欠け落ちた記憶-2
潮騒はすぐ近くから聞こえていた。体はポカポカと暖かく、なんだか眠くなりそうなくらい気持ちがいい。わたしは無意識に自分の視界にあるものを見つめ続けた。白い、それは白く輝く細かな砂だった。
「……」
随分長い間、わたしはそれに見とれていた。ただ白いと感じていた砂にもそれぞれ個性があるらしく、同じ形のものは一つとしてない。小さな貝殻がそこに埋もれているのも発見した。
それはすごく静かな時間だった。このまま自分はさらさらと崩れてこの浜辺の一部になるんじゃないかと思えるくらいに。
「んーっ」
けれど、無論そんなことが起こるはずがない。じっとしているのにも飽きてしまってわたしは体を起こして固まった筋を伸ばした。
「ここ、どこだろう?」
海はラリマーのような淡い水色を湛えており、日の光に透けて何層もの様々な青色に輝いている。波打ち際には銀のナイフのような小魚が集まっては離れ、離れては集まってを繰り返していた。左右に広がる白い砂浜はわたしの知る限り最もきめ細やかで大地に敷き詰められたビロードのような輝きを放っていた。こんな場所、見覚えがない。
「……」
いくら考えてもわからない。そもそも、わたしはどうしてこんなところにいるんだ? いや、それ以前にもっと重大なことがある。わたしは一体誰なんだろう?
「は、はは」
乾いた笑いが口から零れた。何度思い出そうとしても思い出せない。靄がかかったように『自分』に関わる情報だけがすっぽりと抜け落ちてしまっている。
「困ったな」
口に出して言ってみると余計に状況の悪さが身にしみた。けれど、わたしは本格的に気持ちが落ち込む前に気持ちを切り替えることにした。自分の力だけでは解決できない状況に悩んでみても何かが変わるわけじゃない。それよりも記憶を取り戻す方法を探した方がよっぽどいい。
「えっと、今手元にある物は……」
わたしは手始めに所持品を確かめることにした。
まだ買い替えたばかりと思しき白いレザーアーマー。肩パッドは灰青色の外套とセットになっている。武器は青玉でできた短剣にクロスボウ。ただし矢はない。それに腰に下げた小物入れ。中には何やら生活必需品らしい細々とした物がつまっている。どうやら物の名前やその使い方なんかは忘れていないらしい。
「他にも何か忘れてるような気がするんだけど……そうだ、お財布!」
懐をまさぐってみたけれど、あのずっしりとした重量感はどこにもなかった。
わたしはしばらく肩を落としていたが、そうしていても仕方がないので立ち上がった。とりあえずここを探索してみよう。何かわかるかもしれない。
外套や体についた砂をポンポンと払って、わたしは浜辺を見渡した。砂浜には人が歩いたような形跡がない。そこにはわたしが横になっていた跡しかなかった。ということは、少なくともわたしはここの人間ではないのだろう。どんなに軽くても陸地から砂浜に向かって痕跡を残さず歩ける人はまずいない。風属性の魔法を使う道具も所持していないみたいだし、飛翔を使ったわけじゃないだろう。
「海から流されてきたのかな」
けれどそれも何か違うような気がした。持ち物には水に濡れた形跡が全くなかったのだ。
考えても埒があかないため、わたしはとりあえず海岸線に沿って歩き始めた。
それにしても綺麗な所だ。浜辺に囲まれている大地は緑が豊かで所々に花が咲いているのが見える。赤や白の花がバランスよく織り交ざり、一枚のタペストリーのようだ。
潮騒が静けさを際立たせていた。平和すぎて少し怖い。記憶をなくす以前はこんなに穏やかではいられなかったのかも知れない。
随分長い間、わたしは黙々と歩いた。でも、それは突然終わりを告げた。
「……人?」
向かいの方角から何やら赤い物体が近づいてくるのが見え、わたしはじっと目を懲らした。相手もわたしに気づいたらしく、その足取りが速まる。
「そこにいるのは誰だ?」
咆吼に近いような大音声で話しかけられ、わたしは答えに窮した。「誰」と聞かれても言うべき名前が思い出せない。
「あんたこそ誰よ!」
大声で言い返しながらわたしも歩行速度を速めた。
向かいから来た男はすぐ近くまで来ると憮然とした態度でわたしを見下ろした。空に向かって剣山のようにはねている白銀の髪と赤い瞳の持ち主は気むずかしそうにギュッと眉根を寄せていた。体つきは巌のようにがっちりとしており、前に立ちはだかれると相当威圧感がある。
「小さな小さなお嬢ちゃん、人に物を尋ねるときは口の利き方に注意した方がいい」
ため口を叩かれたのが気に障ったのか、わざと人を小馬鹿にしたような言葉を使う男。わたしは深紅の全身鎧を纏った相手を睨みあげると、売り言葉に買い言葉とばかりに食ってかかった。
「そっちこそ、誰彼かまわず喧嘩を売るような言葉は使わない方がいいんじゃない? ただの筋肉バカに見えるわよ」
男の顔がより険しくなる。わたしは内心ちょっとひるみながらも、一歩も引かずに相手の目を見返した。
「いい度胸だな。何なら今ここで嬢ちゃんを消し炭にしてやってもいいんだぞ」
腰に下げた長剣に手をかける男。わたしは自然と自分の体が短剣を抜く構えを取ったことに少し驚いた。何故だかすごくしっくりくる。
「ほう、精霊の加護を受けているのか。少しはやるようだな」
青玉の短剣を目にし、男は興味深げな声を上げた。しかし、わたしには精霊の加護を受けたという記憶がさらさらなかった。何故こんな古めかしい武器を自分が持っているのかもよくわからない。
「だがこの俺を相手にするなら精霊王の加護を受けるべきだったな」
そう言い放つと、好戦的に目を輝かせながら男は斬りかかってきた。
鋭い一撃はこれまで受けたことがないほどにずっしりと重く、たった一打で腕を痺れさせた。紅蓮の刃には炎の力が宿っているらしく、青玉の短剣と接触すると白金に光る炎の尾を引いた。その衝撃と共に短剣から甲高い女の悲鳴が上がり、わたしは耳を疑った。
「これって……」
頭の片隅で記憶の片鱗のようなものがくすぶる。銀色の肌を持つ、美しい水霊の姿が脳裏にひらめいた。
魔法とは媒体となる石を通して精霊の力を借りる技だ。が、その他にももう一つ直接精霊の力を使役する方法がある。それは精霊が自ら石の姿を取った魔具を使う方法。恐らくこの短剣にも精霊が宿っているのだろう。
そう悟ると最早相手の刃をこの短剣で受け止めることは考えられなかった。あの長剣には業火の力が宿っている。短剣が悲鳴を上げたのもその力を受け止めかねたためだ。
「どうした。もう音を上げたのか?」
二打目の攻撃を砂上を転がりながら避ける。が、足場が悪く、態勢の立て直しがうまくいかない。しかし相手は畳みかけるように三打目を振り下ろしてきた。刃の気配を感じ、勘だけで素早く後ろへ飛び退く。すんでのところでかわしたが、その剣圧は腰の小物入れを切り落とした。もしこれが避けられなかったら、と思うとゾッとする。
「そんな態勢からよくこの攻撃をかわしたな」
けれど、男はわたしの動きに感心したのかいつの間にやら晴れやかな笑顔を浮かべていた。その笑顔にわたしも毒気が抜かれたような気分になる。
男は長剣を鞘へ戻すと、切り落とした小物入れを拾い上げてわたしの元へ歩いてきた。立ち上がり、わたしも短剣を収めて相手に近づく。だが、相手は何かに気づいたのか「ちょっといいか?」と一言断ると、切り落とされた際に口の開いた小物入れの中から薄手の紙を引っ張り出した。
「嬢ちゃん、もしかしてあんたがレン=シュミットなのか?」
皺だらけの手紙と思われるものに目を通すと、男は驚いたようにそう言った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
確信が持てずに言いよどむと、その言いように相手は不審そうな顔をした。そのため、わたしは慌てて言葉を補った。
「どうも記憶喪失になってるみたいなのよ」
この場所がどこなのかもわからないことを伝えると、男の顔に決まり悪そうな表情が浮かんだ。
「それは悪いことをしたな」
初対面の印象が悪かっただけに、素直に謝られてわたしは驚いた。こいつ、案外いい奴なのかもしれない。
「ここはフェイドゥだ。俺の名はゼンと言う」
フェイドゥと聞いてわたしは眉をひそめた。フェイドゥって確か、魔王が治める魔族の拠点となる島だ。何だってわたしはそんな島にいるんだ?
「ゼン、あんたも魔族なの?」
一抹の不安にかられ、わたしは見た目ほとんど人間と変わらない男に率直に尋ねた。すると、相手は意表を突かれたように答えた。
「まあ、一応な」
一瞬、瞳の色が陰ったように見えたのはわたしの気のせいだろうか? けれど、そのことを追求する間もなくゼンはわたしの手の中に小物入れを押し込んだ。
「さて、嬢ちゃんがレン=シュミットとなると、俺はウェルネスの元へ案内しないわけにはいかない」
「ウェルネスって……魔王の元へ?」
そうだと言うふうにゼンは頷いて続けた。
「元々俺はウェルネスの命で海岸線の監視がてら『レン=シュミット』を迎えに来たんだ。だがまさか相手が女だとは思ってもみなくてな」
確かに『レン』という名前はよくある名前だから勘違いしても仕方がない。そんなことより「迎えに来た」という言葉の方が気にかかった。
「わたしに何か用でもあるの?」
かつてこの世界を半壊させたと伝えられる存在にこれから会わなければならないと思うと無意識に体が震えた。いざとなれば逃げ出すことくらいはできるだろうが、いくら何でも怖くないはずがない。今ここでそれを表に出したりはしないけれど。
「詳しいことはウェルネスが話すだろう。こっちだ」
そう告げると、ゼンはわたしに先立って砂浜を歩き始めた。わたしはその大きな背中を追い、フェイドゥの中心部へ足を踏み入れた。