忘れ去られた記憶の闇-1
「気づいたか? レン」
目覚めたとき、目はなかなか焦点を結ぼうとしなかった。けれど、上から降ってきた懐かしい声にわたしはとっさに答えた。
「お兄ちゃん?」
やや掠れた、高めの声が口から洩れる。
「……よかった、気がついたんだね」
湯気に包まれているような視界が徐々にはっきりとしてきた。わたしは自分の手を握っている黒髪の人物に向かって問いかけた。
「わたし、どうしたんだっけ……」
頭の中は霧がかったようにぼんやりしている。頭の奥の方がじんわりと痛い。とても長い間眠っていたような気がする。
「お前は熱病にかかってしまったんだ。この二日間、ずっとうなされていたんだよ」
透き通るような翠色の瞳に心配そうな感情が滲む。お兄ちゃんはわたしの頭をやんわりと撫でながらそう教えてくれた。
「……お母さんは?」
いつも真っ先に看病してくれる人が側にいないことに気付き、尋ねる。
「父さんと一緒にインゼリオに出かけたままだ。今、隣の家のワイルトさんがレンのことを知らせに行ってくれている」
お兄ちゃんはわたしの額に乗せてあった布を桶の水に浸し、続けた。
「もうすぐ帰ってくるよ。母さんがいなくて淋しくなったのか?」
優しく微笑むお兄ちゃん。素直に頷き、わたしは上半身を起こした。
「お兄ちゃん、わたしね、夢を見たわ」
呟きつつ自分の手を見つめる。何故か小さいと感じた。さっきまで見ていた夢のせいだろうか。細かい部分は思い出せないけれど、色々と大変で、でも楽しくて、あたたかくて……少し淋しかった。
「怖い夢でも見たのかい?」
首を振り、わたしははっきりしない記憶を探った。断片的な場面がひらめいては消え、消えてはひらめく。知らない風景、知らない人、知らない出来事。いつか読んだ物語のように薄ぼんやりとして曖昧なそれ。
「わたしは十六歳で世界中を旅しているの。いろんな人と出会って、冒険して……でもお兄ちゃんとお母さんとお父さんは出てこないのよ」
わたしがそう告げるとお兄ちゃんの顔はたちまち曇った。
「意識は戻ったけれど、まだ休んでいた方がいい」
堅い声音になった相手を不思議に感じながらもわたしは頷いた。
「うん、わかった。でも、お母さんが帰ってきたら起こしてね?」
言われるままにベッドに体を横たえると、お兄ちゃんはほっとしたように優しい笑顔に戻った。皺のよった上掛けが整えられ、再び額の上にひやりと湿った布が置かれる。睡魔が忍び寄り、瞼が重く視界を覆った。
「ゆっくりお休み、レン」
わたしはベッドに体を預けると、そのまま泥のように深い眠りに就いた。




