欠け落ちた記憶-1
南へ伸びる街道を黙々と歩きながら、わたしはどうしたら後ろの存在を追い払うことができるか頭を悩ませていた。
「レーン。レンってば聞こえないの?」
頭痛の原因が話しかけてきたが、わたしは聞こえないふりをして歩みを早めた。何しろこいつ、わたしがガルディナを発ってから一週間、毎日のように姿を現してはこうやって話しかけてくる。遊びじゃないんだからついてくるなって言っても全く人の話を聞こうともしない。
男の名前はハルディクス。そう、ガルディナに付いた日、話しかけてきた得体の知れない魔族の男だ。
「レン、あまり無視すると無視できないようにするよ?」
よく通る心地よい響きの声に悪戯っぽい調子が含まれ、わたしはギクリと身を引いた。こういう言い方をし始めるとこいつは本当にその通りにする。この一週間でそのことは十分すぎるほど思い知らされた。
「いい加減にしないとこっちにも考えがあるわ」
わたしは短剣に手をかけると、脅し付けるように相手の方へ向き直った。今日こそはお引き取り願わないと。
「痛い目に合いたいわけ?」
剣を鞘から抜いてその切っ先を相手に向ける。いくら好意的な態度を取ろうがこいつは魔族だ。気を許すことはできない。
「俺は痛い目に合うよりも合わせる方が好きだな」
ハルディクスの瞳が楽し気に揺らめく。まるで子供がお気に入りのおもちゃで遊んでいるような表情だ。
「だったら早いうちにわたしの前から姿を消すことね。じゃなきゃ、後悔することになるわよ」
巻き込むような人や物がないことを確認すると、わたしは短剣の力を引き出すために解除の言葉を唱えはじめた。しかし、わたしが実力行使しようとするのを見て、ハルディクスは片方の眉を面白そうに吊り上げた。
「そういうことをする子にはお仕置きが必要だな」
街道に平行するように生えていた木々が奴の言葉に呼応するようにザワザワと鳴り渡る。奴の体から漂いだした妖気はそれだけで空気を冒すようだった。にわかに悪寒が走り、わたしは呪文の詠唱を中断した。というよりも喉元を押さえつけられるような息苦しさに苛まれて中断せざるを得なかった。
「そう。いい子だね」
にっこりと笑い、ハルディクスは声を失ったわたしの手に自分の手を添えて短剣を鞘の中に戻した。そしてそのまま背後に回り込んだかと思うと左の耳朶を甘噛みした。
「っ!」
一拍置いて小さな火を灯されたような痒みが広がり、わたしは慌ててハルディクスの側から離れた。
「何するのよ!」
カッと顔が赤らむ。こんな風にセクハラまがいなことをされたのは初めてで、どう対処したらいいのかわからない。
「何って、レンの体に刻み込んでるんだよ。俺の存在を」
艶然と微笑む男に背筋が凍り付いた。こいつ、結構危ない奴かもしれない。
こいつのそばにいたら何をされるかわかったもんじゃない。即座にそう考え、わたしは相手の不意を突いて地面を蹴った。
木々の間に獣道を見つけ、鬱蒼と茂る薮の中に飛び込む。単子葉の鋭い植物の葉が腕や足を引っ掻いたが、構わず突き進んだ。通常なら人が足を踏み入れないような森の奥へたどり着く。そこでちょっと考え、わたしはハルディクスの裏をかいて一旦元来た方角へ戻っていった。目的地からは遠ざかるけれどあいつに付きまとわれるよりは余程いい。
気配を殺してそのまま道ならざる道を行く。海風に煽られて葉擦れの音が潮騒の音とともに辺りに鳴り響いた。大分海岸沿いまで近づいたらしい。どうやらあいつも追ってきていないようだしうまく撒けたようだ。
「まったく、何だってあんな使いをよこすのよ」
現在地を割り出すために海岸の方へ向かいながら未だ会ったこともないウェルネスにわたしは毒づいた。手紙から受けた印象が悪くなかっただけに残念だ。
薮の中を突き進みながらわたしは海岸線を目指した。朝露をたたえた濃い色の苔がブーツの下で柔らかく砕ける。木漏れ日が緑の上に幻想的な模様を描いていた。草いきれが鼻を刺激する。しばらくするとわたしは木々のカーテンが途切れる場所へたどり着いた。
それまで薄暗い森の中を進んでいたこともあり一瞬目が眩む。海岸線に出たのだ。額に手をかざし、わたしは遥か遠くまで伸びる切り立った海岸線の特徴を探った。
「あそこがホセか」
岸壁が低く落ち込んだ辺りに街道と平行して広がる小さな港町を見つける。ホセは宿場町でもあるため小さいながらも人口の多い町の一つだ。
実は昨日、わたしはホセに立ち寄った。町の漁師達にフェイドゥまで船を出してくれないか交渉するために。けれど当然のことながら誰も首を縦に振ってくれなかった。あんな場所に船を出すのは自殺行為だ、と。けれど中にはわたしの話を真面目に取り合ってくれる人もいた。船を出すことはできないが、予備のカヌーを貸してくれるというのだ。海岸沿いにはいざという時のための漁師小屋や洞穴が幾つかある。その中の一つをその人は教えてくれたのだった。
「確かここからもう少し南下したところよね」
荷物の中から携帯用の地図を取り出し、その場所を確認する。現在地からはさほど離れていないようだが、まだ崖下に降りられるような足場はない。しかも眼下に広がる紺碧の海は渦を巻き、激しくうねっては岸壁を削り取るように荒々しく叩き付けていた。
わたしは地図をしまい、目的の場所に向かって海岸線沿いを歩き始めた。水平線の先におぼろげながら灰色の島影が霞んで見える。
魔の島フェイドゥ。カジャル海の西のはずれに浮かぶ魔族が住む島だ。そこは魔族の誕生に深く関わりのある場所だとされている。中央に位置する巨大な山の深部には魔族を生み出す次元の歪みがあり、その歪みで最初に形を取った者、それが魔王ウェルネスだったと伝承にはある。
「……もう少し勉強しておけばよかったかな」
これまで散々師匠に連れ回され様々な知識を叩き込まれてきた。世界最大の図書館があるスーザニアにも幾度となく滞在したことがある。その際、歴史や伝承、魔法やその成立ちなど調べられる限りのことは調べてきたのだが、それでも足らないと感じるのは相手が相手だからだろう。
魔族にも弱点がないわけじゃない。奴等は精霊が放つ純粋な魔力にすこぶる弱く、その加護を受ける者を避ける傾向にある。龍王信仰の他に精霊信仰が根強く残るのはそのためだ。
そんなことを考えながら荒れた崖の上の岩場を歩いていた時、突然背後に何者かの気配を感じた。すぐに思い浮かんだのはあの魔族の男だったが、予想は見事に外れた。振り向き様目にした相手の姿は、人の形すらしていなかった。
「貴様『れん=しゅみっと』ダナ?」
そいつは人間の言葉など到底紡げそうはない横開きの口を行使し片言で話しかけてきた。繊毛の生えた黒く節くれ立った八本の足に、山吹色のラインが入った脈動する膨らんだ腹。背中に蝙蝠のような羽を生やした巨大な蜘蛛がそこにはいた。人の体の大きさほどもあるその魔物は、返事を急かすようにギチギチと顎を鳴らした。
わたしは冷や汗が浮かぶのを感じた。別に魔族が怖いとかそういうことではなくて、単に蜘蛛が苦手なのだ。わたしは何が嫌いかと聞かれたら、真っ先にこいつを挙げるくらいに蜘蛛が嫌いだった。
「そうだと言ったら?」
とは言えそれを表に出すわけにもいかず、わたしは短剣の柄を握り締めると腰を低く落として戦闘態勢を取った。
「殺ス」
蜘蛛男は即座に答えて後ろ足の二本を除く六本の足を交互に繰り出してきた。波状攻撃の思わぬ速さに肝を冷やす。わたしは抜いた短剣でクモの爪を受け流しながらじりじりと後退した。こいつ、結構馬鹿力だ。
「コノ程度ノチカラカ。他愛モナイ」
攻撃を仕掛けつつ蜘蛛男が嘲る。が、そんな挑発には乗らずわたしはしばらくの間、相手がしたいように攻撃させた。自らの手の内を晒すのは、相手のカードを全て場に出させてからでも遅くない。
後ろに下がりながら背後に迫る森との間合いを感じ取る。ガタイが大きければ大きい程、空間の占有率は高い。わたしは不利を装いながら蜘蛛男を森の中へ誘い込んだ。
「殺リガイノナイ相手ダ」
得意になって畳み掛けようとする蜘蛛男。だが、その手数が先ほどよりも少なくなっていることには気付いていない。どうやらこいつは腕力はあるもののそこまで知能の高くない低級魔族のようだ。攻撃手段もそれほど多くはないらしい。となると、これ以上戦闘を引き延ばす必要はなさそうだ。
そう判断するとわたしは口内で小さく火球の呪文を唱え始めた。が、呪文が完成する直前になって目の前の空間が縦に裂けた。
「レン、こんなところにいたんだね。探したよ」
魔族のみが扱うことのできる『闇』属性の魔法の一つ、瞬間移動の術を使ってひょっこりと顔を出した男は、にっこり笑ってわたしに抱きついてきた。あまりにも唐突な出現にわたしは回避することができなかった。
「バ、バカタレ!」
慌ててハルディクスを突き飛ばす。一気に体中にジンマシンが走った。我慢しきれない痒みに、わたしは怒りを露にした。
「よくもまあ、邪魔してくれたわね!」
再び火球のスペルを唱え、蜘蛛男だけでなくハルディクスにも向けて炎の塊を解き放つ。周囲が紅蓮の炎に染まった。状況を理解できずに混乱し、なすすべもなく炎に巻き込まれる蜘蛛男。だが、もう一方の魔族は軽々とその攻撃をよけた。
「バカバカバカ! 本当に何してくれるのよ!」
痒みに半ベソになりながら、ハルディクスの魔力の名残を必死に体の中から追い出そうとする。けれど、こいつの力が長時間影響を及ぼすことは経験済みだ。押さえつけても押さえつけても内側から痒みが溢れ出してくる。これからフェイドゥに向かわなくちゃならないって時に何してくれるんだ。
「やだもう、レンちゃんったら可愛い」
けれど、ハルディクスはわたしの反応がお気に召したらしく、再びわたしを抱きしめようとしてきた。
「悪趣味がすぎるわっ」
もちろんわたしはそいつの腕から懸命に逃れた。まったくもう。こいつをわたしの元に寄越しただけでもウェルネスは万死に値する!
理不尽な怒りに燃え、ウェルネスに会ったら絶対に文句を言ってやると息巻いていたところ、視界の端で炎の直撃を食らった蜘蛛男の足が僅かばかり蠢くのが見えた。
すぐさま注意を蜘蛛男に戻す。すると、蜘蛛男の頭が唐突にぐるりと一周した。そして、何が起きているのか把握する間もなく神経を刺すような甲高い音波を放ち始めた。
「一体何なの?」
痒みと耳をつんざく高音に顔をしかめつつも辺りを見回す。と、ハルディクスは何かに気付いたのか、即座に蜘蛛男の頭を踏みつぶした。その容赦ない行為にギョッとする。仮にも同族を殺すのに何の躊躇いも見せなかった男に寒気が走った。
「仲間を呼んだみたいだね」
言って空を仰ぐハルディクス。わたしはつられるように枝の切れ間からのぞく青空に視線をはせた。
最初それは黒い染みのように見えた。けれど、その染みは徐々に大きくなってゆき、ついには幾つかの影を産み落とした。
「ちょっと……冗談じゃないわ」
影は蜘蛛男の群れのようだった。奴等はわたしの姿を見止めると弾丸のように急降下してきた。
枝をへし折り、地面をえぐりながら十を超える魔物の群れが地表に降り立つ。わたしは反射的に短剣を構え、解除の言葉を唱えた。ああ、もう! 痒みが鬱陶しい!
「同胞ヲ屠ッタノハ貴様カッ」
わたしは不必要にキツい状況で応戦することとなった。蜘蛛男の鋭い爪が四方八方から繰り出されてくる。
「痛ッ」
本来ならかわせるような攻撃すら避けることができない。痒みからイライラが募り、集中力が極端にそがれるせいだ。まともに動くことができないまま、わたしは幾つもの手傷を負った。
「レン!」
ハルディクスはわたしの様子がおかしいことに気付くや否や、素早くわたしと蜘蛛男の間に割入った。そして、わたしの体に縦横無尽に走る傷を見ると顔色を変えた。
「……俺のレンを傷を付けたね?」
酷く冷たい声が形のいい唇から漏れた。ハルディクスの体から背筋の凍るような殺気が立ち昇る。誰がいつお前のものになったんだと思いつつもわたしは黙っていた。触らぬ神に祟りなし、だ。
本能的に危機を感じたのか蜘蛛男の攻撃がピタリと止んだ。わたしとハルディクスを中心にして、じりじりと後退ってゆく。
「その罪、命をもって贖ってもらうよ」
ハルディクスの瞳の色がシトリンのような金色とも黄色ともつかぬ色彩に変わる。瞳の色の変化と同時にハルディクスから膨大な力が発せられた。
「ナ、二?」
前線にいたほとんどの蜘蛛男は何が起きたのかわからないまま砂塵と化した。力の及ばぬ範囲にいた蜘蛛男の一部は圧倒的な力にひるむと、まさに蜘蛛の子を散らすように散り散りになってその場から姿を消した。
「レンちゃん、大丈夫?」
ハルディクスはわたしをその場に座らせると心配そうに傷を眺めた。そして、ゆっくりと胸の上に左手をかざすと、そっと月系統の癒やしの魔法の名を呟いた。
「月光」
途端に銀色の柔らかい光がわたしを包み込んだ。胸の奥から回復を促すような熱が湧き起こり、光の粒子が開いた傷口を優しく閉じてゆく。同時に全身にまとわりついていた痒みも引いていった。どうやら月系統の力に変換されればアレルギー症状は抑えられるらしい。
「……ありがとう」
半分は目の前の男のせいで傷を負ったわけだけど、わたしは傷を治してもらったこともあって素直に礼を言った。がしかし、わたしはハルディクスがどんな性格の持ち主かよく考えていなかった。
「お礼はキスがいいな」
正面から覗き込まれて一瞬ギクリとなる。相手の瞳の色が今度は煙るような銀色になっていたからだ。
「調子に乗るな。そんなことよりその目、どうしたの?」
くだらない申し出には耳を貸さず、わたしは自分の疑問をそのまま口にした。が、奴は奴で折れるつもりがないらしい。
「どうしても駄目だって言うなら押し倒してでもするよ?」
顔がカッと赤らんだ。性急すぎる求めが受け止めきれず、わたしは大きく首を振った。
「拒絶は最高の誘惑だってこと、身をもって教えてあげる」
唇に微笑を刻んだ男の腕が伸びてくる。わたしはハルディクスの腕から逃れようとしたけれど……この態勢で逃げるのは容易ではない。
「バカタレッ! そんなことしたら――」
言いかけた時、焼け焦げた村の様子が脳裏に浮かんだ。
……何だろ、これ……
けれど、目の前の男は覚えのない記憶に戸惑う時間を与えてくれなかった。
「そんなことしたら?」
ハルディクスがからかうように聞く。
「ただじゃすまないわよ」
さっき浮かんだ風景のことはとりあえず脇に置いておき、わたしは手にしたままだった短剣を相手の鼻先に突きつけた。ところがハルディクスは別段驚きもしない。
「残念だけど今日のところは諦めてあげるよ。レンに嫌われるのは俺の本意じゃないしね」
ふざけた男は笑いながらあっさりと引き下がった。が、ほっとすると同時に、こう、腹の底の方が煮えるように熱くなる。
「それじゃ、フェイドゥに行こうか」
手を差し伸べる相手の顔をわたしは睨み付けた。
「誰があんたと一緒に行くって言ったのよ」
短剣を鞘に収めながら、わたしは再び海岸線に向かって歩き出した。
「それならあの島までどうやって行くの? レンは風の魔法、使えないでしょ?」
わたしは後ろからついてきた男の得体の知れなさに不安を感じずにはいられなかった。確かにわたしは飛翔を使うことはできない。こいつはどこまでわたしのことを知っているんだ?
「あんたの力なんか借りなくても船を借りる手はずになっってるわ」
敵意にピリピリとなりながら吐き捨てると、ハルディクスはわたしとは反対に楽しくて仕方がないといった調子でクスクスと笑った。
「素直じゃないな。男にとって好きな女の子に頼られることは嬉しいこと以外の何物でもないのに」
とうとう我慢ができずにわたしは振り向きざまに指を突きつけた。
「あんたみたいな奴の言うことなんか信じられるわけないじゃない」
一々顔に血が上ってしまう自分の反応すらわたしは嫌だった。今まで子供扱いはされても女の子扱いされたことはほとんどない。そんな風に態度で示されると気恥ずかしくて居ても立ってもいられなくなってしまう。
そんな気恥ずかしさを誤魔化すようにわたしは声を張り上げた。
「大体、さっきだってあんたが抱きついてきたりしなければ――」
だが、そう反発しようとしたときだった。何か黒いものが横切ったかと思うと、それはすっかりと気を抜いていたわたしに向かって体当たりした。
「落チロッ!」
耳障りな声が鼓膜をかすめる。細かな繊毛と琥珀色の複眼が目に入った。と思った瞬間、体が宙を舞い、視界いっぱいに青空が広がった。
その一瞬はすごく長く感じられた。風に舞い上げられた木の葉が長々と地面に落ちることがないように。遠くからハルディクスが「レン!」と叫ぶ声が聞こえたが、わたしは自分の体が崖下に落下していくのを止めることはできなかった。