欠け落ちた記憶-5
滞在は十日間に及んだ。わたしはその間ティーポスの街を見て回ったり、城の資料室で調べ物をしたりして過ごした。けれど時間がいくらすぎても記憶は戻らず、また、記憶を取り戻す手がかりも掴めなかった。
「どうしたものかな」
机の上に本を開きっぱなしにしたまま、わたしは肘をついて視線をさまよわせた。城の資料室には膨大な量の蔵書があったが、そのほとんどが読めない文字で書かれていた。古代文字や精霊文字くらいなら何とか雰囲気でわかるものの、魔族が固有で使っている文字に至っては見当もつかない。
窓から差し込む光の揺らめきを目で追いながら今後のことを考える。
ウェルネスさんがわたしについて知っていることは大体教えてもらった。賞金稼ぎを生業にしていたこと。レム=ファウスターという凄腕の魔法剣士の弟子であったこと。海をも凍らせることが出来るというビゼ=アの宝剣の持ち主であること……けれど、そのどれもに実感は伴わなかった。
このままここにいても記憶は戻らないだろう。ティーポスには記憶に引っかかるようなものが少なすぎる。記憶を取り戻すにはもっと何か記憶を思い出せるような強烈な刺激が必要なはずだ。
「何かわかったか?」
部屋の中に入ってきた男を一瞥し、わたしは再び本の上に視線を戻した。
「特に何も。あえて言うなら知っていることが多すぎて、自分が余計にわからなくなったことがわかったくらい」
そう。古代文字も精霊文字も一般人なら見たこともないような代物だ。読むことができた書物の内容も大半は知っているものだった。何だってこんなマニアックな知識があるんだろう。
「ややこしいことを言うな」
ゼンは苦笑しながらわたしの席の隣に来ると、腰をかがめて机の上に広げてある本を覗き込んだ。
「何を読んでいるんだ?」
「時空の研究。記憶にまつわる本も見当たらないし、読める本も少ないしね」
『時空の研究』は魔族だけが扱える闇の魔法について書かれた五百年以上前の本だ。魔族がどのようにして空間を渡るのか。その際に利用する次元の狭間とは何か。推測と考察が延々と綴られている、結構レアな代物である。
「これが元になって水鏡が作られたんだから、大したもんだわ」
水鏡とは西の大国ビゼ=アが開発した通信設備のことだ。離れている場所の映像を映し出し、直接会うことなく連絡を取り合うことができるという。水の振動を利用して音まで伝えられるというから驚きだ。
「あれがあれば知ってる場所を探せるかもしれないんだけどなあ」
ぼんやり独り言のように呟くと、ゼンが唐突に体を起こした。
「似たようなものならあるぞ。遠見用のものだが機能に不足はないはずだ」
わたしは慌てて立ち上がった。
「どこにあるの?」
勢い込んで問いかけると、ゼンは体を起こして部屋の出口へ歩き始めた。
「遠視の間だ」
本を閉じてゼンの後を追う。いくつもの階段を登り継ぎながらたどり着いたその場所は、島全体を見渡せるくらい見晴らしのいい尖塔の中にあった。
「これだ」
部屋の中央に配置された大きな水盆へ向かうゼン。黒い石で作られた装置の前に立つと、わたしは器の縁いっぱいに湛えられた水面を覗き込んだ。水面は静かに天井を映している。
「場所は水鏡の枠を使って指定する」
よく見ると石の装置には細かな目盛りとそれを線でつなぐ溝が彫り込まれていた。その円形の溝には赤く輝く独立した小さな石が二つ取り付けられており、水鏡の枠に沿って自由にスライドするようになっていた。どうやらこれで緯度と経度を指定するらしい。
「幾つか国を見せるから気になったら教えてくれ」
ゼンはそう言って水鏡の石を動かした。すると、水面はその振動で細かく震え、ゼンの動きが止まるや否やくっきりと今ここではない場所の風景を映し出した。
けれどわたしは首を振った。最初に映った景色は特に見覚えがなかった。
「次、いくぞ」
ゼンは根気よく水鏡を操作していった。様々な国の風景が現れては消え、消えては現れる。そうこうしているうちに、さすがに気になる国が幾つか出てきた。インゼリオ、スーザニア、ビゼ=ア、それにガルディナだ。
「これ、本当にガルディナよね」
つい言葉が漏れてしまったのは、火の消えたようなひっそりとした静けさが水面を通して伝わってきたからだった。
「ああ。座標に間違いはない」
ガルディナは東の大陸において海炎と並び立つ大国である。都市部の人口は少なくとも三十万人は超えるはずだ。それなのに映し出された映像には活気が全く感じられなかった。
「スペイリーさんが落ち込むわけね」
わたしがここへ来てから二人は本当に良くしてくれた。住む場所の提供、食べ物の世話、安全の保証。行きずりの相手をこうまで手厚くもてなしてくれる人なんて滅多にない。
「……ゼン、わたしガルディナへ向かうわ」
記憶は未だ戻らない。けれどこのままここで無為に時間を潰すよりも、二人の役に立ちたかった。
「考えてみれば自分のことを思い出せないことはガルディナ救出にはあまり関係ないわけだし。ガルディナの異常を解決してからでも遅くないわ」
その言葉を聞き、ゼンは感心したように頷いた。
水鏡から映像が消え、そこにわたしの姿が映り込む。藍色の髪にハシバミ色の瞳。何かを決断したかのような表情の少女がこちらを見返していた。
「レン=シュミット様」
突然背後から声がして、わたしとゼンはほぼ同時に振り向いた。
「今の言葉……本当によろしいのですか?」
部屋の入り口に現れたスペイリーさんがわたしに走り寄る。その後ろからウェルネスさんが彼女に付き添うように進み出た。
「ええ。わたしも妙にあそこが気になるの。ひょっとしたらガルディナへ行けば何かわかるのかもしれないわ」
笑いかけるとスペイリーさんもつられるように笑顔になった。うん。この人には笑顔が似合う。
「ウェルネス。俺も行くぞ」
ゼンが急にそんなことを言いだしたので、わたしは驚いて相手の顔を見上げた。
「あの状況、奴等が一枚噛んでいる可能性が高い」
わたしの横に立ち、深刻そうな表情を浮かべるゼン。奴等が一枚噛んでるって……奴等って誰だ?
「わかった。もしそうならば私にも考えがある」
ウェルネスさんから凍えるような妖気が発せられ、わたしは思わず腕をさすった。敵意を直接向けられているわけじゃないのに肌が緊張に痺れる。
「ウェルネス」
けれどその緊張を破ったのはスペイリーさんだった。彼女はウェルネスさんにすがりつくと小さく首を振った。
「もう誰も傷つけないと約束したでしょう?」
声を震わせながらも気丈に意見する彼女の姿に魔王は複雑な表情を浮かべた。彼はスペイリーさんの肩を抱くと「悪かった」と呟いた。が、わたしにはそれが形だけの謝罪のように思えた。恐らく、ウェルネスさんは彼女に危害が及ぶようなことがあればその元凶を断つのに躊躇うことはないだろう。
「とりあえず街で支度をするわ。その間にスペイリーさんには頼みたいことがあるの」
わたしは気持ちを切り替えるように彼女に声をかけた。おずおずと顔を上げるスペイリーさん。その目は若干赤らんでいる。
「ガルディナの地図をわかる範囲でいいから書いておいてくれないかしら。あと、何か思いつくようなことがあればメモしてくれると助かるわ」
スペイリーさんにはスペイリーさんにしかできないことがある。わたしがそう告げると彼女は力強く頷いた。
「それじゃ行動開始ね」
ガルディナで何が待ち受けてるのかはわからない。けれど、こちらには強力な味方がいる。何があろうと切り抜けられるはずだ。
窓に映る突き抜けるほど青い空を眺めながら、わたしはガルディナに平穏を取り戻すことを誓ったのだった。