第11話 団体戦。
あっちゃんが部活を辞めると言い出した。
「大会まであと一ヶ月くらいじゃん」
「辞めないでよ」
狭い部室の中、部員たちは口々に言った。あっちゃんは誰とも目を合わせようとせず、いじけた子どものように、
「だって、私下手だもん。卓球」
「とりあえず、座って話そう? 皆も、ほら」
美咲が優しく言い、部員は輪を作って床に座った。
「それで、下手だから辞めたいの?」
美咲があっちゃんに顔を向けた。膝を抱えたあっちゃんはくぐもった声でうなずく。
「温美は下手じゃないよ。高校に入ってから始めたわけだし、頑張ればまだまだ上手くなるって」
私も三年前に美咲に言われたことがある。なかなか上達しなくて嫌になって「辞めたい」とこぼしたら、今と同じような優しい表情で彼女は諭してくれた。踏みとどまるようにと。他の人にも同じ言葉をかけるなんて。私は二の腕を強く握った。
「そうだよ」
「あっちゃんならやれば出来るって」
部員たちが励ましの言葉をかける中、隣に座るナツエが耳元に顔を近づけてきた。
「辞めればいいのにね」
その囁きは私にしか聞こえていないだろう。あっちゃんを嫌っているのはナツエだけではない、私のグループ全員だ。だから、教室ではなるべくあっちゃんと話さないように気を付けたりした。グループほど面倒なものはないと、つくづく思う。
辞めると言い張るあっちゃんに、美咲は話し出した。
「あのね、あたしが中一のとき、ある卓球部の人も今まで卓球をやったことがなかったらしいの。しばらく経って、その人も温美と同じように辞めたいって言ったんだ。でも辞めずに続けたらそのうち上手くなってきて、大会にも沢山出れたの。だから、温美ももう少し頑張ってみない?」
即座に気が付いた。私のことだ。美咲の方を見たら一瞬だけ目が合ったが、すぐに視線を泳がせ、二度と私を見ようとはしなかった。
「温美は素質あると思う。だから、辞めないで」
「そうそう」
あっちゃんは女卓の中では結構人気者だ。彼女は心が動いたらしく、皆を一瞥し、
「辞めない方がいいのかな……」
と戸惑うように言った。辞めない方が絶対いいって! うん、そうだよ。等の声が飛び交う。美咲はあっちゃんの肩に手を置き、力強く言った。
「温美は、女卓に必要だよ」
そしてあっちゃんは部活を続けることにした。馬鹿馬鹿しい、そんな他人の言葉に簡単に心が揺らぐなんてと思いながらも、皆の声を受け取って嬉しそうに微笑むあっちゃんから、私は目が離せなかった。もし私が辞めると言ったら、引き止めてくれるのは一体何人いるのだろう? 試す勇気はない。美咲の反応を見るのが怖かったから。
「じゃあ、そろそろ部活始めよう。今日は団体戦でもやる?」
美咲が提案した。
「賛成!」
この前、ジャスコで美咲と一緒にいた部員が勢いよく手を挙げる。すると美咲と仲の良い部員たちが次々と賛成の言葉を口にした。私はまだ何も言ってないのだが、そういう発言力のある子たちが賛成すれば自動的に決まるのだ。まあ、そういう人がいなければ学校は成り立たないのだけど。
そして二つのグループに分かれた。美咲とあっちゃんは同じグループになった。じゃんけんで順番を決め、さあ団体戦の開幕だ。こちらのグループの一番はあっちゃんだ。緊張した面持ちで卓球台の前に立った。体制相手のナツエが余裕そうにラケットを回転させ、不敵な笑みを浮かべる。私は柱に背中を付けて座った。同じグループの人は頑張れーと上辺だけの歓声を試合する二人にかけ、棚の前に人の輪を作りお喋りを始めた。私は身体を縮める。ナツエもあっちゃんも試合中となると、お喋りする相手が私にはいなかった。笑い声が上がるたび、孤独感が増した。美咲の方を極力見ないようにし、物思いにふける。
得点板を覗くと思ったとおり、五点もの差を付けられていた。すると派手な部員と喋っていた美咲が顔を向け、
「挽回出来るよ、温美」
と声をかけた。あっちゃんは美咲を見て微笑むと口を真一文字に結び、ラケットを構え直した。全て、私には遠い出来事だった。
結局勝ったのはナツエだ。あっちゃんがごめんね、と今にも泣きそうな顔でグループの全員に謝ると、部員は何回もうなずきながら彼女の肩を叩く。反吐が出そうだ。あっちゃんが好きとか嫌いとかの問題ではなく、私がとうの昔においてきた光景なんて見たくないし、馬鹿らしい。
そして、私の順番がやってきた。相手は美咲と仲の良い、化粧が落ちかけて目の周りが真っ黒になった女の子。負けたくない。私はグリップを強く握った。そして順調に点を入れてゆく。声援は全く聞こえてこない。どれだけ女卓の友達が少ないかを思い知らされた。美咲に気を取られすぎてて、気が付いたらあっちゃんとナツエしかいなくって。試合が終わると、他の子と喋っていたあっちゃんが振り返って言った。
「お疲れー」
不覚にも、嬉しかった。
団体戦を締めくくるのは、人数の都合でもう一試合することになったナツエと美咲だ。現在四対四の引き分けで、この試合でグループの勝ち負けが決まる。いつの間にか私のすぐ側のドアに寄りかかったあっちゃんが、
「どっちが勝つかな?」
とえくぼを浮かべて訊いてきた。
「ナツエかも」
私が答える。そう、ナツエは柔らかそうな癖のある髪を一つに結って、更に垂れ目というおっとりとした風貌とは裏腹に、一年の中では一番卓球が上手いと言われている。
「美咲ちゃんの応援してくるっ」
あっちゃんは立ち上がって卓球台に駆け寄った。
「美咲ちゃん、サーブ慎重ー」
と、声をはる。すると、それにつられたかのようにお喋りをしていた美咲の友達も座ったまま、
「一本先だよ」
「集中だよ、美咲」
と応援し出したものだから私は戸惑った。だって、私は、応援なんて出来ない。白い目で見られたらどうしようとか、迷惑に思われるかもとか、色々な考えが頭の中を駆け巡り、私はたまらず部室を抜けてトイレへ駆け込んだ。
ドアを閉めると電球の切れたトイレはたちまち自分だけの空間になり、心が落ち着いた。深呼吸をする。しばらくして個室から出ると、洗面台の上についている鏡を見つめた。写るのは、目の下に青いクマが出来た冴えない私の顔。ちっとも生き生きとしていない、死んだ顔だ。最近付けるようになったマスカラのダマが睫毛に固まっていた。私は水道をひねって生ぬるい水を両手ですくい、バシャバシャと顔を洗った。マスカラも美咲への思いも全て流れてしまったらいい。タオルを持ってきてなかったので、個室にセットしてあるトイレットペーパーを巻き取り顔をこすった。
「そろそろ、どうにかしないとなあ」
私は呟いた。でも、どうやって? とりあえず今の私がすることは、こうやってトイレに駆け込むことではなく、現実を直視することだと思う。中崎先輩の言葉、逃げていたらいつまでも苦しいままなんだよ――そうなんだよね。私は重い足を引きずり部室へと戻った。
三点差だった。ばつが悪そうに笑う美咲に部員たちが励ましの言葉をかけている。勝てなかったのか。ナツエを見ると、当然だと言わんばかりの顔で同じグループの部員の言葉を受け取っていた。壁に掛けてある時計に目をやると、ちょうど部活の終わる時間だ。
「どこ行ってたの?」
驚いて振り返ると、そこにはあっちゃんが立っていた。
「美咲ちゃんが試合しているとき、いなかったよね」
「ああ、トイレ行ってたの」
「あれ、希里マスカラ落とした?」
これにはもっとびっくりして、
「え、気付いてたの? マスカラ塗ってること」
「うん」
あっちゃん、そんなに私の顔見てたんだ。クラスのグループ――その中にはナツエもいる――は全く気が付いていない様子だったのに。呆然とあっちゃんの顔を見つめていたら気付いた。今、初めて。あっちゃん、アイライン引いてるんだ。間近で見たらすぐ分かることなのに、何故今まで気が付かなかったのだろう。多分私は、他人の顔なんて見てないんだ。美咲に気を取られすぎていると、何か大切なものを失ってしまうような恐怖感が沸いてきた。
「あっちゃん、いつか一緒に遊ばない」
自然とそんな言葉が出た。
「え、いきなり何だよー。でもそうだね、いつか遊ぼっか」
あっちゃんは笑顔で答えてくれたけど、本心から出た言葉なのかは分からなかった。
「じゃあミーティングがあるから皆二階に行って」
美咲がラケットをしまいながら言った。
「行こ、希里」
あっちゃんは私の腕をつかんだ。私は、まだ失っていない。もうこれ以上、失いたくない。
「うん!」
そしてあっちゃんと一緒に部室を出た。
「そろそろ、夏の大会に出場するメンバーを決めたいと思う」
顧問が紙を見ながら言った。私は乾いた唇を舐めて唾を飲み込んだ。女卓全員がいるフロアーは重々しい沈黙に包まれる。始めの方は二、三年生の出場メンバーだ。顧問が発表すると先輩たちは騒ぎ出したそして、一年の出場メンバーは。私は耳に意識を集中させた。
「――福山、新崎、田島、月岡。以上が団体戦の出場メンバーだ」
よっしゃと思い、私はこぶしを握った。隣に名前が呼ばれなかったあっちゃんがいるのを思い出し自分を制止する。次にダブルスなどのメンバーが呼ばれるわけだが、私は嬉しくてほとんど上の空だった。
しかし、その言葉は聞き逃さなかった。
「一年ダブルス出場メンバーは、田島・月岡のペアだ」
すぐには事態が飲み込めなかった。しかし、
「えっ、美咲と月岡さんが?」
という声が聞こえてきたので、どういうことを表すのかじわりと頭の中に浸透してきた。美咲は私の後ろに座っているはずだ。振り返ることは出来なかった。美咲の声は聞こえない。
「先生ー、何で美咲と月岡さんなのー?」
と部員が尋ねた。あ、私ってあの子に嫌われていたんだ。しかしそんなことはどうでもいい。私も何故? という気持ちが大きかった。顧問なら交友関係くらい頭に入れておけよ、と叫びたい気持ちだ。
「田島は攻めが中心、月岡は守りが中心だろ。丁度良いんだよ。相性の良いペアなんだ」
相性の良いペア、皮肉な言葉だ。そして既にどうやって大会当日休もうか考えはじめていたのだから、やっぱり私は美咲から逃げているのだと感じた。