欠け落ちた記憶-3
フェイドゥにそびえる巨大な山の麓にたどり着いたとき、わたしはその見たこともない街並みにすっかり言葉を失っていた。街は山肌を階段状に掘り込んで作られており、蜂の巣のような様相を呈している。その足下には鈍色に光る湖と鬱蒼と茂る森が広がっていた。
「ここがフェイドゥの中心街、ティーポスだ。ウェルネスはこの街の最上部へ城を構えている」
ゼンの説明を聞きながらわたしはその変わった形状をした街を見上げた。
街は大まかに四つに分かれており、そこに住む魔族の生態に合わせて細部が作り込まれているようだった。
例えば城の近くにある居住区の辺りは入り口がひどく広く掘り込まれていた。あれは恐らく風属性の魔族が利用している洞穴なのだろう。遠目からも翼ある者が群れているのがわかる。反面、その下にある居住区の出入り口は狭く、細かな横穴が数多く用意されているようだった。そこは四つ足の魔族達の住処らしく、毛むくじゃらの魔族がせわしなく動き回っているのが見える。さらにその下には大きな洞穴が二つあり、それぞれ水生魔族と地面を這う魔族の住処になっているらしかった。
「統率が取れてるのね」
それがわたしの感想だった。魔族は人間以上に気まぐれな生き物だ。その彼等が一カ所にまとまって生活を営んでいるなんて誰が想像できるだろう。
「ああ。ここに住居を構える者達は皆ウェルネスに忠誠を誓っている」
街の脇から直接最上部へ抜ける道へわたしを案内しながらゼンは続けた。
「だが、最近のあいつは嫁さんにかかりっきりで、それに反感を持っている奴もいないわけじゃない」
話しているうちに大分高いところへ登ってきた。ゼンは一旦立ち止まると遠くに見える海岸近くの緑の茂みを指さした。
「あの辺りの草花も彼女がここへ来てからウェルネスの命によって植えられたものだ」
ゼンの説明を聞いているうちにわたしの中の魔王像はボロボロと崩れていった。魔王様はどうやら自分の奥さんにベタ惚れらしい。その意外な一面は胸中に潜んでいた恐怖心を少なからず薄れさせた。この分ならウェルネスの用事も大したことではないのかもしれない。
「よっぽどその人が好きなのね」
「そうだな。見ている方が恥ずかしくなる」
再び歩き出したゼンの後ろを足取り軽くついてゆく。心に余裕ができ、わたしは魔王の奥さんとやらがどんな人なのか想像を巡らせた。
ゼンの話から推測すると、その人は最近フェイドゥに来たばかりだと思われる。魔族同士の結婚がどんなものかは知らないけれど、ウェルネスのように何千年も生きてきた魔族がその人にかかり切りってことは、余程素晴らしい人に出会えたのだろう。
想像したら自然と顔がほころんだ。相手が魔王だろうが誰だろうが、人の幸せって奴はいいものだ。
わたしはしばらくニコニコしながら歩いていた。が、ふと視線を感じて顔を上げた。すると、ゼンが不思議なものでも見るような表情でわたしを見ていた。
「もう着いたの?」
上の空だったことに気づき、慌てて尋ねる。いつの間にか目の前にはドーム状の城壁が立ちはだかっていた。城壁、といっても透明な物質でできているようで、向こう側の風景が透けて見える。
「あ、ああ。ここだ」
ゼンは突然尋ねられて驚いたのか少し顔を赤らめながら答えた。それからわざとらしく一つ咳払いすると、城壁の向こう側にある城を指さした。
「あそこにウェルネスは住んでいる」
壁の奥には美しく整備された庭と青磁のような色合いの瀟洒な城が建っていた。ここがフェイドゥでなければあれが魔王の城だとは到底信じられなかっただろう。
「入り口はどこ?」
見渡す限り城壁に入り口らしきものは見当たらない。一歩前に進んで城壁に触れようとしたところ、ゼンは慌てた様子でわたしを止めた。
「それに触れるな。死ぬぞ」
すんでのところで動きを止め、わたしはそのままの姿勢で後ろに下がった。
「そういうことは始めに言いなさいよっ」
ジトッと睨み付けるとゼンは眉尻を下げた。
「す、すまん。この城壁はウェルネスと縁を結んだ者にしか開くことはできないんだ」
そう言うとゼンは城壁の方へ進み出てその障壁に片手をかざした。すると、わたしが近づいたときには何の変化も起こさなかった透明の壁はゼンの掌に向かってグニャリと盛り上がった。そして、盛り上がったと認識するや否や、それは外側に向かって楕円形の入り口を作った。
「まあ、ともかく城へ行こう」
ゼンは先にわたしを城壁の中へ入れると、自分もその後に続いた。ゼンが通り抜けると城壁は何事もなかったかのように口を閉じた。
ドームの中に足を踏み入れると甘い香りが鼻孔をくすぐった。見ると大地には星を散らしたような花園が広がっていた。淡い青色の花々は風になびいて優しげに揺れている。
「この匂い……」
何となく覚えのある香りだった。どこで嗅いだのかは思い出せないけれど。
わたしは腰をかがめて足下に咲く花に手を伸ばした。星のような形をした小さな花は、触れると燐光のような花粉を散らして甘い匂いを漂わせた。
「デイアの花だ。これも嫁さんに頼まれたらしい」
ゼンはそう言ってわたしに手を差し伸べた。わたしはその分厚い掌を支えに立ち上がったのだが、触れた瞬間に違和感を感じてすぐにその手を離した。
「……何これ」
見ると、触れたところに赤い発疹が出ていた。じんわりとそこから痒みが広がってゆく。
「どうしたんだ?」
元凶とおぼしき男はのんきにもひょこっとわたしの掌を覗き込んだ。
「あんた変な病気なんか持ってないわよね?」
手をポリポリと掻きながら聞くと、ゼンは憤慨して「そんなものあるか!」と怒鳴った。
「人の親切を何だと思っている」
ふむ。確かにゼンはわたしが立つのに手を貸してくれただけだ。危害を与えるつもりならさっき城壁に触ろうとしたのを止めたりはしなかっただろう。それにそれ以前にも機会はたくさんあったはずだ。
「疑ったりして悪かったわ」
すぐに謝るとゼンは憮然としたまま頷いた。とは言え、こいつの中の何かがわたしに影響を及ぼしたのは間違いないだろう。それが何なのかわからないうちは不用意に触らない方がよさそうだ。
それから城へたどり着くまではお互い無言だった。仮に話しかけられたとしても、わたしは手の痒みのせいで集中できなかっただろう。けれど、今やその痒みは我慢できるほどに落ち着いてきていた。
「立派な城ね」
ウェルネスの城は近くで見ると繊細な装飾が所々に施されていた。窓にはめ込まれた硝子は空の青を映して群青色に輝き、青磁の壁面をより際立たせている。
「ああ。この城は俺達魔族の誇りだ」
ゼンは自信に満ちあふれた顔で頷くと、一ロッド(約五メートル)ほどの高さの扉を外側へ引いた。重厚な扉が弦楽器のような低音を響かせながらゆっくりと開いてゆく。
わたしは再び緊張の波が押し寄せてくるのを感じて唾を飲み込んだ。ここまできたらもう後戻りはできない。
艶やかに磨きぬかれた石畳の床を踏みしめながらわたしは魔王の元へ向かった。