忘れ去られた記憶の闇-4
翌日、わたしはひどく早い時間に目が覚めた。顔を洗うために部屋を出、リビングを通り過ぎようとした時、そこにお父さんの姿があるのを見付けた。
「……おはよう、お父さん」
躊躇いがちに声をかけると、お父さんはゆっくりとわたしの方を向いた。柔らかな黒髪がわずかに揺れる。
「レン、おはよう」
いつもなら一瞥するだけのお父さんだったけれど、その日は何故か挨拶を返してくれた。それだけならまだしもさらに言葉を付け加えた。
「もう調子はいいようだな」
問いかけられ、わたしは黙って頷いた。気にかけてくれたことが嬉しくて、何だかくすぐったい気持ちになる。
「明日は夏至か」
けれど、お父さんがポツリと呟いた言葉を聞いてわたしは胃が縮まる思いがした。急激に血が冷えていく。再び訪れた恐怖に足がすくんだ。
「お前とは一度も町へ出たことがなかったな、レン。明日、出かけてみるか?」
ファウスター先生のところで感じたのと同じ恐怖の上にそれ以上の喜びが上書きされる。
わたしは初めて優しい言葉をかけてくれたお父さんに思い切って近付くと、その緑の瞳を見上げた。
「連れて行ってくれるの?」
「ああ」
しかし、端正な顔に浮かんだ微笑を見て、わたしは一気に冷水を浴びせられたような心地がした。
その双眸には愛情が欠如していた。
何故気が付かなかったんだろうという気持ちが胸にわく。同時に、全身を違和感が駆け巡った。
何だろう、この感覚……
「レン?」
急に表情を無くしたわたしに不審そうにお父さんが呼びかける。
「お兄ちゃんとお母さんも一緒?」
取り繕うように尋ねると、お父さんは少し考えてから首を振った。
「私とレンの二人だけで行こう」
心の表面では喜びを感じている自分がいた。それは確かな気持ちだった。けれど、反面、本能的な部分でそれを否定する自分がいた。
わたしは自分の気持ちがわからなくなって曖昧な笑みを浮かべた。
「明日を楽しみにしているよ」
声も出さずに深く頷くと、わたしは慌てて洗面所に向かった。説明の付かないドロドロとした感情が次から次へとわいてくる。
一刻も早くこの気色悪い感情を洗い流したくて洗面所に急ぐ。そしてそこへ辿りつくとわたしは真っ先に水がめを覗き込んだ。だが、わたしはその水面に映った姿を目にして小さな声を上げた。
「何これ」
そこに映し出されたのは見慣れた、けれど見知らぬ人物の顔だった。外見の年齢は輝輪と同じくらいに見える。十五、六くらいだろうか。目を見開いた顔がわたしを見返していた。
「そういえば……」
鏡は真実を映すと以前、ファウスター先生から教えてもらったことがある。ビゼ=アがそこに目をつけて水鏡を使った通信方法を開発したとも言っていた。確かあれは偽りを流せないために主要な国々に設置されているはずだ。
水面に手を伸ばすと、映りこんだ人物も同じような動きをした。これは一体どういうことなのだろう?
「レン、おはよう」
混乱するわたしの背後からお兄ちゃんの声がした。体が強張る。その拍子に水面に手が触れた。映りこんだ『わたし』の姿が崩れる。
「おはよう、お兄ちゃん」
わたしは慌てて水がめの中のバケットを手にした。そのまま水を汲み上げ、顔を洗う。
何かがおかしいのだけはわかった。でも、何がおかしいのかわからない。
「今朝は随分早いんだね」
わたしが顔を洗い終わるのを待って、お兄ちゃんが口を開く。
「何だか目が覚めちゃって」
タオルを忘れたのに気付いて服で顔を拭おうとしたら、お兄ちゃんは自分が持ってきたタオルでわたしの顔を拭いてくれた。
「レンは忘れっぽいな」
わたしはお兄ちゃんの声に隠し切れない悲しみが滲んでいるのに気付いた。ふと、昨日のお母さんとお兄ちゃんの様子を思い出す。
「今朝は母さんをゆっくり休ませてあげたいんだ。レンも朝食の準備を手伝ってくれるかい?」
わたしに目線を合わせ、にっこりと笑うお兄ちゃん。わたしはその笑顔を見て、無性にここから逃げ出したくなった。




