忘れ去られた記憶の闇-2
三日ほどで体の調子は元に戻った。お兄ちゃんはその間、甲斐甲斐しくわたしの面倒を見てくれた。
「お兄ちゃん、もう外に遊びに行ってもいいでしょう?」
一度元気を取り戻してしまうと部屋の中はとても狭く感じられた。ベッドのサイドテーブル、子供用のクローゼット、勉強用の机に本棚。どれも窮屈そうに見えてしまう。
「レンはすぐにそれだ」
お兄ちゃんは優しい笑みを浮かべながらクローゼットから着替えを一式取り出し、わたしにそれを手渡した。
「湯浴みをしてしっかり髪を乾かしてからにしなさい」
お兄ちゃんはお父さんと違ってわたしの言い分を邪険にあしらったりしない。それが嬉しくて、いつも甘えてしまう。
「明日にはお母さん、帰ってくるかな」
服を受け取り、わたしはお兄ちゃんの顔を見上げた。お兄ちゃんは少し腰を曲げてわたしの頭をポンポンと軽く叩いた。
「母さんも父さんも今頃慌ててリマに向かっているよ」
「そうだといいな」
わたしはにっこりとお兄ちゃんに笑いかけた。お兄ちゃんは応えるように頷いた。
「さ、早くしないと日が落ちてしまう。折角だからファウスター先生にも会いに行きたいんじゃないかい?」
丁度今、ファウスター先生が町に来ているんだよ、とお兄ちゃんは教えてくれた。
「ホントに? それなら早く用意しなくっちゃ」
窓の外を見るとまだ日はそれほど高くなかった。けれど、先生は町の皆から引っ張りだこなのだ。早く会いに行かないと話すことすらままならない。
「レン、ちゃんと体も拭くんだよ」
慌てて部屋を飛び出したわたしにお兄ちゃんは明るい声で注意した。
手っ取り早く体を洗い、服を着替え、髪を乾かし、朝ごはんを食べ、出かける準備を整える。わたしは急いで町の中を駆けていった。
朝早いとはいえ、もうパン屋さんなんかはお店を開き始めていた。焼きたてのパンの香ばしい香りが朝の新鮮な空気の中に溶け込んでいる。朝ごはんを食べたばかりだけど、ついついパン屋さんの前で立ち止まったのはご愛嬌。
「確か、先生はトルテの家の近くの空き家を借りてたんだっけ」
リマの町はそれほど大きな町じゃない。だからもうすぐ十歳になるわたしでも大体の場所は把握している。
視線を上げると遠くの空は薄ぼんやりとしていた。空を支えているような赤い岩肌の台地が視界に映る。町の皆はあの山から採掘された石で生計を立てているのだ。
少し息が上がってきてわたしは歩調を緩めた。病み上がりのせいか体力が持たない。じんわりと汗ばんだ服の胸元をパタパタさせながらわたしは残りの道程を歩いていった。
道々、ザンバラに生えている雑草や朝露やアブラムシなんかに気をとられながらも薄汚れた小屋の前に辿りつく。わたしは道端で引っこ抜いた草を草むらに投げ捨てて息を整えた。
どこからともなく涼やかな鳥のさえずりが聞こえてくる。だが、目の前にある一軒家はそんな清清しい朝とは対照的に薄汚れ、屋根瓦の間にはクモが巣を広げていた。
「ファウスター先生、おはようございます」
声を張り上げ、小屋の扉を叩く。と、何やら中から鍋をひっくり返すような派手な物音が聞こえてきた。耳をそばだてていると、続けざまに瓦礫を掻き分けるような騒音が断続的に響いた。
「先生?」
恐る恐る扉を手前に引く。ドアは軋み音を上げながら開いた。蝶番の手入れがされていないせいか、扉のすべりはひどく悪い。
「これはレン殿。よくいらした。もう体調はよろしいのか?」
ファウスター先生の変わりに戸口に立ったのは褐色の肌の少女だった。
「うん、この通りよ。輝輪、久しぶりね」
そういって笑いかけると、輝輪も金の瞳を細めて笑みを浮かべた。
「我が主に会いに来たのであろう。ほれ、そこに伸びておるわ」
輝輪はクィッと顎先で小屋の中を示した。見ると、テーブルに足を引っ掛けたらしい蒼銀の髪の男がそこに横たわっている。
「ファウスター、来客だ」
鍋や木の皿が散乱する部屋に踏み入れ、つい溜め息を吐く。昔から変わっていない。
「ほら、先生。起きてくださいよ」
落ちていた鍋をやはり落ちていたお玉で打ち鳴らすと、ファウスター先生は驚いたように飛び起きた。
「何事です? 輝輪、そこに誰かいるのですか?」
辺りを見回すようなしぐさをする先生。頭を動かすたびに長い髪が左右に揺れる。
「ファウスター先生、生徒の声も忘れたの?」
呆れたように問い返すと先生は肩から力を抜いた。
「ああ、レンでしたか」
ファウスター先生の眉根がハの字になる。瞼は閉じられたままだった。
「すみません。新しい石に気をとられていたせいで、今日はまだ身支度を整えていないのですよ」
言いながら、それまで握り締めていたと思われる拳を先生は目の前に持ってきた。
「美しい石でしょう?」
開いた掌の中にはまだ全く加工がされていない灰色の石があった。どうやら月長石のようだ。
「ファウスター、説明もいいが先にその目をどうにかしたほうがよかろう」
扉を閉めながら輝輪が忠告する。
「町の中だからとて貴様はいささか気を抜きすぎだ」
輝輪はその足で奥の部屋まで歩いていき、金色の細い輪を手にして戻ってきた。
「いつもすみません、輝輪」
ファウスター先生は立ち上がると、輝輪からおぼつかない手つきでその輪を受け取った。
「いくら新しい石を手に入れたとはいえ、そうそうそれをはずされては勤めを満足に果たせぬ」
先生は苦笑しながらその輪を頭にかぶせた。額のところに金色の針水晶の石が来るように調整しながら。
「先生、目が見えないんだから『輝輪の目』を外しちゃ駄目でしょ?」
そう、先生は盲目なのだ。けれどそれを精霊の力で補っている。輝輪はファウスター先生の『目』でもあった。
「そうですね。気をつけてはいるのですが」
言いながら自分の手の中にある石に視線を落とす先生。
「どうも石の性質を見極めるときには何も見えない方がわかりやすくて」
わたしは半眼になっている輝輪に少しだけ同情した。
「ああ、ひどい有様ですね」
先生は現状を把握すると、困ったように首をひねった。
「毎回付き合わされる身にもなれ」
憮然とした表情で呟き、輝輪はテーブルから落ちた食器を拾い始めた。後ろに流れる金の髪が若干逆立って見える。
「日霊にさせる仕事ではないぞ」
ぶつぶつと文句を言いながらも世話を焼く輝輪。先生は懐の中に石をしまうと、自分も片付けに参加した。
「今から朝食の準備だったの?」
わたしもまた、手にした鍋やお玉をテーブルの上にのせると、食器と一緒にひっくり返っていた本を拾い上げた。
「ええ、そのつもりだったのですが」
「ファウスターが石を見始めたら予定など全て白紙だ」
輝輪が横から吐き捨てるように呟く。
「そんなわけなのですよ」
弱々しく笑う先生。輝輪とわたしは顔を見合わせると同時に肩をすくめた。
三人で片付けたこともあって、しばらくすると部屋の中の惨状はある程度改善された。
「茶でも入れよう」
輝輪は言うが早いか部屋の奥へ入っていった。いつもながらテキパキとしている。
「先生、あまり輝輪に迷惑かけたら駄目よ」
部屋の中にいくつかある丸椅子の一つに腰掛けると、わたしは先生の顔をじっと見つめた。
「精霊との契約は互いの信頼関係が一番大切なんでしょ?」
それは目の前にいる人物がわたしや皆にいつも教えていることだ。
「そうですね」
先生は苦笑したままさっきわたしがテーブルの上に積み重ねた本を一冊、手に取った。
「彼等は本当に豊かなものを私達に与えてくれる。だからといって彼らを便利に使ってはならない」
先生は本を開くと、ある部分を指差した。
「ここには人と精霊が信頼関係を失う切っ掛けとなった魔法のことが書かれています」
わたしはその記述を目で追った。
「人は決して彼らの信頼を裏切ってはならない」
そこに書かれていたのは禁呪に指定されている魔法の詳細だった。精霊を騙して生まれたその魔法は悲劇しか生み出さなかった、とある。
「私も常にそのことを念頭に置いています」
先生がページをめくると、そこには一株の花の挿絵があった。
「彼らの慈悲深さを知りつつも態度を改めぬ国もありますがね」
そう言うと先生は小さな溜め息を吐いた。
「ファウスター、茶が入ったぞ」
話が一段落ついたとき、輝輪の声がした。声の方に目をやると、既に彼女は部屋の中に入ってきていた。
「貴様の朝食は今日は抜きだ」
やや大きめのスープ用のカップを二つ並べ、彼女は奥にある先生の椅子を引いた。
「ああ、すみません」
先生は本を再び元の場所に戻し、輝輪が引いた椅子に腰掛けた。輝輪はそのまま先生の腰掛けた椅子に背を預けた。
「先生、質問してもいい?」
わたしが問いかけると、ファウスター先生は続きを促すように少し顔を上げた。
「龍王って神様のことなんでしょ?」
先生が開く臨時教室は魔法の使い方に始まり、その歴史や精霊との契約の形態など実に様々な範囲が対象だった。精霊呪に関わる神話もその中に含まれている。
「そうですよ」
龍王の名前を耳にし、輝輪が少しだけ身じろぎした。
「神様は慈悲深くないの? 精霊と違って」
つい声が沈んでしまう。わたしはうな垂れた。
「それは残念ながら私にもわかりません。恐らく、それを知るのは精霊王や古より生き続ける精霊ぐらいなものでしょう」
「先生は精霊王にも会ったことがあるんでしょ?」
矢継ぎ早に問いかけると、ファウスター先生は頷いた。
「ですが、そんなことを尋ねたことはありませんよ」
「そっか……そうだよね」
がっかりしながらお茶に手を伸ばす。陶器製のカップは熱くなっていた。
「レンは龍王に興味があるのですか?」
静かに問い返され、わたしはドキリとした。が、思いっきり首を横に振る。
「レン殿は嘘が下手だ」
含み笑いをもらす輝輪。ムキになって否定すると、尚更彼女は朗らかに笑った。
「何も隠すことはあるまい。レン殿はまだ十にも満たぬではないか。好奇心、大いに結構」
丸め込まれたような気がして頬を膨らませた時、「先生、いますか~」と間延びした子供の声が聞こえてきた。
「おや、あの声は」
声を聞いて先生は半分腰を浮かせた。
「あれは腕白小僧のヴェルバだな」
即座に言い当て、輝輪は扉のほうへ向かった。
「明後日の夏至の祭儀を彼ら親子が取り仕切るんでしたっけ」
先生の今思い出したかのような呟きを耳にしたとき、わたしは息が詰まるかと思った。頭から血の気が引き、小刻みに体が震え出す。額には脂汗が滲んだ。
「レン、どうかしましたか?」
先生の声はとても遠くから聞こえた。わたしはその時初めて純粋な恐怖のせいで目の前が真っ暗になった。