第15話 対面。
何も考えずになだれるように階段を降り、静まり返った一階の廊下に出る。卓球室と書かれた紙の端がめくれて今にも剥がれそうだった。私は戸を開ける。
すると大きな物音と共に短い悲鳴が部室の中からあがった。棚の前に座る人物は目を丸くして私を見ていた。私も、驚きを隠せずにはいられなかった。
「美咲……」
腕をさすっているところを見ると、誰も来るはずがないのに突然戸が開いたため、びっくりして思いっきり棚に当たった音だったらしい、美咲は、
「何でいるの……」
とまだ驚きの覚めない顔で言った。
「いや、こっちの台詞だよ。何で?」
見ると隣には赤い格子模様の手さげから何かを桃色のハンカチで包んだものが半分顔を出していた。もしかして、と脈が速くなった。
「ねえ、とりあえず入ってもいい?」
こくりと頷いたので中に入って戸を閉める。美咲は当惑した目つきで私を見たあと手さげに視線を向けた。何か言ってくれないとここから動けない、私は目を伏せて立ち尽くしていた。しかし窓も戸も開いていない閉じられた空間だ、重々しい空気が漂っていて息が上手く吸えない。たまらず私は口を開いた。
「私さあ、何か誤解みたいなのされてグループから弾かれちゃったんだよね。だから教室いるのしんどくてここに来たの。せめて皆が昼御飯を食べ終わるまでここにいさせて」
笑ってみせようとしたけれど、頬の筋肉がこわばっていたため、引きつった笑顔になってしまっただろう。
「いいよ。あたしは、弁当食べにここに来たんだ」
怒ったように横を向きながら言った。
「……いつから」
「最近」
そっけなく答えるのを見ていると、よほど無理をしているのだろうと胸が痛くなった。私は美咲がいるところのかなり手前で立ち止まり、棚を背にして卓球台を眺めた。
「あ、気にしないで弁当食べていいよ」
私は棚に左腕を乗せ、どうしたら食べやすい環境を作れるか考えた。私がいる時点で食べにくさはかなりのものだろう。布のこすれる音がした。そっと美咲に視線を移すと、包んだハンカチをほどき、白い弁当箱の蓋を開けていた。と、顔を上げる。髪の毛の下から黒い瞳が覗いていた。
「あ、ごめん」
私は慌てて目を逸らす。
「食べる?」
え、と私は訊き返した。
「食べない? あたしこんなに入んないし」
棚から腕を離し弁当箱の中身を覗くと、一口コロッケ、一口スパゲティ、一口ハンバーグ……と冷凍食品が勢ぞろいしていた。美咲は手さげから白い袋を引っ張り出した。袋を下敷きにして、コンビニで買ったものだろう、中に入っていたおにぎりと焼きそばパン、メロンパン、プリンを取り出す。私は唖然とした。
「そんなに食べる気だったの……?」
美咲はそれには答えず、
「メロンパンとプリン食べていいから」
よく見ると美咲の長い睫毛がせわしなく動き、その度に前髪が揺れていた。だから私は素直に好意を受け入れた。
「ありがとう」
美咲の唇がぴくりと動く。まばたきの回数もそうだが、かなり緊張しているのだろう。考えてみれば当たり前だ、ダブルスの練習の時に多少言葉を交わすとはいえ、個人的にこうやって向き合うのは中学の時以来なのだから。なのに私は普通に話しかけていることが、自分でも不思議だった。
私は美咲から少し離れた場所に座り、メロンパンを手に取る。メロンパンを勧めてくれたことからして美咲、覚えてくれていたのかも。私がメロンパン大好きだってこと。私は袋を破ると大きく口を開けて噛り付いた。美咲も細い指でおにぎりのパッケージを開け、噛り付く。きっと他人から見たら異様な光景だろう、黙って食べる二人、ものを噛み砕く音しかしない部室。私はくちゃ、という音をたてないようにして静かにメロンパンを噛み千切った。弁当箱からはソースの匂いがしていた。
私たちは一言も交わさない。私の場合、話すことが思いつかなかった。ここで弁当を食べている理由なんて訊けるわけないし。それに、自分から話しかけるのはやっぱり気が引ける。ただ、前と違って私と一緒にいるのが嫌なんじゃないかとか、そういう気持ちはなくなっていた。
メロンパンを食べ終わると、
「本当にいいの?」
と尋ね、頷いたのを確認してからプリンの蓋を剥がす。そしてちゃちなプラスチック製の白いスプーンでプリンをすくい口に入れた。つるつるとしていて、とても甘い。美咲は空っぽになった弁当の蓋を閉め、ハンカチで包み直していた。左手の薬指には細い銀色の指輪がはめてある。彼氏とおそろいなんだろうな。そう思うと急激に寂しさを感じた。スプーンは下に入ったほろ苦いカラメルソースまで達した。
プルル、と初期設定時のような携帯電話の着信音が近くで鳴った。美咲がスカートのポケットに手を入れて取り出したオレンジ色の携帯電話には、やはりイルカのストラップはぶら下がっていなかった。予想していたことだけれど、直に目の当たりにしてしまうと胸がずきりと痛む。美咲は私を少しだけ見てから電話に出た。
「もしもし」
部室は本当に静かだから、電話の向こうの声が私の耳にも届く。
『あー、俺。今どこにいる?』
「学校だけど……」
と言い、立ち上がって埃の積もった窓の近くまで歩いた。私には聞かれたくないのだろう。だから私も意識を逸らすように自分の携帯電話をいじるが、受話器から漏れた声が否応なしに耳に入ってくる。
「何の用事? 大事な用事じゃないなら後にしてほしいんだけど」
『大事な話だよ』
低い男の人の声。彼氏、だろうか。美咲は落ち着かない様子でふらふらと移動した。ここまで遠ざかられるとさすがに声も聞こえない。ほっとすると共に少しだけ残念だった。
「じゃあ早く言って」
「え……? 聞こえない、もう一回言って」
美咲は窓枠を指で叩く。
「……どうして」
美咲の声色が変わった。こちらに背を向けているので表情は分からない。私がいることも忘れたかのように声を荒げた。
「意味分かんない。そんないきなり電話で言われても。本当、意味分かんないよ……」
もしかして。でも、もし私の直感が当たっているとしたらどうしたらいいのか分からない。美咲は力が抜けたかのようにしゃがみ込んだ。私は迷いながらも、
「美咲?」
急いで近寄ると彼女の震える背中を見つめた。何て言葉をかけたらいいのだろう。青いベストの美咲の背中に優しく手を当ててみた。
「触らないで」
涙声で鋭く言われ、すぐさま手を引っ込める。対応の仕方を間違えたか、自分の不甲斐なさに舌打ちをしたい気分だった。そうだ、昔から落ち込んでいるときの美咲は扱いにくかった。声をかけると拒絶されるし、だからと言って放っておくと益々落ち込む。美咲からは嗚咽が漏れていた。直感が当たってしまっているのは、もう確実だった。
美咲の前に回ると、丁度つむじが見えていて髪の根元が黒かった。例え煙たがられたとしても、声をかけずにはいられなかった。
「元気出して?」
肩の震えが止まった。直後顔を上げる。そして私は肩に衝撃を受け、しりもちをついた。一瞬何が起きたのか分からなかった。美咲の突き出している腕を見て、彼女に突き飛ばされたのだと知った。声も出なかった。美咲の赤い瞳には涙が溜まっている。しばし呆然としていると、
「最低! 何も分かってない癖に!」
ナイフのように鋭い言葉が私の心をえぐった。息が止まりそうになる。
美咲が部室を飛び出してからも、しばらくの間は身動き一つ出来なかった。散乱したままのおにぎりのパッケージやパンの包みを見つめる。手さげは置きっぱなしだから、そのうち戻ってくるだろう。鉢合わせは気まずいのでごみをコンビニの袋に詰め込むと黒板の横にある灰色のゴミ箱に捨て、私は部室を後にした。