欠け落ちた記憶-4
ところが王の間はもぬけの殻だった。ウェルネスがいそうな場所を片っ端から探したのだが、魔王はおろかその奧さんの姿すら見当たらない。それどころか通常は城で働いているらしい魔族の姿もそこにはなかった。ゼンはさすがにおかしいと感じたらしく、思案顔になった。
「……嬢ちゃん、この時間だとあの二人は庭に出たのかもしれない」
何か思い当たったのか、ぽつりと呟くゼン。わたしは首をかしげた。
「さっき通ったときには誰もいなかったようだけど」
気を取られることがあったにせよ、さすがに人影を見れば気がつくはずだ。が、あそこには誰もいなかった。
「いや、俺が言っているのは表の庭のことじゃない。庭は城の裏側にもあるんだ」
言うが早いか、ゼンは大きな足取りでその場所へ向かった。それから裏庭へ続く扉を開けると、そこには賑やかな笑い声があふれていた。
あちらこちらを走り回りながらデイアの花を摘むベアフェイス達やそれを満載した花かごを持って飛び回るハーピー達。華奢な作りのテーブルをセッティングしているヒョウ頭の男の魔族。セッティングされたテーブルにティーセットやクッキーなどをどんどん並べてゆく、背が低くて年老いた鷲鼻のメイドさん達。様々ないでたちの魔族が、それぞれ楽しそうにお茶会の準備を進めている。
「ゼン、遅かったな」
裏庭へ続く扉が開け放たれたことに気づいたのか、彼等の中心にいた黒い長髪の青年がゼンに声をかけた。
「ゼン? あら、本当にゼンだわ」
その男の声を聞き、地面にかがんで花の手入れをしていた女の人が立ち上がる。顔は土で汚れていたが、ふんわりと優しげな雰囲気の女性で、その微笑みは春の陽だまりのように暖かく感じられた。
「少しお時間くださいね。あとちょっとで準備が終わりますから」
朗らかに笑いながらその人は近場に用意されていた水瓶へ汚れを落としに行った。
「そちらはレン=シュミット嬢だな」
ゼンの後ろに隠れるように立っていたわたしは、名前を呼ばれて前へ進み出た。
「はい」
まだその名前はしっくりこなかったけれど、他には答えようがなくて頷く。
「よくぞ参られた」
誰、と紹介されなくてもその風貌から相手が誰なのかはすぐにわかった。
青いラインが入った白い服を着た理知的な雰囲気を持つその人は金と銀のオッド・アイの持ち主だった。周囲を漂う魔力には同じ空間にいるだけで肌を粟立たせるような威圧感がある。人ならざる美貌がそれに拍車をかけていた。
「さあ、支度が調ったわ。皆さん、お茶にしましょう」
本題に入る前に明るい声が割り入った。その声と共に穏やかになった魔力の波に、わたしはそれが魔王の奧さんであることに気づいた。さっき膝をついて雑草を抜いていた女の人だ。
「レン=シュミット様、お初にお目にかかります」
菫色の瞳を嬉しそうに潤ませて、その人は微笑を浮かべた。蜜色の髪はふんわりとしていて柔らかく、彼女の雰囲気によく合っている。動きやすそうな身なりをしていたが、隠しきれない気品が滲み出ていた。
「さあ、そちらの席へどうぞ。ゼンも今日は付き合ってくれるわよね?」
ニコニコと笑いながら席を勧める女の人。わたしもゼンも勧められるがままに席に座った。
座るとすぐに先ほどのベアフェイスがトレイを持って歩いてきた。茶色のふわふわとした毛に覆われたその魔物は、わたしに無言でトレイを差し出した。ベアフェイスはその名の通り小熊が直立したような姿をしており、甘い物に目がない可愛らしい魔物だ。性格も比較的温和で魔族としては弱い種族の一つでもある。
「ありがとう」
そこには淡い色合いのお茶の入ったティーカップと焼き菓子が盛られた籐かごが一組乗っていた。ニッコリと笑いながらそれを受け取ると、彼もまた照れるように毛むくじゃらの顔で笑った。
「あ、そうだ」
ふと思いつき、後ろへ下がろうとした相手の肘を捕まえる。ベアフェイスはキョトンとした顔でわたしを見上げた。何も言わずに相手の手を取って焼き菓子を三枚乗せると、彼はもじもじしながらそれを受け取り、ペコンとお辞儀をして先程よりももっと後ろの方に下がった。
「どうやら彼は貴女に好意を持ったようだな」
その様子を見ていたウェルネスさんが表情を和らげる。隣の席に座った奧さんも穏やかな笑みを浮かべていた。
「優しいのですね」
気恥ずかしくなって視線の置き場を探してたら誰かの視線を感じた。で、そっちの方を見たらゼンの奴が顔をタコみたいに赤くして視線をそらした。変な奴。
「ところでわたしに用って何ですか?」
少しばかりお茶をいただいた後、わたしは場の空気がなごんできたのを見計らって本題に入った。すると、途端にウェルネスさんの顔が強ばった。奧さんの表情にも陰が落ちる。
「そうだったな。だが、まず礼を言おう。偏見を持たず、私の求めに応じてくれたことに」
真剣そのものの眼差しを真っ向から見返し、わたしは重々しく頷いた。
「手紙にも書いたように貴女の力が貸りたい」
手紙と言われてもピンとこなかったが、ゼンがさっきわたしの小物入れから取り出した紙をテーブルの上に置いたのでようやくそれがウェルネスさんからの手紙だったことがわかった。
「スペイリーの生まれ故郷、ガルディナを救ってほしいのだ」
わたしはそれを聞いて目を白黒させた。
「どうかお願いいたします」
寂しげな表情を浮かべ、その女の人……スペイリーさんは深々と頭を下げた。
「ガルディナを救う……」
色々な情報が頭の中を駆け巡った。たしかスペイリーってガルディナ王国の第一継承者の名前だったはず。その彼女が何故こんなところにいるんだ? それも魔王の妻の座に納まっているだなんて。
「そう。ガルディナは人が統治する国だ。私が直接手を出すことはできない」
ごく最近、同じことを他の誰かから頼まれたような気がしてわたしは顔をしかめた。強い既視感に頭の奥の方で痛みが走る。
「どうした?」
表情の変化を見逃さずウェルネスさんが尋ねた。わたしは痛みが落ち着くのを待ってから口を開いた。
「何か思い出しそうになったんだけど、思い出せなくて」
それだけでは言葉が足りないことに気づく。さらに理由を話そうとしたところ、わたしの代わりにゼンがそれを補った。
「嬢ちゃんは今、記憶の一部を失っている。俺が海岸へ迎えに行った時は自分の名前すら覚えていなかった」
それを聞いてウェルネスさんとスペイリーさんは顔を見合わせた。
「まさか……だが彼奴が直接連れて来なかったのはそう言うことか」
何やら考え事をしながら独り言を呟くウェルネスさん。スペイリーさんもまた不安そうにわたしを見ている。
「そんなに深刻にとらえなくてもいいわ。生きるのに支障が出るほど何も覚えていないわけじゃないし。幸い忘れているのは自分のことだけみたいだから」
精一杯明るく振る舞ってみたものの、スペイリーさんは首を振った。
「それでもその記憶は貴女にとって最も大切なものの一つでしょう?」
指摘されてうっかり涙が出そうになった。確かに過去の自分がわからないということは酷く不安で頼りない状況だ。いつ足下を掬われるかもわからない。
「しばらく城に滞在するがいい。街にも自由に出入りしてもらって構わない。そして何か思い出すことがあれば、改めて私と彼女の願いを聞いて欲しい」
ウェルネスさんの申し出は揺れた心にとどめを刺した。わたしは黙って頷き、その好意に甘えることにした。