第22話 大会。
まだ学校に来ている人が少ない頃、駐輪場の前には三十人近くの人が集まっていた。自転車を停め駐輪場を出ると、私の姿に気付いた人が手を振ってきた。あの体型からしてあっちゃんだ。近付いてゆくにつれ、私は驚かずにはいられなかった。あっちゃんの隣にはナツエがいたのだ。だからつい、
「どうしたの?」
とあっちゃんとナツエを交互に見ながら訊いてしまった。
「いやー、ひょんなことから気が合っちゃって」
「ひょんなことって何だよ」
「……些細なこと?」
「いや、意味は訊いていないって」
あっちゃんとナツエは笑った。
「希里が来るの遅いからナツエちゃんに聞いたら、何か分かんないけど好きな歌手の話になって。ナツエちゃんも鬼束ちひろが好きなんだって!」
へえ、そうなんだ。あっちゃんも鬼束ちひろが好きだから、意気投合してしまったわけか。何の曲が好きなどと話し出した二人はほっといて他の部員たちを見渡すと、普段と変わらず派手な部員たちと喋っている美咲の姿が合った。あの子たちはずるい。『こらしめよう』と言い出した癖に、また仲良くしちゃって。誰が計画したか大体感づいているだろうに、また普通に接している美咲はすごいな。
次に目に入った中崎先輩は他の部員と喋っていた。中崎君も私たちの試合を見てくれているといいな。雲一つない空を見ながら思った。
「点呼取るからミーティングのときのように並べ」
こちらに歩いてきながら顧問は声を飛ばした。言われたとおりに私たちは並び、点呼を受けて来るはずの人が全員揃っていることを確認すると、出発の合図をした。ちなみに、自転車通学でない人は現地集合となっている。ぞろぞろと駐輪場に入ってゆく。爪先しか足が付かない自分の自転車も、皆の自転車と比べると一回り小さかった。部長が先頭になり、部員たちは出発する。信号が青から赤に変わっても置いていかれないよう突き進む部員がいるので、何度クラクションを鳴らされたことか。それでも皆と大会場所まで走るのは何だか楽しかった。
西スポーツセンターに着くと、他の学校の生徒が入り口に入ってゆくところだった。みんな身体が大きくて、私は勝つ自信がない。弁当の中身がぐちゃぐちゃにならないようにそっと前かごから通学バッグを取り出し、顧問の元へ集まる。顧問の話が終わると、私たちは中に入っていった。
中は大きな体育館のようで、沢山の卓球台が二列に並んでいた。他の学校の生徒たちの喧騒が響いている。
「やばい、緊張してきた」
ナツエが呟いた。
「私もー」
「あっちゃんは出ないでしょ」
と私が突っ込む。男の子は向こう側の台で試合をするのでぞろぞろと移動してゆく。先輩は振り返り、誰かを捜している様子だった。もしかして私を捜しているのだろうか。しかし先輩は諦めた様子で前を向いてしまった。
私は端に通学バッグを置くとラケットを磨き出した。勝てるように願いを込めながら、スプレーをかけてスポンジで泡をゆっくり伸ばす。練習をしている他校の生徒を眺めると、あれは何て言う打ち方だろう、ボールがまるで生き物のようにふわりとネットを越えた。うーん、弱小校だと有名なうちの高校が勝ち進む可能性は、やっぱり低い。
開会式が始まった。選手宣誓やどこの学校の顧問か分からない人の長ったらしい話にはあまり耳を傾けず、斜め前にいる他校の女の子の長い三つ編みを見つめていた。腰の下まであり、あれだけ長いと学校でも目立つだろうな、なんて。
やっと開会式が終わると私たちの学校はすぐに試合だ。いよいよ本格的に緊張してくる。まずは団体戦だ。試合に出る人たちははラケットを手に持つと、沢山の卓球台をぐるりと囲むように立ったフェンスを一ヶ所どかし、そこから入って台の前に一列に並んだ。
「頑張ってね」
あっちゃんの声に、私はうんと頷いた。黒いユニフォームを着た相手の選手は体格の良い人ばかりで、先ほどの三つ編み少女もいた。眼鏡をかけた女の子が選手の名前を呼んでゆく。私の名前も呼ばれて返事をしたが、声が裏返ってしまった。美咲はさすがだ、いつもと変わらぬ表情で返事をしている。
対戦相手は、奇遇にも三つ編み少女だった。卓球台の前に立つと、
「よろしくお願いします」
感情のない声で言われた。私も慌てて頭を下げた。練習を何本かすると、相手が何のラバーを使っているか見る権利はお互いにあるので、ラケットを交換する。私はほっとした。自分と同じラバーだ。ラケットを返すとジャンケンをしてサーブの順番を決める。改めて挨拶を交わし、私は手のひらの上に乗ったボールを一直線に見つめ、サーブを打った。
先に点を取ったのは私だった。
「ラッキー! どんどんリードだよ、希里」
後ろから声が飛んでくる。まるで応援合戦のように、負けじと相手の学校の子が、挽回出来るよ、ユミ! と声を張る。先制点を取れて少し気を抜いていたのが間違いだったかもしれない、そのあと立て続けにユミという名前らしい三つ編み少女に点が入ってゆく。三つ編みが激しく揺れていた。焦れば焦るほどミスは多くなり、何点か取れたものの私はあっさりと負けてしまった。二セット目も、三セット目も。しかしそれほど悔しくなかったのは、実力があまりに違いすぎたのと、何よりもうちの学校のほとんどの子が負けてしまっていたからだ。相手に勝ったのは、ナツエだけ。他の学校とも戦ったが、結果は同じだった。そうしてあっけなく、団体戦は三試合目で予選落ちが決まった。県大会には、行けなかった。しかし実のところ、私はまだ落ち込んでなんかいない。だって、まだダブルスが残っているから。
「負けちゃったねー」
通学バッグを運びながらナツエは悔しそうに言った。
「でも、ナツエだってダブルス出るし、落ち込むのはまだ早いよ」
私たちは観戦席まで移動し、白い椅子に座ると弁当を取り出した。包みを開けたナツエが、
「あ」
と声を出す。
「どうしたの」
「何か紙切れ貼ってある」
見ると、黄緑色の蓋に『ファイト! ママより』と書いてある紙が貼ってあった。
「ナツエのママ良い人だねー」
「私の弁当箱にはそんなの全く入ってないんですけど」
まあ、私の母はそういうことをする人でないということは分かっているけど。照れ臭そうに頬を掻くナツエ。嬉しいんだろうな。
弁当を食べ終わって一休みすると、美咲と合流した。ダブルスで試合をするのだからこれだと意味がないのかもしれないが、時間が許す限り二人で打ち合った。体育館の何倍も広いこの場所は、自分がちょっとばかり持っていたプライドや自信も全部吸い取ってしまう。そして、試合の時間が来た。
「田島・月岡組」
「はい」
美咲と声が重なった。卓球は孤独なスポーツだと思うが、この瞬間私は美咲との一体感を覚え、不安が和らいだ。対戦相手と向き合い、少しだけ練習をする。このときから、薄々おかしいとは思っていたのだけれど。二人とも赤い面の方で打ち返していることを目に焼付け、美咲は肉付きの良い女の子と、私はきつね目の女の子とラケット交換をした。私は絶望的な気分になった。
粒高ラバー。
表面に凹凸があるそのラバーは、ボールを打ち返すと不規則な揺れ方をして飛んでゆく。私の苦手なラバーだった。もちろん顔には出さないようにして私はラケットをきつね目の子に返す。
「あの子、粒高ラバーだよ」
美咲に耳打ちする。
「あたしが交換した子も粒高ラバーだった。きついなー、これは」
ジャンケンをして、
「よろしくお願いします」
とお互いが言うと、美咲が相手には見えないよう、台の影で人差し指を下に向ける。下回転サーブを繰り出すという合図だ、私は頷いた。美咲が予告通り下回転サーブを打ち、私は素早く美咲と入れ替わってボールの行方をじっと見つめ、こちらに飛んでくると慎重に打ち返した。相手が空振りする。私はこぶしを握った。
回転のかかっていないサーブが来たとき、私は何か仕掛けようかと迷ったが、点を落としたくないので無難にバックハンドで打ち返した。なのに、ボールはネットを越えてくれなかった。そうだ、相手は粒高ラバーだったんだ。
「どんまい! 三本挽回」
あれは誰の声だろうか。私たちを応援している人がいる。しかしどんまいと言われる度に焦る気持ちは高まって、点も取られるばかりだから余計プレッシャーが重くのしかかり、美咲のスマッシュもことごとく失敗した。そしてあまり時間はかからずに一セット目、二セット目と負け……。次に負けたら、本当に終わりだった。あんなに練習したのに、このままでは終わりたくないと思った。美咲の顔は険しかった。いつもとは違い、髪を一つに束ねている彼女。目の下には酷いクマが出来ていて、はみ出し過ぎた後れ毛のせいもあるかもしれないが、すごく疲れているように見える。そして何かに真剣になっているとき、人は他のことを忘れてしまうのかもしれない。
「あの人たち強すぎだし……。かなり、やばいね」
美咲から話しかけてくるなんて。びっくりしながらも、
「うん」
と返した。
「最後になるかもしれないし、もうやるだけやろっか」
最後? 少し引っかかったが、今回の大会最後の試合という意味なのだろう、そうだよね、やるだけやった方がいいかもしれない。後悔をしないように。
私がサーブを打つとき、卓球台の影で美咲は右を指差した。失点しないように慎重になりすぎて、まだ一回も横回転サーブを打ってなかった。きつね目の子は横回転と気付かなかったのか、普通に打ち返してしまったためボールは横に反れて床に落下した。
「よしっ」
美咲と声が重なり、試合中だということも一瞬忘れて笑い合った。
「ありがとうございました」
私は頭を下げた。悔しくないといったら嘘になる。でも、不思議とすっきりした気持ちだった。関東大会常連校と戦って、三セット目をジュースに持ってゆけただけでもすごいことだと思う。
「終わったね」
喜ぶ対戦相手を見ながら私は呟いた。
「うん、終わったね」
「でも、楽しかったな。あんなに強い人たちと今まで試合したことなかったし」
「確かにね」
「お疲れ」
とあっちゃんは一言言い、預けてあった愛用のタオルを私の頭に乗せた。美咲の方はというと、数人の部員に囲まれて肩を叩かれている。私たちが一緒にいたのは、ダブルスの試合をしているときだけだった。時間にすれば短いが、私は思うのだ。美咲と一緒だったから、緊迫した試合の三試合目は楽しかった、と。
そうして、夏の大会は終わりを告げた。