第8話 過保護な主の誤算
(……甘かった。完全に私の計算ミスだ)
王都の目抜き通りを早足で歩きながら、私は舌打ちを噛み殺した。
心臓が不快なリズムで脈打っている。
商談で数億の損失が出る時でさえ、これほど焦ったことはない。
リリアナ・ベルンシュタイン。
私が拾い上げた元公爵令嬢であり、今や銀鷺商会にとって欠かせない心臓部。
彼女の技術的価値は、すでに大陸中に知れ渡りつつある。
当然、ハイエナのような他国の商人たちが放っておくはずがない。
「護衛は何をしていたのですか」
「も、申し訳ありません会頭! リリアナ様が『資材の買い出しだから一人で大丈夫』と……」
背後で追従する部下の言い訳など、耳に入らなかった。
彼女は天才だが、自分自身の価値については驚くほど無知で、自己評価が低い。
そこが愛おしいところでもあるが、同時に最大の隙でもある。
「……あそこか」
通りの角にあるオープンテラスのカフェ。
その一角に、見慣れた菫色の後ろ姿を見つけ、私は足を速めた。
◇
「――ですから、リリアナ様。我が『金獅子商会』に来ていただければ、今の倍……いや、三倍の報酬をお約束しますよ?」
私の目の前で、派手な赤色のベルベットコートを着た男が、熱っぽく語っていた。
隣国の大手商社から来たという彼は、さっきから私の手元に豪華な契約書を押し付けてくる。
「あの、お言葉ですが……」
私は困り果てて、カップの中の冷めた紅茶を見つめた。
「私の技術は、まだ発展途上のものです。シリル……アッシュフォード会頭の指導と設備があってこその成果ですので……」
「ご謙遜を! 貴女の『廃魔石再生技術』は革命だ! アッシュフォードごとき新興の商人に独占させておくには惜しい!」
男は身を乗り出し、私の手を握ろうとしてきた。
私は反射的に手を引っ込める。
「それに、今の環境は劣悪なのでしょう? 元執事にこき使われていると聞きました。我が社なら、貴女を『技術統括部長』として迎え入れます。専用の屋敷も、使用人もつけましょう」
提示された条件は、目が回るような高待遇だった。
金貨の山、名誉ある地位、自由な研究環境。
普通の技術者なら、即座に飛びつくような話だ。
けれど、私の心は冷えていた。
怖いのだ。
こんなにうまい話があるわけがない。
私はつい数ヶ月前まで、「無能」と呼ばれて捨てられた女だ。
シリルさんが私に価値を見出してくれたのは、彼が私の幼少期を知っているからこその「投資」であり、奇跡のようなものだ。
見ず知らずの他人が、私ごときにこれほどの価値をつけるなんて、どう考えてもおかしい。
(……きっと、詐欺だわ)
私は心の中で結論づけた。
この契約書には、何か恐ろしい裏があるに違いない。
例えば、技術だけ吸い上げられて鉱山送りにされるとか、実は借金の保証人にされるとか。
「あ、あの……お断りします。私は自分に見合わない待遇を受けるつもりはありません」
「見合わない? 何を言っているのですか!」
男は焦れたように声を荒らげた。
「貴女は自分の価値を分かっていない! ……いいでしょう、ではこうしましょう」
彼は別の書類を取り出した。
先ほどより薄く、簡素な紙だ。
「謙虚な貴女のために、条件を見直しました。とりあえず、こちらの『仮契約』にサインを。待遇は今の商会と同じで構いませんから」
「えっ? 同じでいいんですか?」
「ええ、ええ。まずは友人として、技術提携から始めましょう」
男の笑顔が、急に深くなった。
私は少しだけ安堵した。
同じ条件なら、詐欺ではないかもしれない。
それに、これ以上断り続けて怒らせるのも怖い。
サインだけして帰してもらえるなら、その方が……。
「……わかりました。サインだけなら」
私がペンを手に取ろうとした、その時だった。
「――その紙切れに触れてはいけませんよ、リリアナさん」
頭上から降ってきたのは、絶対零度の冷気を纏った声だった。
「ひっ!?」
目の前の男が、蛙のように飛び上がった。
私も驚いて顔を上げる。
そこには、太陽を背にして立つシリルさんの姿があった。
逆光で表情は見えないが、眼鏡の奥の瞳だけが、青い鬼火のように燃えているのが分かった。
「シ、シリルさん……!?」
「お迎えに上がりました。……遅くなって申し訳ありません」
シリルさんは私の隣に立ち、男が差し出していた「仮契約書」を指先で摘み上げた。
そして、一瞥もせずにビリビリと破り捨てた。
「ああっ!? な、何をする貴様!」
男が顔を真っ赤にして立ち上がった。
「それは商取引の妨害だぞ! 私は正当な勧誘を……」
「正当?」
シリルさんは破り捨てた紙片を男の顔に投げつけた。
「よく見なさい。『仮契約』という名目のもと、下段に小さく『全権利の譲渡』と『終身労働』の条項が書かれている。……古典的な奴隷契約の手口ですね」
「な……っ」
男が絶句する。
私は息を呑んだ。
やはり、裏があったのだ。
私の自己評価の低さに付け込んで、あわよくば搾取しようとしていたのだ。
「う、うるさい! 契約は自由だ! 彼女が同意すれば有効なんだよ!」
男は開き直り、私に向かって叫んだ。
「おい、リリアナ君! こいつの言うことなんか聞くな! 元使用人に支配されていいのか!? 私のところに来れば自由になれるんだぞ!」
「……支配?」
シリルさんが低く笑った。
その笑い声には、聞く者を震え上がらせるような響きがあった。
「勘違いも甚だしいですね。……彼女は支配されているのではない」
シリルさんは私の方を向き、その長い腕で私の肩を抱き寄せた。
革手袋の感触と、彼独特の冷たくて清潔な香りが私を包み込む。
「リリアナは、私のものです」
「……え?」
私は目を丸くした。
男もポカンと口を開けている。
「彼女の才能も、時間も、未来も、その髪一本に至るまで、全て銀鷺商会の……いいえ、私シリル・アッシュフォードの管理下にあります」
シリルさんは堂々と宣言した。
その声には、一切の迷いも揺らぎもない。
「他国の薄汚いハイエナごときが、私の最高傑作に手を出そうなど……百年早い」
「き、貴様……独占禁止法に触れるぞ……!」
「法? 構いませんよ。金で解決できる問題なら、いくらでも払いましょう」
シリルさんは冷酷な笑みを浮かべ、男を一歩、また一歩と追い詰めていく。
「さあ、消えなさい。二度と彼女の視界に入らないように。……さもなくば、貴社の主要取引ルートを全て封鎖し、明日には路頭に迷わせて差し上げます」
「ヒッ……!」
本気の脅しだ。
大陸の物流を握る銀鷺商会なら、それが可能であることを男も知っているのだろう。
彼は捨て台詞も吐かず、脱兎のごとく逃げ出した。
カフェには静寂が戻った。
周囲の客たちが、呆気にとられてこちらを見ている。
「……はぁ」
シリルさんは深くため息をつき、眼鏡の位置を直した。
そして、私に向き直った。
その表情は、先ほどの修羅のような顔から一転して、どこか疲れ切った、それでいて焦燥を含んだものだった。
「リリアナさん」
「は、はい! ごめんなさい! 勝手な行動をして……」
私が頭を下げようとすると、彼の手が私の両頬を包み込み、強制的に顔を上げさせた。
「謝罪はいい。……ですが、自覚してください」
至近距離。
彼の整った顔が、苦しげに歪んでいる。
「貴女は、貴女が思っている以上に価値があるのです。狼の群れの中に、無防備な子羊が飛び込むような真似はしないでください」
「う、ウサギ……いえ、子羊ですか?」
「そうです。……私が目を離した隙に、誰かに攫われたら……私は……」
言葉が途切れる。
彼の親指が、私の唇の端を無意識になぞった。
その熱っぽい瞳に見つめられ、私は心臓が破裂しそうになった。
(私のものです、って……)
先ほどの言葉が頭の中で反響する。
周囲の人々は「熱烈なプロポーズだわ」「愛されてるのね」と囁き合っているけれど、私は知っていた。
これは、恋愛感情ではない。
彼は「最高傑作」と言った。
つまり、私は彼にとって「手塩にかけて育てた商品」であり、「優秀な道具」なのだ。
それを他人に横取りされるのが許せなかっただけ。
独占欲の正体は、所有者としてのプライドだ。
(……それでも)
私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
道具としてでも、所有物としてでも構わない。
「私のもの」と言い切ってくれる場所が、この世界にあることが嬉しかった。
「……すみません、シリルさん。もう二度と、貴方の許可なく契約書には触れません」
私が神妙に答えると、シリルさんはふっと力を抜いた。
「ええ、そうしてください。貴女の契約相手は、一生私だけで十分です」
彼は私の手を離し、いつもの「会頭」の顔に戻った。
だが、その耳元が赤くなっていることに、私は気づかなかった。
「帰りましょう。……今日は罰として、私の執務室で一日中、書類整理を手伝っていただきますよ」
「ええーっ、開発の続きがしたいです」
「駄目です。私の目の届くところに置いておかないと、安心できませんから」
シリルさんは私の手を取り、強引に歩き出した。
その握り方は、逃がさないと言わんばかりに強かった。
繋がれた手を見つめながら、私は思った。
この過保護な主人は、いつまで私という「道具」を必要としてくれるのだろうか。
もし私が技術を失ったら、この手は離されてしまうのだろうか。
そう考えると、少しだけ胸が痛んだ。
けれど今は、この温もりに甘えていたい。
私は彼の手を握り返し、その大きな背中についていった。
◇
その日の午後。
商会に戻った私たちを待っていたのは、王宮からの急使だった。
ただし、以前のような尊大な態度ではない。
青ざめた顔で、震えながら一枚の手紙を差し出したのだ。
「……王太子殿下より、借金返済の猶予を乞う嘆願書です」
シリルさんはその手紙を一瞥し、鼻で笑った。
「却下です。……リリアナさん、次の督促状を用意してください」
「は、はい、旦那様」
どうやら、外野の狼たちだけでなく、かつての飼い主たちも追い詰められているらしい。
私はシリルさんの隣で、淡々と事務作業をこなした。
彼の機嫌が良いのが、ペンの走る音でわかったから、私も自然と笑顔になった。
私たちの「契約」は、まだ当分続きそうだった。
少なくとも、この温かい時間の中では、そう信じていられたのだ。
あまりに居心地が良すぎて、私はすっかり忘れてしまっていた。
契約書に記された無慈悲な「日付」が、もう目の前まで迫っているということを。




