時に取り残された場所-2
扉の中は前の試練の時と同様、闇で満たされていた。違いがあるとすれば、いつまで経っても意識を失う気配がないことくらいだ。
わたしは息を潜めて何かが起こるのを待った。だが、何も起こる気配がない。胸の内でゆっくり百まで数える。やっぱり何も起きない。しばらくするとわたしは待つのをやめ、何もない空間を歩き始めた。けれど、十歩も歩かないうちに突如足下にあった床がなくなり、大きくバランスを崩した。
「……っ!」
どこかに掴まる場所がないかと慌てて手を突き出す。けれど、掌は空しく空を切るばかりだった。どうすることもできず、暗がりの中を落ちてゆく。
「ちょっと、何なの?」
手足をばたつかせてみるが、そんなことしたって空を泳げるわけがない。そうこうしている間にいつしか辺りは明るくなり、太陽が照っているのが遥か彼方に見えた。
「うわっぷ!」
するりと雲を突き抜ける。地上から眺める分には白くてふわふわしているように見えるけど、実際は全然違う。服はずっしりと湿気を持ってしまった。って、雲?
ふと下を見る。と、緑のモコモコしたものが目に入った。絨毯のように見えなくもないが、どう考えたってそんなものが地上にあるわけがない。
「ちょっ! 痛っ……」
無数の葉を茂らせた木々を避ける間もなく、わたしはその中を落下していった。張り出した枝が落ちるたびに四肢へ引っかかる。腕にもふくらはぎにも容赦なくかすり傷が出来た。けれど、木の枝がクッションの役割を果たし、わたしは地面から程近い木の枝に引っ掛かって静止した。命があるだけマシと思おう。
「あの、大丈夫ですか?」
騒ぎを聞きつけたのか、同い年くらいのほっそりとした少年が慌てて駆けつけてきた。瞳の色、髪の色は共に栗色の優しそうな雰囲気を纏った美少年だ。
「とりあえず大丈夫。でも、ごめん。枝、折っちゃった。木の精霊だよね、あんた」
一目でわかった。精霊は自然の中にある純粋な霊気の中から生まれるとされている。目の前の人物の気配には邪気がなく、清らかに感じられた。
「はい。木はまた芽吹くからいいですけれど……その格好、辛くないですか?」
的確な指摘、ありがとう。
「今降りるわ」
かかとに引っ掛かっている枝をこれ以上傷つけないようにして降りると、わたしは服についた汚れをポンポンと払った。
「痛くありませんか? その傷」
気遣うように尋ねる少年。心配してくれるのならこうでないと。ハーディーは下心があるのが見え見えだし、ゼンの奴は何だかんだと保護者みたいだし。ウェルネスさんやスペイリーさんの態度が一番この子に近い気がする。
「ありがとう。でも、このくらい大した事ないわ。わたしはレン=シュミット。よろしくね」
「僕は亜仙と申します」
差し出された手を握り返す。親しみを込めて笑いかけると、亜仙くんも笑い返した。
「とりあえず、その傷を何とかしましょう。レン=シュミットさん、こちらへ来てください」
亜仙くんはそう言って先立って歩き始めた。どこへ向かうつもりかわからないが、精霊は嘘をついたり他者を裏切ったりすることが出来ない種族だから警戒する必要がない。もっとも、裏切ったりすれば大変なことになるけれど。
「あの、少し待っていてくれませんか?」
ちょっと歩いた先にあったのは、対岸が見えないほど巨大な湖のほとりだった。亜仙くんはわたしから手拭きを借り、水際の方に歩いていった。
「お待たせしました。これで傷口を拭いてください」
湖の水で濡らしてきたらしい。わたしはそれを受け取って腕の擦り傷を拭いた。滲みるうえに冷たかったけれど、せっかくの親切だ。
「どうです?」
布を当てた所から徐々に痛みが引いてゆく。二、三度擦るだけで傷は見る間に消えていった。これって確か……
「もしかしてここ『ティシェの泉』?」
「よく知っていますね」
ボーイソプラノの声が肯定する。
「だって有名じゃない。全ての怪我や病はここの湖の水ですっかりと治すことができるって」
こんな話が悲劇として残っている。
その昔、ビゼ=アの隣国、ファルカタ王国の第一王子は非常に病弱で、とてもじゃないけど王位を継げる体ではなかったのだという。ファルカタ王は第一子の王子を王とすることをあきらめ、その位を第二王子に譲ろうとした。けれど第二王子はそれを辞退し、伝説にある『奇蹟の泉、ティシェ』を探すため旅に出たのだそうだ。精霊達はその心掛けに心を動かし、普段は結界の張られているここ、ティシェの泉に導いてその水を与えたのだという。第二王子は水を持ち帰り、第一王子にそれを与えようとした。けれど第一王子はそれを毒だと思い受け付けようとせず、第二王子を逆に暗殺してしまったのだそうだ。その後ファルカタは滅び、その土地はビゼ=アに吸収されることになったのだという。
「そうだ。この水、さっきの木にかけてくるわ」
いいことを思いつき、わたしは早速それを実行に移そうとした。だが、亜仙くんはにっこり笑うと、ゆっくりと首を振った。
「それは後で僕がやっておきましょう」
「それじゃ、少しもらっていってもいい?」
「いいですよ」
快い返事をもらい、わたしは腰から下げていた携帯用の水筒から飲み水を捨てて、泉の水でそこを満たした。
これが噂に名高いティシェの泉の水か。売ったら幾らくらいになるだろう。結構期待できるかもしれない。
「レン=シュミットさん、それは困ってる人のために役立ててくださいね」
「わかり……ました」
念押され、わたしは肩を落とした。まあ、仕方がないか。
「ところであなたはどうやってここへ来たんですか?」
どうやってと聞かれても、わたしの方こそそれを教えてもらいたいくらいだ。そもそもわたしはここで何をすればいいんだろう。あの女の人、肝心なことは少しも教えてくれなかったし。
「亜仙くん、『時の試練』って知ってる?」
ほとんど期待していなかったが、その問いに亜仙くんは目を見張った。
「レン=シュミットさんが今回の挑戦者の方だったんですか?」
わたしは素直に頷いた。
「僕は案内役の亜仙といいます……あ、もう自己紹介はしましたね」
照れ笑いをする亜仙くん。純粋すぎてまぶしい。普段、不純な奴が傍にいるから特にそう感じるのかも。
「説明、お願いできる?」
「はい、レン=シュミットさん」
亜仙くんは少し息を整えると、真剣な面持ちで話し始めた。
「『時の試練』の第三番目の試験は精霊の長さまのうちの一人に挑戦し、打ち勝つことです。ただ、挑戦する精霊の長さまは自由に選べるわけではなく、火、水、土、風、木、月、日と順番が定められています。ローテーションで順番は回ってきますから、運が良い方は自分の持つ力を弱点とする精霊王さまに挑戦することができるでしょう。レン=シュミットさん、貴女の相手は水の長さま、鎖楼王さまです」
わたしは額に汗がにじむのを感じた。こんなところで精霊王と対峙することになるなんて。三つ目の試練からいきなりレベルが上がりすぎていないか?
「鎖楼王……水霊を束ねる長ね」
世界中に散らばる精霊達の住処。そのうちの一つがここティシェの泉だと言われている。他にも常に天空を彷徨っているエモルザオという浮島、トゥーム地方の迷いの砂漠、東の大陸の南部にあるファルナス島にあるキイス火山なんかがそれに該当する。
ちなみにここには木と水の精霊が住んでいる。人間がこの土地を土足で踏み荒らさないよう、単身で強力な結界を張り精霊を守っている者が水の精霊王、鎖楼王なのだと師匠は言っていた。
「はい。ところで貴女は飛翔を使えますか?」
「使えないと都合が悪いの?」
聞き返すと亜仙くんは頷いた。
「ええ。僕の仕事は貴女を鎖楼王さまの元へお連れすること。鎖楼王さまはこの湖の中央にある『水霊宮』にいらっしゃいます。僕達精霊は実体を持たないので水の上を歩いて行くこともできますが」
「そういえば、精霊って依り所になるものさえあれば自在に姿を変えられるんだっけ……」
わたしが腕を組んで考え込んでいると、亜仙くんは懐から小さな壜を取り出した。
「これを使ってください」
「何、これ?」
差し出された丸い壜を受け取る。壜の中には緑色の粉が半分ほど入っていた。壜の首のところをつかんで軽く降る。と、潰し残しの葉っぱの切れ端があることでそれが何らかの薬草を乾燥させて粉末にしたものであることがわかった。
「大地の支配を薄れさせる力を持つ薬草、ラオの葉の粉末です」
わたしは驚いてまじまじと渡されたものを見つめた。ラオの粉の存在は知っていたけれど、実物を見るのは初めてだ。古代の書物には載っているものの、ラオは既に取りつくされ絶滅したと言われる薬草にあたる。ここは結界で守られているからまだ生息しているのかもしれない。
「小指に少しだけつけて、なめてみてください」
わたしはコルクの栓を抜いて亜仙くんの言ったとおりにした。粉が口蓋に張り付き、口いっぱいに苦みが広がる。まだマリンの薬湯のほうが甘いくらいだ。
「お?」
ところが苦みを飲み下した途端、体に変化が起こった。ふわり、と地面から足が離れる。バランスを崩し、わたしはグルンとその場で一回転してしまった。足元がグラグラして思うように直立していられない。試しに足を突っぱねてみる。すると、
「うわぁっ!」
不用意な力が加わったことでさらに回転力が強まった。同じ場所で何度も回ってしまう。
うぅ……目が回る。
「レン=シュミットさん、慌てないで。歩くときのように力を抜いて」
「……あい」
言われた通りにしてみると今度は上手くいった。わたしはコツをつかみ、しばらくすると自在に空中を移動できるまでに進歩した。魔力の消費がない分、精神的にも自由な感じがする。中々気持ちがいい。
「地面に体の一部が触れるまで効能は続きます。よかったら残りはお持ちください」
地面から大分離れたところを浮遊していたわたしに、亜仙くんはそう申し出てくれた。
「いいの?」
「はい。僕たち精霊は心優しき人の味方です」
ちょっと顔が赤くなる。心優しいって誰がよ。
「お、お世辞なんて言っても何もでないわよ」
亜仙くんはそんなわたしを見てクスクス笑った。精霊って人をからかうのが好きなんだよね、まったく。
「さ、準備も整いました。鎖楼王さまの元にご案内いたしましょう」
わたしは壜を腰の革袋に入れると亜仙くんの導きに従った。