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第13話 夕暮れ時。

 部活が終わり、吹奏楽の楽器を吹く音が聞こえてくる階段を降りると、後ろから階段を駆け降りるかのような足音が近付いてきた。

「月岡さん」

 私は立ち止まってゆっくりと後ろを向いた。すると白いエナメルバッグをかけた中崎先輩の姿があった。上の方のボタンを開けたYシャツの首元から、体育着が見えている。

「何ですか」

 思ったよりも自分の声が薄暗い階段に響いた。

「話したいことがあって。ここじゃあれだから、どこかに移動しよう」

 そう言ってズボンのポケットに片手を差し込みながら階段を降りる。勝手に決められたので反発してみたくなり、

「私、まだ話を聞くなんて言ってないんですけど」

 しかし先輩は完全無視だ、振り返りもせず軽い足取りで階段を降りてゆき、ついには姿が見えなくなった。だから仕方ない、私も先輩に追いつこうと駆け足で降りる。楽器の音はだんだん聞こえなくなり、代わりに聞こえてくるのは自分の足音とかすかな女の子たちの話し声だけだった。先輩はげた箱を横目に通り過ぎ、食堂の前で足を止めた。ガラスの扉の向こうには大きなテーブルと椅子が沢山並んでいた。壁には『カレーライス三百円』と書かれた貼り紙がある。いつもは騒がしい食堂も、電気の消えた無人の状態ではどことなく不気味だった。私は一回だけグループの子たちに連れられて、具の少ないカレーライスを食べたことしかないのだけれど。いつもはグループで輪を作り教室の床に座って、母の作った弁当を口にしている。

「で、何ですか」

 私と同じく食堂を覗いていた先輩がこちらを向いた。

「いや、別にそれほど大事な話があるってわけじゃないんだけどさ」

 と言って頭をかいた。向こうから話し声が聞こえてきて、思わず黙り込む。

「大丈夫だよ、こっちに来る奴はいないだろうし」

 そうは言っても、帰ろうとする人が視線を右に向ければ二人きりの男と女の姿が目に入るだろう。だから早く話を済ませてほしかった。

「月岡さん、大会のメンバーに選ばれただろ?」

「はい。……え、でも何で知っているんですか。発表したとき、男卓はいなかったじゃないですか」

 ふと、上下関係を忘れて話している自分に気付き戸惑った。まして、目上の人に自分から質問するなんて。でも、既に泣き顔を見られているし、遠慮はいらないのかもしれない。先輩は顎を触り少し悩んだ素振りを見せながら、

「何となく、だな。前試合したとき、結構強いと感じたし」

「先輩は?」

「一応な」

 彼はにやりと笑う。

「団体戦だけか?」

「いえ、ダブルスもです」

 美咲の顔が頭をよぎった。ダブルスの練習はもうあまりしてほしくない。もっとも、もう美咲もしたがらないような気がする。

「あ、もしかして田島さんと?」

 そうです、と私が答えた。

「だから今日一緒にいたのか」

 先輩は納得したかのように何度も頷いた。

「でも良かったな、大会出れることになって」

 私は食堂のガラス戸に手を当てた。冷たさが伝わってくる。ガラスに映る自分の顔とその隣の先輩の顔を見ていたら勝手に口が動いた。

「それが良くないんです。だって私、美咲に避けられていて、だからお互いすごく気を使うし。それ以前に気まずいし」

 早口で一気にまくし立てた。私を突き動かしたのは何だったのだろう。良かったね、と言われたことに反発したかったのか、それとも先輩なら分かってくれると思ったのか。口にしてみると、あまり深刻そうに聞こえない。もう少し暗いトーンで話せば良かった。別に同情してもらいたいわけではないのだが、私にとっては寝不足になるほどの深刻な問題だ。先輩は何て答えるだろう。「それはきついよな」と同情を示す? それとも笑い飛ばす? 私には想像がつかない。

「何で?」

 先輩は私の考えたどれとも違う言葉を口にした。だからつい、「え?」と聞き返してしまった。

「何で避けられてんの。理由があるんだろ」

 先輩は眉をひそめている。そんな恐い顔で言わないで下さいよーと言ってもその顔を崩さなかった。だから私は笑いを引っ込め、とつとつと語り出した。

「中学三年生のとき、私たち二人のグループに山田さんっていう子が入り込んできたんです。山田さんはなかなか友達が出来ないみたいで、美咲は優しいから声をかけてあげたら懐いてしまって」

「ああ、あの前髪ぱっつんの子。卒業アルバムで見た」

「それです。でも、自分の自慢したり、聞いていて不愉快なことを言ったりするので嫌いになっていったんですけど、何故か美咲の前ではそんなこと全然言わなかったんです。美咲は山田さんのこと好きみたいで、どんな人なのか説明しても分かってくれませんでした」

 上手く言えなくてもどかしい。これじゃあ私が山田さんにやきもちを焼いているみたいではないか。ガラス戸に寄りかかり先輩と向き合い、しかし目は見ずに、

「山田さんといるの、嫌でした。美咲とはどんどん仲良くなっていくし。だから――だから、美咲に言ったんです」

 そこで言葉を切った。先輩は黙っている。肩幅に足を開いて立ったまま、少しも動かない。私は静かに言った。

「分かってくれないなら、美咲とはもう一緒にいたくない、って」

 そう、避け始めたのは私の方だったんだ。近寄らないようにして、目も合わせないようにして。嫌いになったわけじゃない、いつか私の元に戻ってきてくれると信じていたのだ。最初美咲は哀しげな瞳で私を見ていたけれど、そのうち諦めたのか山田さんとますます仲良くしていったのがはたから見ていても分かった。独りになって初めて、美咲がどれほど大切な存在なのかを思い知らされた。でも、謝ることなんて出来なかった。美咲のことを内心恨んでもいたし、もう二人の仲に割り込むのは無理だと悟ったから。あの頃と同じように、胃の中をかき回されているかのような感覚が身体を襲った。手を強く握ると皮膚に爪が食い込む。その痛みが私の心を安定させる唯一のもの。

 いきなり先輩が私の手をとった。無理やり開かれた手のひらには、爪の痕が赤く浮き上がっている。

「人間は皆弱いって言ったよな? 田島さんも弱かったんだよ。月岡さんだけの責任じゃない」

 先輩の手は汗ばんでいた。

「痛いよ先輩、離して」

 しかし先輩は指を強く握ったままで、離そうとしてくれない。

「あいつもそうだった。全部自分で抱え込んでしまって、結局は自分自身が壊れるんだ」

 直後、チャイムが鳴り響いた。今、何時なんだろう。何故男の子に手を掴まれているんだろう。今の状況を外から冷静に見ているもう一人の『私』がいた。

「あいつって?」

 チャイムが鳴り止んでから尋ねた。すると先輩は力が抜けたように手を離す。

「弘樹」

 ああ、やっぱりね。私の心はその事実をすんなりと受け入れた。

「弘樹は心配をかけるからとかの理由で家族に黙っていたわけじゃない。いじめられるのは自分が悪いと思っていたんだよ。だから、壊れてしまった。死を選んだ」

 曇りガラスの向こうにいるかのようにおぼろげな輪郭だった中崎くんが、今はっきりとした存在になった。リアルな、生身の人間。

「弘樹くんは、強かったと思います。私なんかよりも、ずっと」

 かすれた声で言った。

「月岡さんも一緒だよ。自分の辛いものを他人に押し付ける人間なんかよりはお前らの方が強いさ」

 その言葉は、中崎くんにも向けられたものだと思う。

腕が伸びてきて、私の頭をポンポンと優しく叩いた。羽毛布団に寝たような、全身がふわりとした感覚に包まれる。

「だから、抱え込まないで何でも話せよ。俺は、弘樹みたいな被害者をこれ以上出したくないんだ。綺麗事とかではなくてさ」

 こんなことを言われたのは初めてだ。しかも、私は恨まれても仕方のない立場なのに。私は今まで訊けなかったことを口にした。

「弘樹くんを救えなくて……後悔、していますか?」

「うん」

 先輩は即答する。私も後悔している。小テストの点数を褒めてくれたのに。短く切った髪の毛を見て「そっちの方がいい」って言ってくれたのに。

 部活帰りだろう、女の子数人が会話をしながら生徒玄関に向かうのが見えたので私は小声で呼んだ。

「先輩」

 先輩は首を少しだけ前に突き出して、ぱんぱんに膨らんだエナメルバッグの位置をずらす。重いんだろうな。私も、ぎゅうぎゅうにペンやハサミを詰め込んだペンケースや汗で汚れた体育着、宿題の出ている教科の教科書が入っている通学バッグが肩に食い込んで痛くなり始めていた。なるべく手短に話そうと、私はいきなり本題に入った。

「私、弘樹くんが自殺したのには、美咲が関係していると思っているんです」

 ずっと前から薄々思っていた。いじめが原因である、けれど中崎くんにとっては『美咲』にいじめられたのがショックだったのではないか。周りの空気がざわついた気がした。

「どういう意味?」

 自分自身にも言い聞かせるように、私は一つ一つの言葉をしっかりと発音する。

「まだ仲が良かった頃、美咲は色々言われる弘樹くんに同情してて、何度か声をかけたことがあるんです。かけた言葉自体は他愛のないものだったんですけど、弘樹くんに女の子が話しかけることってあまりなかったので、嬉しかったと思います。それなのに、山田さんの影響で弘樹くんをいじめるようになって……」

 私は先輩の顔色をうかがった。真剣な表情で、話を聞いてくれている。

「弘樹くん、美咲のことが好きだったような気がするんです。私たちのこと、よく見ていたし」

 中崎くんの話をしていると自然と視線が彼に向いてしまう。すると、向こうもこちらを見ているのだ。目が合った。おそらくあれは、美咲を見つめていたのだろう。あの頃はそのことに気付かなかったのだけれど。

「それはないような気がするけどなあ」

 先輩は口の中で呟いた。

「え?」

 うっかり間抜けな声を出してしまった。てっきり、頷くものだと思っていたのに。否定する要素はどこにあるのだろう。先輩は突然胸ポケットから携帯電話を取り出すと、

「もう七時半過ぎてるな。そろそろ、帰ろうか」

 ディスプレイが強い光を発している。時間を聞いて、私は青ざめた。

「やばい、門限八時なのに。今、何分ですか」

「三十一分だけど」

 私の頭は計算を始める。いつもなら三十分ちょっとかかるが、夜なら交通量も少ない。今は一階にいるから階段を降りる時間もかからない。ぎりぎり間に合うはずだ! 私は宣言した。

「私、先に走って帰ります!」

「あんまり急ぐと危ないぞ。つーかごめん、俺のせいで。もし間に合わないで叱られたら、先輩が帰らせてくれなかったとか何とか言っていいから」

「はい、さようなら」

 私は走り出した。通学バッグが揺れて身体に当たる。後ろから、「またな」という声が聞こえた。

 生徒玄関から外を見ると真っ暗だった。少し前はまだ明るかったのに。私はローファーを足に突っかけ、車のライトが光る夏の夜へと飛び出した。

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