出来たじゃない。先輩に声をかけられるまで、私はその場から動けなかった。
「大丈夫か? 気分が悪いなら無理するなよ」
心配そうな表情で顔を覗く先輩。
「――大丈夫です。もう、逃げたくないんです」
私は何度か大きく空気を吸うと、大丈夫なことを表すために微笑んでみせた。先輩は頷き私の背中に手を当て、しかしそれが下着の紐の上だと気付いたのか慌てた様子で手を下にずらし、マンションに入ってゆく。エレベーターに乗ると先輩は五階のボタンを押した。5と書かれたボタンが点灯し、エレベーターが上昇する。かすかな機械音の他には何の音もしなくて息苦しい、早く五階に着いてほしいと思った。その間も先輩の熱い手を背中に感じていた。ケージの上昇が止まると、ゆっくりとドアが開く。私の背中を軽く押して先に降りるよう促し、続いて先輩もエレベーターから降りた。電気の点いていない狭い廊下を進むと、突き当たりに一枚のドアがあった。ゴシック体の『中崎』という表札が、暗がりの中浮き上がっているように見えた。
先輩はエナメルバッグを開け、鍵を取り出すと鍵穴に突っ込んで回した。ドアノブを手前に引っ張ると、芳香剤の匂いが漂ってきた。先輩は先に入り手を伸ばして壁にあるスイッチを押す。玄関に明かりが灯った。
「入っていいよ」
靴を脱ぎながら先輩が言った。私は後ろのドアを閉めると、行儀良く並んだ三足の靴を踏まないよう、片足ずつローファーを脱いだ。誰もいないのは分かっているが、一応、
「お邪魔します」
と声に出す。先輩は玄関の電気を消し手前の左側にあるドアを開けた。私は緊張して直立不動の姿勢になる。ドアの隙間からは、畳の床に置かれた仏壇が見えた。私は通学バッグの持ち手をぎゅっと握る。クーラーはついていないのに少しだけ涼しく感じる。私は胸を押さえながら、ドアの中へと入っていった。
蛍光灯は何度か点滅したあと、パッと点いた。淡い色の花が描かれた押入れが壁の一面にあり、丁度ドアの正面に仏壇があった。中崎くんの笑顔が遺影に収まっている。私は目をつむった。
「大丈夫か」
目をつむってみて気が付いた。中崎先輩の声、中崎くんに似ているんだ。私はゆっくりと目を開けると、仏壇を直視した。――大丈夫、私は冷静でいられる。仏壇に歩み寄るとぺたりと座った。正座をして背筋を伸ばす。中崎くんは死んだという事実を改めて感じさせられた。私は線香の匂いが好きなのかもしれない。線香を供えると心が落ち着いた。手のひらを合わせようとしたとき、
「行こう」
と背後に立った先輩に声をかけられた。
「どこにですか」
私は振り向いた。
「弘樹の部屋」
私にとっては仏壇の前で手を合わせることより怖かった。だって、そこで中崎くんは生活していたのだから。
「本物の弘樹を見てほしいんだ」
「本物の弘樹……」
私は反芻した。十分の一秒、息が止まったような気がする。それにしても、部屋を亡くなったときのままにしてあるのは成仏の妨げになるんじゃなかったっけ。
「分かりました」
行ったからって何が変わるというわけでもないけれど、来たからには何でもやってやる。それに先輩はそれを望んでいるみたいだし。立ち上がろうと手を付くともう足が痺れていた。崩れ落ちる私を見て先輩が笑った。
「足の裏触ってもいい?」
「絶対に駄目です!」
しばらくすると足の痺れも和らいだので腰を上げると、足に畳の痕が付いていた。先輩が電気を消すと部屋は真っ暗になり、私はつい先輩のエナメルバッグにしがみ付いた。暗闇は苦手だ。しかも仏壇あるし。先輩はまた私の頭に手を乗せた。
廊下に出ると先輩は何の変哲もないドアの前に立った。ドアの横にエナメルバッグを置き、月岡さんも置いておけば? と言われたが私は断った。何も持たずに中崎くんの部屋に入るのは何だか心細いのだ。
部屋の中は六畳ほどだろう、灰色のカーペットが敷いてあり勉強机や横に広い三段のタンスなどの他に、マンガ本や置き傘、地球儀が入った棚があった。その棚の前には、紐の長さが調節出来る、中学校のときの学校指定の黒いバッグが置いてある。大きな窓には小豆色のカーテンが引かれていた。きっと生前のままなのだろう。部屋は少しだけかび臭い。勉強机に付いている本棚に中学校の教科書が置いてあるのを見て、中崎くんは中学生で時が止まってしまっているのだと切ない気持ちになった。先輩が部屋の電気を点ける。そして私の横を通り過ぎると、ペン立てしか載っていないさっぱりとした勉強机に向かい、引き出しの一番目を開けた。私はわけが分からず蛍光灯の真下で立ち尽くしていた。
「弘樹が死んですぐ、机の中を整理していたら見つけたんだ」
引き出しの中に目をやると、茶色い封筒だけがそこにあった。先輩はその封筒を持つと私に手渡した。いいんですか? と訊くと頷いたので、私は封の閉じられていない封筒から三つ折りにされた一枚の便箋を取り出す。両手で開くと、黒いボールペンで綴ったであろう文字の冒頭には『月岡希里様』と書かれていた。少し雑な文字を目で追う。
『月岡希里様
こんにちは。隣の席の中崎です。いきなりでびっくりさせたかもしれないけど、最後まで読んでくれたら嬉しいです。
実は、同じクラスになってからずっと月岡さんのことが気になっていました。優しいし、数学もていねいに教えてくれるし。俺のことをからかったりもしないしさ。
今更だけど、髪型も短いほうが似合っています。長くてもいいと思うけど。
月岡さんにだから言うけど、兄ちゃんの自慢ばかりしていたのは、本当に尊敬してるからなんだ。だからお兄ちゃまなんてあだ名を付けられちゃったわけだけど。それだけでいじめられたわけじゃないけどさ。月岡さんはいじめないでくれていて本当に嬉しいです。
めいわくな手紙だったらごめん。お返事待ってます。では。
中崎弘樹』
私は言葉を失った。
「弘樹は、月岡さんのことが好きだったんだよ」
お兄ちゃまと呼ばれていたことを先輩が知っていたというのも衝撃的ではあった。でも。
まさか、中崎くんが私のことを好きだったなんて。
涙が溢れてきた。中崎くんは、美咲のことじゃなくて私のことを見ていたんだ。どうして? どうして私へ宛てた手紙なんかを書いたの? どうして私のことを好きになったの? どうして自殺なんかしてしまったの……。私だって、いじめていた一人なのに。
「渡すかどうかずっと迷ってた。これを読んだら自分を責めてしまうかもしれないし、死んだ奴にこんなこと言われても困ると思って。でも」
先輩は涙声だった。
「今の月岡さんなら、大丈夫だと思ったんだ」
私は伝えたいことがある。謝罪でも、お別れでもない。勉強机を見つめ、中崎くんが椅子に座っている姿を想像しながら口にした。
「ありがとう」
とめどなく涙は溢れ続ける。私は中崎先輩の胸に額を押し当てた。先輩が私の背中を撫でる。
「中崎くん、ありがとう」
もう一度口に出し、中崎くんの笑っている顔を思い浮かべた。もう、会えないんだね。
私が初めて流した、本当の涙だった。