第2話 登校風景。
朝の電車は混んでいて身動きがほとんど取れない。さぞかし空気は、濃厚な二酸化炭素に支配されていることだろう。出来る事なら乗りたくない、しかし乗らないと学校に辿り着かない。隣には太った中年の男性、額にかいた汗を格子模様のハンカチで拭いている。見ていて気持ちが悪かった。人に押される度、一つにしばった髪の毛束から、中途半端な長さの髪が数本落ちてくる。私はため息をついた。
窓の外を流れる景色はどれも無表情だ、何の感情も沸いてこない。
ビルも。家も。人も。
中学生の頃は、電車通学に憧れていたっていうのに。とはいえ、いつもは自転車通学だ。今日はたまたまタイヤがパンクしていて、電車に乗らざるを得なかった。
突然、ブレザーのポケットに入れてある携帯電話が震えた。私は携帯電話を取り出し、ディスプレイに目をやる。『新着メール あっちゃん』と表示されていたので、私は周りの人に見られないよう片手で画面を覆うようにしながら、メールを開く。
本文を見て、私はあやうく携帯電話を落としそうになった。
『今日朝練だったのにどうして来なかったの?』
次の駅を知らせる車掌の声がいつもより耳障りに聞こえた。
朝練だなんて聞いていませんよ、絶対。脈が速まってきたのは、彼女の顔を思い出したからだ。私は卓球部に所属している。中学生から続けてきたため、少しだけ卓球には自信があった。しかし、やはり自分より上手い人というのはいる。美咲も、その一人だった。卓球は上手だし何よりもしっかり者だから、一年生の部員の長、学年部長に任命されていた。先輩との交流はあまりないので、今日の部活もきっと一年生だけの自主的なものなのだろう。私が食パンを食べている間、自分を除く一年の女子部員八名はあのかび臭い卓球室でプレーしていたのだ。
さて、私は返信をしなければならない。ディスプレイを見つめ、本当のこと―――そんなの聞いていないよ―――を打ったが、どうしても送信する勇気が出なかった。親指に力をいれ、消去を選ぶ。
『消去しますか?』
過去もボタン一つで消去できたらいいのに。心の中で自嘲気味に笑った。
結局、『ごめん、寝坊しちゃった』という文面を送信した。携帯電話を閉じると、胸の前で包み込む。携帯電話は少しだけ温かくなっていた。襲ってくる感情の波に歯を食いしばって耐える。部員に朝練のことを伝えるのは、学年部長の役目だ。それなら、何故美咲は私に教えてくれなかったのだろうか? ―――本当は分かっている。でも、そこまで避けられているとは思っていなかった。携帯電話にぶら下げた青いイルカのストラップが揺れる。中学三年生の時に買った、美咲と色違いのストラップ。
車掌のアナウンスにはっとした。次が、私の降りる駅だ。私はどこまで後悔を引きずれば気が済むのだろう。右手にこぶしをつくり、自分の頭を軽く叩いてみた。すると例の中年の男性は怪訝そうな目つきで私を見る。さすがにちょっと恥ずかしくなり、口を強く結ぶと通学バッグを肩に掛けなおした。
駅は行きかう人で溢れかえっている。この光景を見る度、人ごみに紛れてしまい自分の存在が薄くなってしまいそうでくらくらする。しかも私は背が小さいのだ。威圧感を覚えずにはいられない。だから私はいつもよりしっかりした足取りで歩く。確か、学校は駅から徒歩十分ほどだ。
駅から離れてゆくにつれ、通行人も少なくなる。途中、路上に止められた車のウィンドウにちらりと目をやる。写るのは、少し猫背で冴えない自分の姿。背筋を伸ばすよう気をつけているんだけどなあ。こんな風に他人から見られているなんてサイアクだ。私は背筋をぴんと伸ばし、脇目も振らずに歩く。以前にも電車で通学したことがあるのだけれど、この時間帯は同じ学校の人と出くわす可能性が高い。今も、数メートル先に同じ制服をまとっている女の子がいるが、スカートの長さははるかに私より短い。
賑やかな駅前通りを過ぎると校舎が見えてきた。大きな横断歩道を渡ると、同じ学校の生徒がたくさんいた。すぐ目の前に歩いているのは柔らかそうな癖毛の髪の女の子、きっとクラスメイトだ。でも声をかけるのは恥ずかしい、私は歩く速度を遅くした。
校門をくぐった丁度その時、
「希里ちゃん?」
と誰かに私の名前を呼ばれた。立ち止まって辺りを見渡すと、校門の近くから女の子が私の方へ手を振って寄って来るのが目に入った。目を細めてみるが、私は視力が悪いのでそれが誰だか判別出来ない。間近まで来た所で、やっと誰なのか分かった。
「おはよー。久しぶりだね」
山田さんは並びの悪い歯を覗かせて言った。
「うん。同じ学校なのに会わないよね、意外と」
「元気だったー?」
顔に浮かべた笑顔が引きつりそうになる。私は山田さんと一緒に生徒玄関に向かいながら、
「まあまあ、ね」
「そっかあ。あ、そういえば希里ちゃんメアド変えた? 送ってもエラー出るんだけど」
彼女はくりくりした瞳を向けてきた。私は目を逸らしてローファーを脱ぎながら、
「あ、ごめん。教えてなかったっけ」
と、さもうっかりしていたかのように言った。
「聞いてないよ。後で教えてね」
私は適当な返事を返し、げた箱を開けた。汚れた上履きを取り出すと、靴底についた砂がぱらぱらと落ちる。すぐ先には、既に上履きに履き替えた山田さんがいた。私はちょっと急いで上履きに足を入れる。
私の隣を歩く山田さんはとっても可愛い。こぼれ落ちそうな大きな目に小さな口、まるで小動物みたいだ。しかし、もてるかと言ったらそれは絶対にない。これまた可愛らしい声が耳に入ってくる。
「今、うちに空メール送って」
抜け目ないな。私は観念し、片手で携帯を開くと空メールを送る。すると山田さんは通学バッグを開き、赤くて丸みの帯びた携帯を取り出した。
「ありがとー」
山田さんはメールを確認すると笑みを浮かべた。可哀想な子、と少しだけ思った。
階段を上りきると、うっすらと汗をかいていた。無理もない、教室は四階なのだから。山田さんはじゃあね、と短く言い左に曲がる。この私よりも長いスカートがひるがえった。私は山田さんの後ろ姿を見届け、自分の教室へと向かった。