王座の影に巣くう者-1
目が覚めた時、わたしは自分がどこにいるのかわからなかった。開いた目に映ったのは薄暗く汚れた天井。壁の上部に申し訳程度に作られた採光用の窓からは赤い西日が差している。全体的に小さな部屋で、ベッドの他には古ぼけた小さな机と椅子しかなかった。簡素と言うよりもみすぼらしいと言う表現がぴったりくる部屋だ。
「宿屋?」
少し湿ったような手触りのかび臭い上掛けをめくりながら体を起こす。若干気だるかったが、体は普段よりも軽く感じられた。それもそのはず。外套や鎧のようなかさばるものは脱がされており、壁のフックにかけられていた。扉の近くにゼンに預けてあった荷物が置いてあるところを見ると、どうやらあいつがわたしをここへ運んでくれたらしい。
「あれ、何だったんだろう……」
視線を落とし、両掌をじっと見つめる。あの時あふれ出した膨大な力は今やなりを潜めていた。掌に魔力を集中させてみても、あの時感じた内側から肉を喰い破るような猛々しい力は感じられない。掌の上に集約し、形を与えられなかった魔力はやがて蝋燭の火のように揺らめいて大気に溶けた。
あの力はゼンの魔力に触発されて引き出された。ウェルネスさんやゼンに触れたときに出ていたジンマシンもその兆候だったのだろう。けれど、何故そんな力がわたしに宿っているんだ?
「わからないことだらけだわ」
自分が一体何者なのか。今まで深く考えてこなかった疑問が頭にもたげる。表層の情報だけでは理解できない部分に触れたせいで、その疑問を解くことは差し迫った課題のように思えた。
「嬢ちゃん、起きたのか」
わたしが魔力を発したのを感じ取ったのか、ゼンは慌てた様子で姿を現した。わたしの顔を覗き込む魔族の男は酷く心配そうな顔をしている。
「気分はどうだ?」
「大丈夫だと思う」
ぽつりと呟き、口ごもる。体調は悪くないけれど、何だか後ろめたい気分が拭えなかった。してはならなかったことをしてしまった気分だ。
「腹は減ってないか?」
ゼンはそんなわたしの様子に少し表情を曇らせながらそう尋ねた。わたしが気持の整理が付かないまま顔を上げると、ゼンは「少し待ってな」と言い置いて再び部屋を出て行った。
このまま考えていても埒があかないのはわかっていたが、どうにも気にかかるのはあの時感じた深い悲しみだった。胸の一部を抉り取られるような喪失感の名残は今もくすぶっている。記憶が戻ればこの胸の痛みの意味もわかるのだろうか。
「待たせたな」
もやもやした気分で考え込んでいたとき、ゼンが食事の乗ったトレイを手に部屋へ戻ってきた。手渡されたトレイを受け取り、わたしは少しだけ心が晴れるのを感じた。チーズとサラダが挟んである小振りのバゲットにシーフードスープ。どちらもおいしそうな香りを放っている。
「ありがとう、ゼン」
礼を言うとゼンは安堵したように笑い、ベッドの側の足の不揃いな丸椅子に腰掛けた。
「ところでここはどこ?」
トレイを膝の上に置き、わたしはスープに手を伸ばした。
「ガルディナだ」
返ってきた答えに思わず顔をしかめる。確かにガルディナは目的地だけど、今の状況では悠長に休んでいられない。
「追っ手のことなら心配しなくていい。ここはそういう宿だ」
けれどゼンはわたしが眠っている間に賞金首のふれのことを知ったらしく、状況に応じた宿を選んでくれたようだった。ここは法外な宿代を取る代わりにどんな罪人でも泊めてくれる、訳あり者のための宿の一つらしい。
「……あの後のこと、嬢ちゃん覚えてるか?」
ゼンの遠慮がちな問いかけにわたしは頷いた。当然あの告白のことも思い出したが、ゼンは今その話題に触れたくないようだった。無理矢理キスされた手前ひどく腹立たしく感じたが、尋ねたいこともあったためわたしは一旦矛を収めた。
「途切れ途切れだけどね」
常軌を逸したあの出来事を思い出す。契約の石(石榴石や紅玉のような精霊と魔力の媒介となる石)もないのに魔力は形を成し、膨大な熱量でその場を焼き尽くそうとした。ほとばしり出た魔力を制御できず、わたしはあの辺り一帯を破壊しかねなかった。ゼンが機転を利かせて魔力を相殺しなかったら、ホセ郊外まで巻き込んでいただろう。
無言でトレイの上のものを平らげ、わたしは再び口を開いた。
「あれからどれくらい経ったの?」
ホセを出たのは朝方だったが、今日が同じ日の夕方とは思えなかった。
「二日だ。余程疲れていたんだろう」
ゼンは思い詰めた様子で続けた。
「無理させて悪かった。俺は魔族だからどうにでもなるが、嬢ちゃんは人間だ。もっと気遣うべきだった」
その言葉を聞いてわたしは再び苛立ちを覚えた。確かにわたしはゼンに頼りすぎていたきらいがある。けれど、ゼンに責任を全て押しつけるつもりはないし、謝ってもらう筋合いもない。
「別にそんなこと気にしてないわ」
自分で行動して失敗するなら仕方がない。その結果を招いた責任は自分にあるのだから。
「だが……」
食い下がろうとする相手の態度にさらに苛立ちが募るのを感じながら、わたしはゼンに言った。
「他人の責任まで負わなくたっていいって言ってるの。保護者じゃないんだから」
気まずい空気が流れた。わたしの言葉が気に障ったらしく、ゼンの表情が強ばる。
「俺は嬢ちゃんの役に立ちたかっただけだ」
「役に立ったら相手の気持ちも考えずに好き勝手していいわけ?」
その言葉は正確にゼンの負い目を突いた。ゼンは辛そうな表情を浮かべて項垂れた。
「……すまなかった。どうしても気持ちを抑えられなかったんだ」
ゼンは素直に謝ると唇を引き結んだ。けれど、わたしはその言葉を素直に受け取れなかった。
「だからって正当化できることじゃないわ」
一度火が付くともう自分では止めることが出来なかった。棘を含んだ言葉がするすると舌を滑り落ちてゆく。
「自分の都合だけで人のことをどうこうしようだなんてあの二人と同類ね」
苛立ち任せに畳みかけると、ゼンは厳しい目つきで椅子から立ち上がった。
「俺だって反省してるのにそこまで言うことはないだろ?」
空気が張り詰めてゆく。こうなると、こちらから引き下がるなんて考えられなかった。
「ホントのことを言っているだけよ」
行き場のない苛立ちに刺激され、言わなくても良いことが次から次へと口から滑り出る。
「どうも今までありがとう。でも、ここからは一人で行動するわ」
言葉から滲み出る嫌みにゼンはさらに顔をしかめた。しばらくするとその表情は変化し、怒っているような、悲しそうな複雑な表情に取って代わった。その表情を見て、わたしはようやく自分が必要以上にゼンを傷つけたことを知った。
「……わかった」
そう呟くと他には何も言わずにゼンはそこから立ち去った。
わたしは焼け付くような後悔を覚えたが、過ぎた時間は取り戻すことが出来ず、暗澹たる思いで夜を待つことにした。