第19話 ご報告。
部活動中、突然開かれた部室の戸に皆の視線が向けられた。立っていたのは、あんなに長かった前髪が眉辺りまで短くなっている美咲だった。ばつの悪そうな顔をしている。
「美咲、久しぶりじゃん。寂しかったよお」
何人かが美咲に群がる。白々しい、と思った。『こらしめよう』などと言っていたのはどこの誰だったか。
「ごめんね」
美咲は部室を見渡してそう言うと、私の方へ歩いてきた。しかし棚の前で麦茶を座って飲んでいる私のことは一度も見ようとはせず、棚に入った自分のラケットケースを手に取った。まるで、私と部室で昼休みを過ごしたことなんてなかったかのようだ。
「そういえば先生怒ってたよ。こんな時期に休むなんて、って」
「それはやばいな」
美咲が笑った。もう恋人に別れを告げられたことは吹っ切れたのだろうか。無理して明るく振舞っているだけかもしれない。
「あと十一日しかないんだ」
黒板を見て呟いた。赤、蒼、黄色など、色とりどりのチョークを使って『大会まであと十一日』と書いてある。部員が書いたものだ。明後日の体育館で部活をやるときに美咲が来ていなければ、ダブルス・団体戦共に出ることが出来なかったのだから、まさにギリギリセーフだ。
「じゃ、やろっか」
私に声をかけたのかと思って美咲に目を向けると、頭にタオルを乗せた他の部員が彼女の前に立っていた。楽しそうに会話を数言交わし、
「ちょっとトイレに行ってくる」
と部員が立ち去ると美咲は視線を感じたのか、私の方を向いたので目が合ってしまった。先に目を逸らしたのは私の方だった。
頭の中ではダブルスの練習はしなくていいのかと心配だったが、美咲は他の部員と打ち合っている。もう、勝てなくてもいいや。ゴミ箱と美咲の顔を交互に見て、私は投げやりな気持ちにならざるをえなかった。
「希里」
目の前にナツエがいた。渋谷に行ったときに買った緑色のヘアピンを頭に付けている。
「何?」
「ちょっと体育館まで付き合ってくれない?」
「どうして」
「部長に呼び出されているんだよねえ」
「何で呼び出されているの」
「私と三年生を試合させたいんだって。私のラケットって皆と違うじゃん。ラバーが。だから同じラバーを使っている人と大会であたった場合に備えて、予行練習をさせたいんだって」
確かにナツエは強い。だけど先輩の中には信じられないほど上手い人もいるし、何よりも、
「顧問に見つかったら怒られるよ」
「大丈夫、今日はいないし。部長が言ってた」
ナツエが答える。何故私も付いて行かなければならないのか疑問だが、きっと独りで体育館まで行きたくないという単純な理由なのだろう。私は了解した。私たちは学年部長には何も言わず部室を出てゆく。部室よりは廊下の方が幾分か涼しかった。
「希里ってさ、田島さんと喧嘩してる?」
難しい質問だ。
「喧嘩じゃないけど、まあ、色々あって」
と答えた。すると、
「そっか」
と言い、それっきり黙り込んだ。教室に体育館履きを取りに行き、また二階まで戻ると渡り廊下を通り階段を上がる。ナツエに勧められるまま私まで体育館履きを手に持っていた。
「いいじゃん、誰かと話していれば」
ナツエは言った。誰とだよ、と訝しげに訊くと、
「中崎先輩と」
と言うので私は階段を踏み外しそうになった。
「何言ってるの、誤解だよ」
「分かってるって。もう先輩のこと好きじゃないし。そうじゃなくて、先輩の方が希里のこと好きなんだと思うよ。話してあげたらいいじゃん」
軽々しく話す。これは本心なのだろうか。それに、中崎先輩が私のこと云々いうのもそれはそれで誤解だ。
「それも違うって……」
「違わない。あっ、本当に私は好きじゃないからね。他に好きな人が出来たの」
大げさにずっこけてみせると、ナツエはあははと笑った。
「伊田先輩のこと、好きになっちゃった」
どこかで聞いたことのある名字だ。確か……。あっ、と思わず声を出した。朝練があったあの日、あるなんて知らされていなかった私は学校に着いてからどうだった? と訊いた。するとナツエが答えた。中崎先輩と伊田先輩が隣の卓球台でやってたよ、というようなことを。ふうん、ナツエって年上が好きなんだ。いや、そこに感心したって仕方がない。
「何で中崎先輩が私を好きだと思うの?」
「だって、中崎先輩が希里のことを責めたっていうのは嘘なんでしょ。嘘じゃないとしても、必死だったもん。『だから月岡さんと仲良くしてやってくれ』って」
やけに優しい声色で答えた。先輩が私のグループの子たちに呼び出されたときのことを言っているのだろう。あ、もしかしたら彼女たちが私の元へ戻ってきたのは、中崎くんのことを聞いたために私に同情したというのもあるかもしれない。
「中崎くんの話を聞いてどう思った?」
「中崎くんって……弟の方のこと?」
ナツエの瞳に戸惑いの色が表れた。
「そう」
ナツエは体育館履きが入った袋の長い紐を、手で巻き上げて短く持つ。そして困ったような笑みを浮かべたまま、なかなか口を開こうとはしなかった。
「あれは、本当の話。私たちのせいで自殺したの」
この話を、高校の友達に自分から話すのは初めてだった。別に、同情してもらいたいわけじゃない。ただ、他の人が聞いたらどう思うのだろう? ただ単に知りたかった。
「可哀想だなって思うよ。でもいじめを止めるなんて、誰でもなかなか出来ないよ。覚えてくれているだけでもさ、何て言うか、生きている人が出来る一つのことなんじゃないかな」
言ったあと恥ずかしそうに目を伏せた。覚えていてくれるだけで。それだけでいいのだろうか。階段の一歩一歩を踏みしめながら私は考えた。階段が途切れると、開かれた扉から溢れる明かりが私の視界に入った。体育館に入る寸前、
「ありがとね」
と私は言った。
「こっちこそ、ありがとう」
「何だよお、かしこまっちゃって」
ナツエの肩を軽く小突く。笑い声が響いた。
先に帰っていいよ、と言い残してナツエは試合をしている部長の元へ走っていった。私は壁に手を付いて入り口から顔を覗かせ、中崎先輩を捜す。もし、誰かと喋っていたり卓球をしていたりしたら諦めて部室に帰ろうと考えていた。しかし、先輩は端に座って首にタオルをかけ、どこかの祭りで入手したかのような小さなうちわで仰いでいるところだった。声をかけようとしたが、名前を呼んだら目立ってしまうかもしれない、だからといって入ってゆくのは余計に目立つ。私はひたすら視線を送って気が付いてくれるのを待った。
幸運にも、先輩がこちらに目を向けた。私の姿を捉えると、驚いた表情になってうちわの動きが止まった。首からタオルを取り後ろに放り投げると、立ち上がってこちらへ歩いてくる。
「どうしたの?」
先輩はうちわで私に風を送った。かすかな汗の匂いが漂ってくる。
「友達の付き合いで来ただけなんですけど、ついでにちょっと訊きたいことがあったので。今、いいですか」
「いいよ。どこにする。食堂の前?」
思わず私は笑った。先輩の手の感触を思い出してちょっと幸せになる。
「それは駄目か、また疑われちゃうもんな」
「でも、もう中崎先輩のこと好きじゃないらしいですよ」
言いながら私は階段を降り、廊下が見える階段の一番上の段に腰を下ろした。ここでも人に見られる可能性はあるが、これなら私たちも誰かに見られていることにすぐに気付く。知らない間に見られているというのは、なんとも嫌な感じがするものだ。
「弘樹くんのことを覚えているっていうだけでも、何かしていることになるんですか」
「いきなり何だよ」
先輩は眉を上げて笑みを零した。
「先輩を呼び出したグループの子に言われたんです。あ、そういえば仲直り出来ました」
大事な報告を忘れていた。
「ホントか? 良かったなあ!」
ぱあっと満面の笑みが広がり、自分のことのように喜んで肩を強く叩いてきた。
「ちょっと、先輩痛いって」
それよりも、先輩に触られると背中がこそばゆくなる。ただの恥ずかしさとは違う、奇妙な感覚。横顔を見ているうち、あの高い鼻のラインを指でなぞりたい欲望が沸いてくる。
「確かにそうかもな」
と先輩が先ほどの質問に答えだしたので、私は膝の上でぎゅっと両手を結び耳を傾ける。
「覚えていてくれるだけでも、弘樹は充分嬉しいと思う。忘れられることが一番怖いだろうから」
そうなのか。しかしそれですっきりするわけがない、ずっと私は自分の犯した罪に苦しんできた。登場回数は少なくなったものの、夢にだって未だに見る。
「死んだ奴より、生きている奴の方が大事なんだよ」
誰のことを差すのだろうか。私は足を組んで廊下に貼られたポスターを見ながら、
「私って、もう美咲に構わない方がいいのかなあ」
と呟いた。突き飛ばされた身体、彼女の涙、『何も分かっていない癖に』。私に出来ることなんて何もないのかもしれない。ボールのバウンドする音が聞こえる。
「田島さんと何があったかは知らないけど、全てが本物だとは限らないと思うよ」
「あれは本音です」
あれ、なんて言ったって先輩は分からないよな。
「前に私、山田さんのこと話しましたよね。この前その人と喋ったんです。そしたら泣いちゃって」
「何で?」
「昔から友達がいなかったからどうしていいのか分からなかった、って。それを聞いて、何だかすっきりしました」
「人生さ、無駄なことなんて一つもないんだと思うよ。だから月岡さんが山田さんと出会ったのだって、必要なことだったと思う」
じゃあ、中崎くんと出会ったのは?
私は訊けなかった。