第7話 王宮の凍える冬
王宮の窓ガラスに、真っ白な霜が張り付いていた。
それは美しい氷の結晶などではなく、内と外を隔てる結界のように、冷たく分厚く視界を閉ざしている。
「……寒い。どうなっているんだ、これは」
王太子の執務室。
エドワード・フォン・アルカディアは、三枚重ねた毛皮のマントに埋もれながら、ガタガタと震えていた。
吐く息は白く、手元の書類を持つ指先は紫色に変色しかけている。
かつて「栄光の白亜城」と謳われた王宮は今、巨大な冷凍庫と化していた。
「殿下、申し訳ございません……暖炉の薪も、もう底をつきそうで……」
侍従長が青ざめた顔で報告する。
彼もまた、平民のような粗末な防寒着を着込んでいた。
本来なら魔導空調によって常春に保たれているはずの室内は、外気温と同じ氷点下まで下がっている。
「魔導具はどうした! まだ直らないのか!」
「は、はい……魔導師団が総出で点検しておりますが、配管の目詰まりが複雑すぎて、手が出せないと」
「無能共め!」
エドワードは怒鳴ろうとして、激しく咳き込んだ。
冷気が喉を刺すのだ。
「……アリスは? 聖女の祈りで暖めると言っていたではないか」
彼は縋るような目で、部屋の隅にあるソファを見た。
そこには、新しい婚約者である男爵令嬢アリスが、高級な毛布にくるまって縮こまっていた。
「アリス、どうなんだ。祈りは通じたのか?」
「……無理ですぅ、エドワード様ぁ」
アリスは涙目で首を横に振った。
「神様にお願いしてるんですけど、全然暖かくならなくて……それに、こんな寒いところでお祈りなんてできません。風邪ひいちゃいます」
「なっ……」
エドワードは絶句した。
リリアナを追放する際、アリスはこう言っていたはずだ。
『私の聖なる力があれば、古臭い魔導具なんて必要ありませんわ』と。
だが実際には、彼女はただ可愛らしく微笑むだけで、魔導工学の知識もなければ、奇跡を起こす力も持っていなかった。
「……くそっ、リリアナがいれば」
思わず漏れた言葉に、エドワード自身がハッとした。
地味で、愛想がなく、いつも油まみれだった元婚約者。
だが彼女がいた頃、この城は常に快適だった。
朝起きれば部屋は暖かく、温水はふんだんに出た。
それが当たり前だと思っていた。
彼女が毎朝四時に起きて、地下の配管を這いずり回り、魔力の調整を行っていたことなど知らずに。
「殿下! 大変です!」
近衛兵が飛び込んできた。
敬礼も忘れ、切迫した様子だ。
「な、なんだ! 騒々しい!」
「有力貴族の方々が、次々と帰宅を申し出ております! 『こんな寒い場所では公務などできない』『風邪を引く前に領地へ戻る』と……!」
「な……貴様ら、王家を見捨てる気か!」
エドワードは立ち上がろうとしたが、足が凍えて動かなかった。
「それと、ロビーにて……その、不穏な動きが」
「はっきり言え!」
「……貴族たちが、こっそりと『携帯用魔導カイロ』を取引しておりまして……」
「カイロだと?」
「はい。銀鷺商会の新製品です。なんでも、廃魔石を使っているのに信じられないほど暖かく、しかも安価だとか。……彼らは『王宮よりも平民の道具の方が優秀だ』と……」
エドワードの顔から、血の気が引いた。
王家の権威失墜。
それが、寒さという物理的な苦痛と共に、明確な形となって襲いかかってきたのだ。
窓の外では、吹雪が勢いを増していた。
この冬は、王家にとってあまりにも長く、厳しいものになりそうだった。
◇
一方、銀鷺商会の本店ビル、最上階。
そこは王宮の惨状とは対極にある、天国のような空間だった。
「……ふぅ。美味しいです」
私はソファに深く沈み込み、湯気の立つ紅茶を口にした。
部屋全体が、春の日差しのような柔らかな暖かさに包まれている。
私が開発した、大型の魔導空調システムのおかげだ。
「お気に召しましたか、リリアナさん」
対面に座るシリルさんが、優雅にカップを置いた。
今日は休日。
珍しく仕事の手を止め、二人でティータイムを楽しんでいた。
「はい。シリルさんの淹れてくださる紅茶は、どうしてこんなに美味しいんでしょう」
「それは貴女が、以前よりもリラックスして味わっているからですよ」
彼は穏やかに微笑み、テーブルの上の皿を勧めた。
焼き立てのスコーンに、たっぷりのクロテッドクリームとジャム。
公爵令嬢時代には「太るから」と禁止されていた甘味も、ここでは好きなだけ食べられる。
「それにしても……外はすごい雪ですね」
私は窓の外を見た。
視界が白く染まるほどの吹雪だ。
「ええ。数十年ぶりの大寒波だそうです」
「王宮の方々は大丈夫でしょうか……あそこの設備、寒さに弱い構造なんです。配管が凍結すると、魔力が逆流して爆発する危険もあって……」
ふと心配になり、私は眉を寄せた。
自分を追い出した人たちだとしても、凍えて苦しむ姿を想像するのは気分が良いものではない。
「ご心配なく」
シリルさんは冷めた声で遮った。
「彼らには『聖女様』がついているのですから。きっと、愛の力でなんとかするでしょう」
「そ、そうですよね。アリス様の祈りがあれば……」
私は納得しようとしたが、シリルさんの瞳の奥に、冷ややかな光が宿っていることに気づかなかった。
「それよりも、リリアナさん。例の『携帯カイロ』の売れ行きですが」
彼は話題を変えた。
「王都の貴族たちから、追加注文が殺到しています。……面白いことに、送り先の一部は王宮の住所になっていますね」
「え? 王宮ですか?」
「はい。公務で登城している貴族たちが、寒さに耐えかねて隠し持っているようです。……皮肉なものですね。王家が『無能』と断じた貴女の技術に、彼らの忠臣たちが縋り付いているのですから」
シリルさんは楽しげにクスクスと笑った。
その笑顔は美しいけれど、どこか背筋が寒くなるような凄みがある。
「あの、シリルさん。……もしかして、王宮の設備修理の件、まだ断り続けているのですか?」
私は恐る恐る尋ねた。
以前、エドワード殿下が直々に乗り込んできたあの日以来、王家からの接触は途絶えている。
「断ってなどいませんよ」
シリルさんはカップの縁を指でなぞった。
「ただ、『正当な対価』を求めているだけです。……金貨一億枚。彼らがそれを支払うまで、我が商会の技術者は一人たりとも動かしません」
「でも、そんな大金……払えるはずが……」
「ええ、払えないでしょうね。だからこそ、彼らは今、身をもって学んでいるのです。『技術』と『信頼』を軽んじた代償を」
彼は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
王城の方角を見つめるその背中は、冷徹な支配者のものだった。
「彼らが凍えようと、飢えようと、それは自業自得です。……私が守るのは、私の商会と、私の大切な従業員だけですから」
シリルさんが振り返り、私を見た。
その瞳には、先ほどの冷たさはなく、蕩けるような甘い色が浮かんでいた。
「リリアナさん。貴女は何も気にせず、ここで暖かい紅茶を飲んでいればいい。……外の嵐は、私が全て防いでみせます」
「……はい、旦那様」
私は頬が熱くなるのを感じながら、素直に頷いた。
この人は、本当に過保護だ。
でも、その過保護さに救われている自分がいる。
かつて誰からも守られず、一人で凍えていた私。
今、私は世界で一番暖かい場所にいる。
「さあ、スコーンが冷めないうちにどうぞ。……ああ、口元にクリームがついていますよ」
シリルさんが身を乗り出し、私の唇の端を親指で拭った。
その指先の感触に、心臓が大きく跳ねる。
「あ、ありがと……ございます」
「どういたしまして」
彼は悪戯っぽく微笑むと、席に戻った。
王宮の人々が寒さに震えていることなど、まるで別世界の出来事のように、私たちのティータイムは穏やかに過ぎていった。
ただ、私は知らなかった。
この平穏な時間の裏で、王家の信用が音を立てて崩れ去り、国中の権力構造が銀鷺商会へと傾きつつあることを。
そして、その中心にいるのが、他ならぬ私自身であるということを。
窓の外で風が唸る。
それは、古い時代の終わりを告げる弔鐘のように響いていた。




