第18話 二人きり。
顧問が出張していることもあり、今日だけは部活がない。私は誰もいなくなった教室で、顔を下敷きで仰ぎながら窓の外を見ていた。ディズニーのキャラクターが描かれた下敷きから来る涼しい風が、髪の毛をなびかせる。窓から顔を出し、新鮮な空気を肺に溜め込んで空を仰いだ。太陽はまぶしくて、どこまでも青い空が広がり、強張った心がほぐれてくる。
ガラガラっと戸が開く音がして私は振り返った。戸の向こうに、まんまるな目をきょろきょろとさせている山田さんの姿があった。
「話ってなあに?」
彼女は戸を閉めると笑顔で訊いてきた。私は窓から離れて机に手を付きながら歩み寄る。
「美咲のことなの」
やけに廊下は静かで、思った以上に私の声は教室に響いた。
「美咲?」
きょとんとした顔になる。
「美咲、クラスではどんな様子?」
私はロッカーに寄りかかる。山田さんは、ああ、と全てを合点したかのような顔つきになり、
「独りぼっちだよ」
口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「いつからなの、何で独りぼっちなの」
私は畳みかけた。ロッカーの冷たさがYシャツごしに伝わってくる。
「うーん、二、三週間前くらいからかなあ? 何でって、あの性格だもん」
「あの性格……」
黒板の深緑色見つめながら反芻した。美咲は皆から好かれていると思ったのに、部員だけでなくクラスメイトの中でも嫌っている人がいるなんて。どんどん美咲という人が分からなくなってゆく。
「私は、そんなに悪いところがあるように思えないんだけど。どこら辺が嫌いなの?」
山田さんは腕組みをしながら考えている様子だった。黙っていれば、本当に可愛いのだけれど。
「何か、自分のことが一番優れてると思ってる感じとか。ていうか、全てだね」
そう言ってふふっと笑ったが、私は笑えない。確かに高校に入ってからの美咲は偉そうに振舞っているような感じを受けるかもしれない。だけど……。
「それはきっと、自分のすることに自信を持っているからだよ」
私は自分に自信がないから美咲が羨ましい。
「やだあ、それってナルシストじゃん」
山田さんは眉を上げた。そうじゃない、美咲は自分のすることにちゃんと責任を持っているんだ。悪いことをしたら謝るし、人を困らせたりしないよう人一倍慎重に発言をしている……と思う。やはり私は自信を持てない。
「それよりもさ、あの人彼氏に振られたんだってね」
山田さんはせわしなく瞳を動かした。うっすらと笑みを浮かべていて、人の不幸を喜ぶなんて、と軽蔑しながらも私はあの日の部室のことを思い出していた。『最低』と言われたあの日のことを。私はもう親友じゃないのだから、これ以上関わらない方が美咲のためなのかもしれない。しかし、次の言葉を聞いた瞬間、やはり私は美咲のことを忘れることは出来ないと思った。
「あの人のこと、いじめちゃおうと思うんだ」
私はしばらくの間固まったままだった。校庭で活動中のサッカー部員の声が鼓膜に響く。背中が汗ばんでゆく。
「何言ってんの……?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど情けない声だった。女卓が言った『やっちゃわない?』はまだまだ生ぬるい言葉だけれど、山田さんが口にしたのは本格的な行為、『いじめ』。中崎くんはそれに殺されたんだ。
「うち、同じクラスだし、嫌っている人は他にもいるから出来ると思うんだ。希里ちゃんは上履きに画鋲でもいれる?」
この子は何を言っているんだ? 中崎くんが死んだ時にあんなに泣いていた癖に、何も学んでいないのかとあきれて物が言えない。
「何か言ってよー。もしかして、あの人のこと好きなの? さっきも『悪いところがあるように思えない』とか言ってたけど」
山田さんが私のYシャツを引っ張った。これほど人を嫌悪したのは初めてかもしれない、こんな人には触れてすらほしくなかった。
「信じられない」
そんな言葉が自然と口から零れた。
「信じられない。中崎くんがああなったのに、何も分かってないの? そんなことして人を傷付けて何が楽しいの?」
山田さんは思わぬ反撃に驚いたのか口を半開きにしている。私は更に続けた。
「中三のとき、友達のいなかった山田さんを救ったのは美咲じゃない。忘れたとは言わせないから」
「希里ちゃん、どうしたの? そんなにムキにならないでよお」
山田さんはおろおろしていた。
「山田さん、中崎くんのことどう思っているの」
何を吹き込んだかは知らないが、美咲が中崎君をいじめるようになったのも、仲がおかしくなったのも、山田さんが根本的な原因なんだ。
「うちは死ぬほど嫌いだった」
山田さんは目を伏せ、私が彼女を凝視すればするほど顔はうつむいていった。
「なら、死ねば?」
本人にこんなことを言ったのは、初めてのことだっただろう。山田さんはぱっと顔を上げると、戸惑いの瞳で私を見つめ、自分はよっぽど憎悪のこもった瞳で睨んでいたのかもしれない、見る見るうちに目が潤みを帯びた。
「泣かないでよ。一つ言っとく、山田さんが美咲をいじめて自殺するようなことがあったら、私は山田さんを殺すから」
山田さんの鼻の鳴る音がした。今にも涙が零れ落ちそうだった。いじめなんかに比べたら、美咲に言われたことなんてちっぽけなものだ。皮肉にも山田さんの口走った言葉のおかげで心の穴がどんどん塞がってゆく。どんなことをされても、どんなことを言われても、私はやっぱり美咲が好き。声が震えるのを抑えるかのように、静かに山田さんが言った。
「何でそんなにあの人の肩を持つの? あの人――美咲は、希里ちゃんのことを裏切ったんだよ。それでうちを選んだんだよ」
分かっているじゃないか。
「裏切ったのは私の方だよ」
だって、私が美咲を信じきれなかったから。山田さんはついに涙を一滴零し、私の呟きを無視して語り出した。
「うち、希里ちゃんにだけは本音で話せたんだ。美咲は何ていうか、怖かったの。嫌われないようめちゃくちゃ気を使った。それなのに希里ちゃん、うちらの元からいなくなっちゃうんだもん。うち、昔から友達いなかったから、どうしたらいいのか分からなかったんだよ……」
最後の方はしゃくり上げていた。突然の告白に私は動揺した。何故山田さんがこんな嫌な性格なのかなんて考えたこともなかった。
悪口を言うのは上辺だけの付き合いの子たちが使う、繋がるための唯一の手段。だから、山田さんは中崎くんの悪口をあんなにも言っていたというのか。しつこくしてきたのも、私が離れていかないために必死だったのではないか。
顔を歪めて嗚咽を漏らしている山田さんを眺めた。この子はどんな環境で育ってきたのだろう。もしかしたら、あまり幸せではなかったのかもしれない。友達がいなかった山田さん。そう考えていると、彼女への激しい感情がしぼんでいった。気付かないうちに私、山田さんを傷付けていたんだ。さすがに謝る気持ちは沸いてこないが、友達を繋ぎとめようとして空回りしている山田さんが何だか可哀想に思えた。
「山田さんは間違っていたと思う」
でも、私も正しかったとは言い切れない。事実無根の悪口まで言ってしまっていたし、もっと客観的に見ていれば美咲との仲が壊れることもなかっただろう。教室の前を女の子数人の笑い声が通り過ぎる。ここだけは、他とは違う空間のように思えた。私がこんなことを他人に言うことが出来るなんて思わなかったし、山田さんが泣き出すとも思わなかった。
口の中が渇いている。大分落ち着いてきた山田さんの顔を見ていたら、いつか忘れたけど一緒にマクドナルドに行ったとき、ポテトをおごってもらったことがあるのを思い出した。そのときは感謝なんてしなかった、だって嫌いだから。でも、もし、山田さんが死んだりしたならば私は泣くだろうか? もうどうでもいいか。やっぱり私は山田さんが嫌いだし、許せないし。でも、これからもどこかで生きていてほしいと思えた。
「とりあえず、美咲をいじめたって何の意味もないと思うから。そんなことしなくても離れていく人は離れてゆくよ。もういいよ、帰って」
私はそう言い放つと、自分の席に向かって通学バッグを肩にかけた。後ろは振り向かず、山田さんを残して前の戸から教室を出る。そのとき、
「バイバイ」
と小さな声が聞こえた。
山田さんと話すのは今日で終わりにしよう。新しい友達も出来ただろうし、これから私たちは別々の道を歩むだろう。今日を境に変わってほしいと思った。もう、一緒にいた過去は過ぎ去ったから。
外に出ると夏の太陽が私をじりじりと焼き付けた。制服姿の人たちが自転車で私の横を通り過ぎ、校門の外へ消えてゆく。駐輪場に並んだ沢山の自転車。銀色の車体が、日光を反射して輝いていた。